今日の史談会では熊本・益城の万葉人・大伴君熊凝(おおとものきみ・くまこり)について会員のN氏からご紹介いただいた。
高庭駅家跡と濃唹駅跡 はつかいち観光協会・大野支部のサイトから引用
広島県廿日市市
大伴君熊凝は、相撲使いの供をしての旅の途中、安芸の高庭で病に伏し十八歳で亡くなっている。
あさだのやす
その無念の死を悼み、大典職の麻田陽春が二首を詠っている。この話をきいた山上憶良もこれをうける形で六首の歌を詠っている。
この若人の死が、万葉歌人にどう伝えられ受け止められたのだろうか?。熊凝はこれらの人と親しく接したことが有ったのだろうか。
この辺りは詳細を知りえないが、熊凝は死して万葉集にその名を残す結果となった。
N氏の解説によると、益城とは現在の益城町ではなく当時の益城郡(こおり)の国府は現在の城南町であったらしい。
城南町には塚原古墳や貝塚なども多くみられる土地柄であり、隈庄がその中心であったのだろう。
氏のお話によると地元の方々も全然ご存じないようである。また熊凝については純粋の熊本人ではなかった様である。(少々残念)
(以下にご紹介する現代語訳はサイト「万葉集入門」を引用させていただいた。感謝)
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■大典麻田陽春が詠った二首 (大典→律令制で、大宰府の主典(さかん)で少典の上に位するもの。)
ながて ことどひ
・巻五(八八四) 国遠き道の長手をおほほしく今日や過ぎなむ言問もなく
故郷から遠い長い道中に心もいぶせく今日死んでしまうのだろうか、父母に別れを言うこともなく
けやす ひとくに ほ
・巻五(八八五)朝霧の消易きあが身他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り
朝霧のように消えやすいわが身ではあるけれどこんな他国では死にきれないよ。親に一目逢いたくて
■山上憶良が詠った六首
のぼ おくか おもえやま いつ みやこ
・巻五(八八六) うち日さす 宮へ上ると たらちしや母が手離れ 常知らぬ国の奥処を百重山 越えて過ぎ行き 何時しかも京師を見むと思ひつつ
おの いたは たまほこ くまみ たお とこ こ
語らひ居れど 己が身し労しければ玉鉾の道の隈廻に 草手折り柴取り敷きて床じものうち臥い伏して思ひつつ嘆き伏せらく
あ あ よのなか ふ
国に在らば父とり見まし 家に在らば母とり見まし 世間はかくのみならし犬じもの 道に臥してや命過ぎなむ
(一ニ云はく わが世過ぎなむ)
垂乳根
日の輝く朝廷へ上がるとて、たらちねの母の手元を離れ、普段は知らない他国の奥深い幾つもの山を越えすぎて行き、何時になっ
たら奈良の都を見れるかと思いながら 仲間と語らっていたけれど、わが身が苦しいので鉾を立てる道の片隅に、草を手折りて柴を
取り敷き、それを借りの床にして横たえ伏しては、思い嘆いて思うことには、故郷に居たなら父が手を取って見てくれただろう、
家にいたなら母が手を取ってみてくれただろう、世の中はこのようなものであるらしい、犬のように道に倒れて死んでゆくのだろ
うか〔一に云はく、わが命は過ぎるのだろうか〕
おほほ いづち あ
・巻五(八八七) たらちしの母が見ずして鬱しく 何方向きて吾が別るらむ
(故郷に居る)母に逢うこともなく心落ち込んで どこへ向かって私は別れ去るのだろう
いか かりて かれひ
・巻五(八八八) 常知らぬ道の長手をくれくれと 如何にか行かむ糧は無しに(一ニ云はく 乾飯は無しに)
いつもとは違う長い道のりを暗闇の中にどのようにして行こう。食べる物さえないのに〔一は云はく、乾飯もないのに〕
・巻五(八八九) 家に在りて母がとり見ば慰むる 心はあらまし死なば死ぬとも(一ニ云はく 後は死ぬとも)
家にいて母がみとってくれるのなら慰められもするのに。たとえ死んだとしても〔一は云はく、後は死ぬとしても〕
けふけふ あ
・巻五(八九〇) 出でて行きし日を数へつつ今日今日と 吾を待たすらむ父母らはも(一ニ云はく 母が悲しき)
私の出て行った後の日を数えながら今日か今日かと私の帰りを待っているだろう父母よ〔一は云はく、母の悲しさよ〕
ふたたび あ
・巻五(八九一) 一世には二編見えぬ父母を 置きてや長く吾が別れなむ(一ニ云はく あひ別れなむ)
一度限りのこの世では二度と逢うことの出来ない父や母を置いて私は永遠に別れてしまうのだろうか
〔一は云はく、お互いに別れ別れになってしまうのだろうか〕