肉筆保証 桃山~江戸初期 戦国大名 細川忠興(三斎)筆 書簡書状 軸装 古筆鑑定札有 保管箱有
最近「忠興(三斎)公筆」とするものがよく登場してきたが、どれも写しだったようだ。
これぞ三斎公独特の筆跡で、この品については「極」もついている。出だしの値段も高額だが納得できる。
私もずいぶん三斎公筆跡のこうした文書のコピーを収集して、読解に精を出しているが、なかなかすらりとは読めない。
是も又苦労することになる。また、このような品に触れて有難いことではある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・攻軍程なく外郭に竹束を附寄本城を乘らんとする所
に兼て稲富伊賀が傳を受たる鐵砲の巧者矢狭間に控へしが矢頃能成程こそ有透間もあらず打出しければ寄
手の死骸數を知らず附寄たる竹束をば火矢を放つて焼立るにより敵兵城邊に忍び兼て引退くかゝりければ
城兵彌進色をなしける、又寄手の諸將の中に織田上野介川勝右衛門尉山名主殿頭毛利勘八郎杉原伯耆守小
出大和守山崎左馬允生駒左近等は内府公御とがめを憚り又玄旨の一筋なる覺悟を感じて玉なしの鐵砲を打
せて日を送り程を經て八月下旬越中守忠興幽齋へ飛脚を馳て岐阜の城落城したりと告る。玄旨此節儀とし
て三刀谷代下の輩を饗應有其席に於て玄旨申されけるは此度孝和籠城にて勲功を立られし事比類なし越中
守内府へ對し戰功あれば内府定て丹波國を越中守へ與へらるべし然らば彼國に於て上杉梅谷上林山家四ヶ
所凡一萬六千石孝和に揚申さんと有ければ孝和は這般の軍功を内府公へ申彼御家人となし申さんと居べき
を左なくして斯申さるゝは本意なき事と思ひさのみ執着せざりしを彼が顔色を見て是は玄旨が隠居の寸志
なり越中守計らひ有んと挨拶せらるゝなり。天下治りて後豊前にて一萬石孝和へ與へられければ孝和病気
と號して豊前國を退き龜井武蔵守常に懇切成によつて因州へ至り其領地に蟄居せしとかや。去る程に小野
木縫殿介諸將を招き此の城俄に落ちがたし然らば四方の通路をさへぎり味方堅固に陣せば程なく粮盡力盡
て終に軍いさおあるべし怠りなき様に下知有べしと各戒む、
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田邊城における細川方の戦いは、三刀谷孝和監物の働きが大きかったことは言うまでもない。
当事者である幽齋の評価は甚大であったようだが、忠興と孝和の関係はあまり詳らかでないような気がする。
一萬石も拝領しながらなぜ豊前を離れたのか、少々疑問がのこる。
島根県雲南市に「三刀谷史談会」があり、ここから「三刀谷三刀屋監物孝扶・佐方地頭」という小冊子が発刊されいる。
(手に入れたいと思うが現況希望がかなっていない)
しかしながらその内容はサイト「みやざこ郷土資料室」というものがあり、ここで粗方を知ることが出来る(感謝)
是によると、なぜ三刀谷が田邊城に駆け付けたかについては「八条宮智仁親王は、親交のあった安国寺恵瓊を介して三刀屋孝扶(孝和)に救援を命じた。
孝扶は一族郎党五十五騎を率いて田辺城に入った。」とある。細川家資料では伺えない記述である。
またその後の孝和の待遇その他については、「忠興は孝扶の武功に対して三万石を与えると言ったが、孝扶は(孝和)はこれを断った。」とある。
その結果としてここに記されるように又細川家資料に依るように一萬石となったのであろうか。その後は豊後をはなれて、京都の吉田山に住んだとされる。
また八条宮智仁親王の依頼により、後醍醐天皇の息女瓊子内親王が開山であり、八条宮の孫妹が住持である伯耆国の名刹安養寺(米子市)の警護をしたと伝わる。
のち江戸へ出て88歳で没しているが、葬られた場所は細川家も縁が深い東海寺である。因縁めいたものを感じるが如何であろうか。
尚 塙保己一著 三刀谷田辺記はこのサイトでもご紹介しているので、ご覧いただきたい。
私の散歩コース自衛隊の西側道路の反対側には、一部高さ5m・長さ50mほどの土盛りの法面がある。
いろんな四季折々野生植物が生えて、管理も大変なようで度々草刈りが行われている。
つい先ごろ、小さな子を連れた女性が歩いておられたが、お子さんに「ススキ・ススキ」と教えて居られる。
「あ、ススキじゃないョ」と口に出かけたが、名前が出てこない。しばらくしてから「よしあしのよし」だと気が付いたが、出しゃばりはよそうと飲み込んだ。
厳密にいうと「つるよし」という類似種のものらしいが。地下茎を伸ばして繁殖するから、上記法面約50mほどは一面に背高くひろがっている。
「よし」でぐぐると「葦」という字が出てくるが、これは「あし」でもある。「あし」は「悪し」に通ずるから「よし=良し」にしたという嘘みたいな話を聞いたことがあるが、どうやら本当の話らしい。
つまり「よし=あし」である。
実は、ススキによく似た植物に「荻」があるが、どうもこれが区別がつかない。
是がそうですよという対比できる実物に中々お目に掛れないからである。
昔はススキは熊本市内でもここかしこに見られたものだが、私が住んでいる地域でも最近では見かけることが出来ない。
ひょっとすると「荻」であったかもしれないが?
処がこの「つるよし」にはあちこちで出会う。それこそ昔ならこれを刈り取って屋根葺き材で重宝したのだろうが、現在では枯れて火でもつけられると大事になるから、その内にはまた刈り取られる運命であろう。
しかし、地下茎を掘り起こして処分しない限り毎年繰り返しで、余計なお金を必要とすることになる。もっとも法面上には広大な敷地が広がっているが、某飲料メーカーのものらしいから心配には及ばないようだ。
阿蘇の大観峰から小国に至る道路沿いの原野が、今頃になると一面のススキに覆われる。
西日を受け風にそよぐ様は息をのむように綺麗である。
今一度あの景色を見てみたいと思うが、免許を返納した今、誠に不便である。
東門
〇時習館定日之講釈御入之式
一御刻限一時前例之所へ罷出大御目附も一所之事
御刻限の一時(2時間)前に例の所へ罷り出、大御目附も一所の事
一致出席候得者御奉行并御目附助教学校御目附詰間へ出方有之候事
但御立後右同断
御注進左之通
一御供廻 一御殿御立
出席いたせば御奉行并に御目附・助・教学校御目附詰間へ出方有る事
但御立の後も右同断
御注進は左の通り
一御供廻 一御殿御立
一御供廻御注進ニて詰間江御使番参例之通相伺聴衆座ニ繰付候事
但聴衆之坐例之通尤脱劒
御供廻り御注進にて詰間へ御使番参る、例の通りに伺い聴く衆、座に繰付の事
但聴衆の坐、例の通り尤も脱劒のこと
一東門より被為入御奉行已下御出迎例之通御中門外ニ罷出候事
東門よりお入なされ、御奉行以下御出迎え例の通り御中門の外に罷出る事
一御立御注進を承講堂南西之御入側を通り御居間へ之方ニ罷出御次御椽を通り北之御敷出之例之所ニ罷出候事
御立(ご出発)の御注進を承り、講堂南西の御入側を通り御居間への方に罷り出、御次御椽を通り北の御敷に出、例の所に罷り出る事
一御居間江被為入候上元之通退去講堂御入側を廻東之方平日出席之所ニ座着尤毎之座江柱一本丈下り北より横畳五枚目ニ
御前之方を奉向座着之事
但助教之坐者例之所ニ而候事
御居間へお入りなされたる上、元の通りに退去講堂御入側を廻り東の方平日出席の所に座着、尤毎の座へ柱一本丈下り北より横畳五枚目に御前の方
を向い座着の事
但助教の坐は例の所の事
一上江者御控本有之候事
但御入之節者同席之控本無之方ニ申談候事
上(殿様)へは御控本が(準備)有る事
但御入の節は同席(家老)の控本は無く、(事務?)方に申談ずる事
一講釈相済候得者御襖立候ニ付平伏同席ハ直ニ初之通御入側を通御次入口二枚御屏風之脇ニ控居候事
但召出有之候ヘハ此所ニ而御用人より知らせ候尤御定例ニてハ無之
講釈が済めば御襖が立てられるに付、平伏同席(家老)は直に初めの通り御入側を通り、御次入口二枚御屏風の脇に控居る事
但召出しが有れば此所にて御用人より知らせらる、尤も御定例にては無し
付紙
一大御目附ハ堂中みし側御座所之御襖より一間南ニ下り二畳御入側後にて東向ニ座着
但始末ニ御向詰有之
付紙
大御目附は堂中みし側御座所の御襖より一間南に下り、二畳御入側の後にて東向に座着
但始末に御向詰之あり
一御用人者西中之御入側二枚屏風之脇ニ座着之事
但御用人出席御宜段御次番江差図有之御襖明候事
御用人は西中の御入側二枚屏風の脇に座着の事
但御用人出席御宜しき段御次番へ差図有り御襖を明ける事
一御備頭以下出役之面々は帯劒尤座着例之通候事
御備頭以下出役の面々は帯劒のまま、尤座着は例の通りの事
一講師ハ脱劒御前之方を奉伺候事
講師は脱劒のうえ、御前の方を伺いたてまつる事
一夫より御供廻り之御模様見計初之通御敷出罷出御下国後御入御立之節之通夫より詰間へ参退去之事
夫より御供廻りの御模様見計らい、初めの通り御敷出罷出、御下国(参勤帰国)後御入御立の節の通り、夫より詰間へ参り退去の事
一御立跡より出勤奉伺御機嫌候事
但刻限次第ニハ直ニ引取候儀も有之候事
御立(おかえり)跡より出勤し、御機嫌伺いたてまつる事
但刻限次第には直に引取ることも有る事
一講後ニ諸生講尺等被仰付候得ハ同席ハ西頬之座ニ廻り可申候其節ハ猶学監江懸合候事
講後に諸生講釈等仰付られれば同席(家老)は西頬の座に廻り申し、其節は猶学監へ懸合う事
9時過ぎに朝散歩に出た。最近はなんとか4㌔を歩こうと心掛けているが、暑くて躊躇してしまう。
或る所まで歩き、信号次第で直進したり曲がったりしてコースが決定する。今日は都合4.2㌔ 6,180歩と相成った。
「ヘクソカズラ」の事を思い出して某所で二本ほどを手折って持ち帰る。
近所の背戸屋(路地)に入ると、向こうからお婆ちゃんが歩いてくる。
慌ててマスクを準備してすれ違う時、「旦那さんなよう花ば採ってきなさっですな」と声を掛けられた。
何度か見られているらしい。そして私の手元を見て「あら、こらヘクソカズラじゃなかですか・・」「どけ(何処)あったですか?」と畳みかけてくる。
場所をお教えすると、「おとこし(男衆)の花ば採ってきなはっちゅうは珍しかなー」と言われる。
「いやいや」と手を振ってわかれた。持ち帰ってすぐさま花瓶にさして見た。
一応切り口を匂ってみるが、あまり異臭は感じない。どこが匂うのだろうか・・・
残った一本も本棚にでも置こうと、一輪挿しに入れようと思ったら、なんと二匹の青虫が鎮座している。
モンシロチョウの幼虫ではないのか?それに季節外れじゃないのと突込んでみたくなる。
古の人たちは何という名前を付けたのか、迷惑な話だ。茶花に良いと思うがいかが・・・
・・・・・・・・・・・・・・孝和深手蒙りけれども戰死を見て城中に入けるを誰が言ともなく孝和深
手を負て終に果たりと聞えければ玄旨是迄なり自害すべしと有所へ三刀谷城へ入來れば玄旨手を折手思の
外なりと喜悦せらる。内室竝興元の内室もなし孝和に戊樓より見申たり愍れ越中守に見せ申度事なり誰か
ある盃を持來れとある幽齋の曰く三刀谷殿は下戸なりと宣ふにより内室然らば湯漬を進ぜよと有により女
房ども膳を持出湯漬を進ける内三刀谷の曰く今日大橋の邊にて紫縅に小具足着たる若武者いたく相戰ひ敵
の首をも取して覺え候られ共近村申さず候へば姓名を聞ず何人の嫡子何か手柄の若者にて候と語る、興元
の内室曰く今朝より澤田次郎助が女房みえず若武者是にてはあらずやとの玉ふ三刀谷が曰くいかさま若
武者と許り存候へ共仰せられ候へば女にても有べしといふにより幽齋此よしを吟味し玉ふに程なく澤田が
妻を迎へかへるに紫縅の鎧を着て無双長刀をかいこみ家來に打取つたる首を七ッ持せたり。幽齋を初めと
して三刀谷御内室興元が妻も彼が働らきを感じ三刀谷と共に膳を竝べ饗応なし玉ひける。又孝和が下知し
て討取たる首卅餘級かきなければ内室は目を潜め興元の妻澤田が女房を誘ひ内へ入玉ひぬ。其後寄手城を
圍めけれども幽齋妙庵孝和以下更に恐るゝ氣色なく部下二千五百餘人持口を定め身命を捨て籠城すかゝり
ければ寄手の將諸軍士を進め啓發を爭ひ又せめ近付幽齋妙庵持口を巡り敵兵を間なく寄來れども彼付入に
するの氣遣有必突出すべからず弓鐵砲を放て頻りに射すくめ討すくめよ小勢を配り置たれば塀裏手うすき
様なれ共更に危き事なきぞと父子入替て下知せらる。
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ここで注目すべきことは、澤田次郎助女房の働きである。
澤田次郎助については■丹後舊事記・巻之五から(3)「慶長五年八月廿二日竹ヶ鼻城攻之事」(一)で書いたように竹ヶ鼻城攻に
於いて戦死している。夫の無念に替っての働きであろうがまさに女丈夫である。
句集を眺めていたら、高浜虚子の句に「名をへくそ かづらとぞいふ 花盛り」という句があるのを知った。
「へくそかづら」とは何だと思いググってみると、何のことはないいつも散歩の道筋で眺めている蔓性植物だ。
漢字表記すると「屁糞葛」、なんとも嫌な名前だがなんでこのような名前がついたのか、どうやら触れると異臭がするらしい。
スカンク、屁ひり虫(かめむし)の植物編だ。
もともとは「屁臭さ」は転訛したしたらしが、それにしてもそのままではないか。古の人たちの大らかさがうかがえる。
蔓を切って花瓶にさそうかとも思ったりもしたが、やめて置いてよかった。
佐方 細川幽齋
彼吉右衛門は久敷玄旨の側に奉仕して
歌道を學び耳底記にも其名顯はれたる者なれば此籠城に般々探有しや又監物が門外へ出る時久下太郎助人
に先立ち馳出る、此久下は設樂庄市場の生れにて高濱の城主逸見駿河守が一族なり天正の頃市場城に籠り
駿河戰死の後田邊の田家に忍び有けるが古主の仇なる細川に從ひ此時籠城せしとかや。斯て孝和諸兵に力
を附べくや思ひけん攻軍の手竝は能く知たりわが鑓一筋を以敵戎を近なひけん事は大圑扇を以蠅を追如く
ならんと云て後ろを見れば紺屋の内に當り麻野吉左衛門・篠山五右衛門あり、孝和兩人の方へ軍使をはせ此
所へ來て敵を防ぐべしと云送りければ麻野吉左衛門走來り此所を討取べしと雖も孝和更に同心せず然る處
に敵むら/\に進み來るを孝和鐵砲を以先に進みたる敵を討たんとするに立滅せしかば鑓を捕て彼敵に立
向ふ適時佐方庄左衛門横合より鐵砲を以彼敵を打破らんとす、然れども敵兵續て馳せ來りて孝和脇差を抜
て敵兵三人手の下に打潰す彼三刀谷が指たる刀は高麗蔚山に於て孝和戰功有し時宰相秀元より賜りたる文
宗の銘刀なり。孝和に勵まされて身命を惜まず防ぎければ敵此所を引取て町屋の屋根へ上り暫く鐵砲を打
にけり監物以下の城兵土手に伏而鐵砲を避る時に佐方治郎助鐵砲を以どてへ上り敵一人を打取玄旨の家士
突半助に向てあれ見よといへば半助鐵砲を以敵を打つぶす佐方見たるかいへば又治郎助敵一人討倒す半
助又鐵砲を取て立上らんとする時の鐵砲に當て命を損す、やゝ有て敵又寄來るべき様子により孝和玄旨
家士杉山勘之進に向ふて我等が鑓の柄長ければ足下の鑓と取替て得させよといふ勘之進同心せず、我等手
なれたる鑓なれば御免有べしと返言せしに孝和が曰く足下其鑓にて高名を顯し敵の血を鑓に付すは後日に
男を立させ間敷といふ所に鐵砲に當て死す孝和勘之進が鑓を取て其死骸を下人に渡す、かゝる所に藤掛三
河守家士小石新兵衛先途して孝和と鑓を合す數度戰ひて小石既に引色になる、然れども大勢相續て寄來る
により孝和主從玄旨の軍士等命を捨てふせげども大敵なれば終に砦を攻破られて引退く、孝和此時まで返
し合せて敵を防ぐ折節大瀬堪へて畷の上により上りければ敵是にためらふ時油語彦兵衛味方に下知して敵
を折返す。孝和此時かぶと傾きければぬぎ捨んと思ひけれども後難を思ひ鑓に取添て挽旋しけるに幽齋櫓
より是を見て孝和退くに苦勞して退くと見えたり助よと有るより貫井藤之助芭蓮の大指物にて馳來りしか
ば敵是を見て彌攻口を引退く、
〇時習館不時被為入高覧之式
時習館に不時に御入りなされ高覧の式
一御刻限一ト時前例之所江罷出候事
但大御目附も例之通一所ニ罷出候事三家嫡子見習ニ被罷出面々も出席不苦候事
御刻限一時(2時間)前に例の所へ罷り出る事
但大御目附も例の通り一所に罷り出る事、三家嫡子・見習に罷出らる面々も出席苦しからぬ事
一致出席候得者御奉行并助教学校御目附も詰間へ出方有之候事
但御立後も右同断之事
出席いたせば御奉行并助教・学校御目附も詰間へ出方有る事
但御立(御帰り)後も右同断の事
一名付之手控者不時御入之節ハ差出不相成候事
御注進左之通
一御供廻 一御殿御立
名付の手控は不時御入の節は差出に成らぬ事
御注進左之通
一御供廻 一御殿御立
一東門より被為入御出迎例之通御居間北御敷出ニ罷出候事
御奉行助教学校目附御中門外例之所ニ罷出候事
東門よりお入なされ御出迎は例の通り、御居間北御敷出に罷り出る事
御奉行・助教・学校目附、御中門外例の所に罷り出る事
一拝聞之諸生者御入前講堂東之御入側西向ニ幾重も繰付有之候軽輩陪臣南之入側北向ニ例之所へ繰付有之候脱劒之事
右軽輩陪臣之儀定日之講尺ニ御入之節者兼而講堂出席御免之向ニハ御目通不苦候處高覧ト申ハ諸生之学業御試ニ付軽輩
陪丞相聞之儀何程ニ可有之哉と学校御目附江問合候處是又前条是輩ハ不苦由申来候後年疑惑茂可有之記置候事
拝聞の諸生は御入り前に講堂東の御入側に西向に幾重も繰付有ること、軽輩・陪臣南の入側北向に例の所へ繰付あること、脱劒の事
右軽輩・陪臣のこと定日の講釈に御入の節は兼ねて講堂出席御免の向には御目通り苦しからぬ處、高覧は諸生の学業御試しに付、軽輩・陪丞相聞の
こと何程に有るべき哉と、学校御目附へ問合せの處、是又前条是輩は苦からず由申し来ること、後年疑惑も有るべく記置く事
訓導句読師ハ東ノ中之御入側諸生之前ニ座着今日之説教人以下ハ箱段下之方ニ繰付有之訓導句読師習書師各請
前々々より繰出有之候事
御奉行学校目附者西外之御入側訓導之上ニ四本目之柱之元ニ座着之事
但訓導句読師習書御入替ハ例之通候事
訓導・句読師は東の中の御入側諸生の前に座着、今日の説教人以下は箱段下の方に繰付有り、訓導・句読師・習書師各請前々々より繰出し
有る事 御奉行・学校目附は西外の御入側訓導の上に四本目の柱の元に座着の事
但訓導・句読師・習書御入替は例の通の事
一被為入候上例之通御椽を廻り講堂ニ出西中之御入側御次入口二枚屏風外御屏風を左ニ取東向ニ座着大御目附者右手少シ
引下り座着之事
お入りなされたる上、例の通り御椽を廻り講堂に出、西中の御入側御次入口二枚屏風外御屏風を左に取東向に座着、大御目附は右手少し引下り座着
の事
一御見臺ハ南より横畳五枚目一間半之所江始より出有之候事
御見臺は南より横畳五枚目一間半の所へ始めより出し之ある事
一御襖明立ニ大御目附御向詰有之候堂中御覧所より壱間計南ニ寄座着之事
御襖明け立てに大御目附御向詰あれば、堂中御覧所より壱間計り南に寄り座着の事
一御襖明候ヘハ平伏説教人出懸候得者手を揚候事
但御襖ハ南之方迄明東之方ハ明不申候得共是ハ臨時御模様違可申事
御襖明けられれば候平伏、説教人出懸ければ手を揚げる事
但御襖は南の方迄明け、東の方は明けぬこと、是は臨時御模様違う可き事
一上江者御控御本有之候事
但同席之方ヘハ控本無之候事
上(殿様)へは御控の御本がこれ有る事
但同席(家老)方ヘは控本は無い事
一高覧之次第者説教臨時読一部読背誦席書ニて候事
説教人娘一人宛繰出ニ相成堂中ニ入御詞儀夫より脱劒ニて御見臺之元江罷出候尤背誦席者二人組三人組ニ而罷出
候事
但軽輩陪丞ハ無御辞儀無刀ニ而罷出候事
高覧の次第は説教臨時読一部読背誦席書である事
説教人娘(?)一人宛繰出しに成り、堂中に入り御詞のこと、夫より脱劒にて御見臺の元へ罷出ること、尤背誦席は二人組・三人組にて罷り
出る事
但軽輩・陪丞は御辞儀なし刀なしにて罷出る事
一一部読相済御襖建此時平伏夫より御見臺入書道道具取出ニ相成尤詰間へ参候間合ハ無之居続候事
一部読が済み御襖建て、此時平伏、夫より御見臺入り書道道具取出に成り、尤詰間へ参る間合は無く居続ける事
一夫より御向詰座着ニ相成猶襖明候間前条之通ニ候事
席書之人数ニ応し候介添之面々一同ニ罷出毛氈之頭ノ方ニ座着此出様説経人之通ニ候席書出来之上介添より段々
鏡板之上ニ載候事
但以来者両側ニ御屏風立且々張付ニ相成候儀も有之候事
夫より御向詰座着に成り、猶襖明けらること前条の通りの事
席書の人数に応し介添之面々一同に罷り出、毛氈の頭の方に座着、此出様説経人の通りのこと、席書出来の上介添より段々鏡板の上に載せる
事
但以来は両側に御屏風立て、且々張付に成ることも之ある事
一席書等相済御襖立平伏之事
席書等済めば御襖立平伏の事
一召出有無者其節之御模様ニ応候尤被召出候得者例之通罷出候事
召出の有無は其節の御模様に応じること、尤召出されれば例の通り罷り出る事
一御中入有無茂右同断之事
御中入の有無も右同断の事
一夫より被遊御立候付御椽を廻御敷出例之所江罷出候事
夫より御立ち(御帰り)あそばされるに付、御椽を廻り御敷出例の所へ罷り出る事
一御立跡より直ニ出勤奉伺御機嫌候事
但刻限次第ニハ直ニ引取候儀も有之候事
御立ちの跡より直に出勤、御機嫌うかがいたてまつる事
但刻限次第には直に引取ることも之ある事
又或夜攻軍 進士(幽齋室・麝香の妹の子)
の陣中何となく騒出ければ三刀谷孝和急に城を出けるを幽齋信志作左衛門を使者せずして剰へ御邊も爰に
て鑓を合せよと云により作左衛門も力なく三刀谷が備に止りけるを玄旨又子息妙庵を遣して敵附く患なし
平に引取べしと有りけるにより監物終に引返す。或夜孝和又下部を卒して伊佐津の松原に至り佐方與左衛
甲か
門に伏し兵を添へて松原に残し其身は從兵竝玄旨の扶持せられし伊賀田賀の者共を召連て谷出羽守が陣営
に至り忍びの者に火を放させ透間なく切入りけれど出羽守敗北に及びけるを孝和下知して首を取さす、輕
く引て城中に入玄旨は孝和が此夜討を感じて酒肴を送り子息妙庵を以其苦勞を謝せらる。七月廿五日寄て
城近くせめ寄る小野木縫殿介谷出羽守藤掛三河守石川備後守赤松佐兵衛尉毛利甚八郎生駒左近大夫等は
大手へ向ひ、小山大和守前田主膳正川勝右衛門尉毛利民部大輔等は搦手へかゝる、高田河内守別所豊後守早
川主馬首山崎左馬允杉原伯耆守等は海手へかゝる。三刀谷監物敵の有様を見るべき為に大橋の邊へ出て采
女の曲舞を高聲に謡ひければ文句不可なりと嫌ひければ三谷の風は吹くとも山は不動と云處を謡ふて控
へけるは谷出羽守先夜宵揬に合たるを口惜く思ひ部下の者を下知して城戸を攻破らんとするを監物自身鑓
を提げ手の者を勵し暫く寄手をふせぐ、三刀谷與三木門の外へ出んとするを監物與三が草摺を取て引留け
る敵の鑓與三が腕に當て倒れける倒れながら城戸の外へ馳出て寄手と相戰ふ幽齋の家臣村上久右衛門は太
刀打して敵を欺き上羽佐衛門は射藝に名有者成しが弓を以て敵を射拂ひ其外三刀谷が手物命を捨て拒みけ
れば寄手是を退けれども脇より込入孝和跡を犱切けるによつて三刀谷属兵を節度にして引返し敵兵を拂ふ
て城内に引退しに小野木縫殿介又手物を下知して大橋の前へ寄來る、急で大橋を孝和が下知して板一間引
竪か 佐方
放し堅に渡し置たりしが其板を渡り門外へ出んとするを作方吉右衛門三刀谷が男の袖にすがり敵多兵なれ
ば必定御討死と覺えたり敵の位を許り候といへども孝和一向承引せず其身力量ある者なれば吉右衛門が
上帯を取って提其方も鑓をせよと云て彼橋を渡り門外へ出る吉右衛門が曰く譜代の主君は貴公也當時の主
君は玄旨なれば此時に當り討死せる事本望なりといふて敵をふせぐ
〇今晩御禮後来年御参勤之御供被仰付申渡之式
今晩御禮の後、来年の御参勤の御供仰付け申渡しの式
一御供被仰付候面々御次外様共ニ今晩御禮後御用有之候間相滞候様昼之内紙面ニて及達候事
但今晩ハ御次士席以上表者御物頭列已上申渡候尤同道人無之候事
(参勤の)御供を仰付られる面々、御次外様共に今晩御禮の後御用有るので相滞る様昼の内紙面にて達しに及ぶ事
但今晩は御次士席以上表は御物頭列以上申し渡し、尤同道人は之なき事
一昼之内御小姓頭御用人を詰間江呼今晩御礼後九曜之御間ニおゐて申渡有之候段申達候事
昼の内御小姓頭・御用人を詰間へ呼び、今晩御礼後九曜之御間において申し渡し之あること申し達しの事
一夕方出仕之上猶又御小姓頭御用人を詰間江呼今晩呼出置之面々御礼相済候上例之通御間江繰付置知らせ有之候様申達候
事
但御小姓頭江者繰出名付相渡御用人江者其儀無之候事
夕方出仕の上、猶又御小姓頭・御用人を詰間へ呼び、今晩呼出し置の面々の御礼済んだ上、例の通り御間へ繰付け置き、知らせ有る様申し達すの事
但御小姓頭へは繰出し名付を相渡し、御用人へは其ことは之なき事
一御用番一人相滞加番引取候間列座等無之候事
御用番一人滞り加番引取りれば列座等之なき事
一夫より御小姓頭御用人一同ニ案内有之御用番一人落間通毎々御板椽ハ不罷通九曜之御間江罷越此時御小姓頭ハ佐野御間
まて案内いたし候事
但玄猪申渡ハ何連之御間も同席并御奉行御目附列座無之候事
夫より御小姓頭・御用人一同に案内有り、御用番(月番家老)一人落間を通り毎々御板椽は通らず、九曜の御間へ罷り越し、此時御小姓頭は佐野御
間まて案内いたす事
但玄猪申渡しは何れの御間も同席并御奉行・御目附列座之なき事
一御供被仰付候御用人ハ同御間中柱ニ南向ニ繰付有可之候間御用番九曜御間内南之御入側境中之柱之元下より三畳目ニ坐
着申渡候事
但九曜之御間中柱之御間境之御襖居候事
御供仰付られたる御用人は、同御間中柱に南向に繰付之あるべく、御用番九曜御間の内南の御入側境中の柱の元、下より三畳目に坐着申し渡しの事
但九曜の御間・中柱の御間境の御襖居の事
一夫より同御間へ御近習御次組脇以下士席已上繰付ニ相成候右繰付之内ニ御小姓より案内有之候付佐野御間ニ御小姓頭初
着坐之面々繰付ニ相成候間例之處ニ坐着申渡候事
但右之面々毎申渡候節之出處ニ始より繰付有之候事今晩当番并病中之面々ハ同役等より可有通達候家伝書付
夫より同御間へ御近習・御次組脇以下士席以上繰付に成り、右繰付の内に御小姓より案内之あるに付、佐野御間に御小姓頭初め着坐の面々繰付び成
れば例の處に坐着申渡しの事
但右の面々毎申渡しの節、之の出處に始より繰付有る事、今晩当番并病中の面々は同役等より通達あるべきこと家伝に書付
一夫より直ニ鷹之御間ニ御物頭一同ニ繰付相成居候間右同断之事
夫より直に鷹の御間に御物頭一同に繰付に成り居れば右同断の事
一右相済猶又九曜之御間江参懸候得者御用人猶案内有之始之所ニ座着致し御近習一手ニ申渡候尤繰付候様子次第中柱御間
入側江控居候事も有之候事
但右御間中柱より北之様ニ南向幾側も繰付有之候御用人も一人西ノ方ニ罷出居御請合有之候事
右相済み、猶又九曜の御間へ参り懸れば、御用人猶案内有り始めの所に座着致し御近習一手に申渡し、尤繰付の様子次第中柱御間入側へ控え居る事
も之ある事
但右御間中柱より北の様に南向幾側も繰付け有り、御用人も一人西の方に罷り出居り御請合之ある事
一右相済詰間江御小姓より呼御供被仰付候御小姓組等之名附御用番坐にて相渡申渡有之候様申達候御吟味役等ハ御奉行江
右同断御馬方等者御用人江右同断御右筆者御右筆頭江紙面ニて及達候事
右相済み詰間へ御小姓より呼び御供仰付られ、御小姓組等の名附御用番坐にて相渡し申渡し有る様申達せられ、御吟味役等は御奉行へ右同断、御馬
方等は御用人へ右同断、御右筆は御右筆頭へ紙面にて達し及ぶ事
一御請書即晩例之通ニて差上候事
御請書は即晩例の通にて差上げの事
ずいびょうがんや
勢子勇む声なく随兵寒合かな 津々
コロナのせいで今年も藤崎宮の例大祭は中止となった。二年連続の事だが祭り好きの衆には大いに歯がゆいことであろう。
そんな中、朝夕の涼しさがましてお祭りの季節であることを感じさせる。
この秋の例大祭を境に、熊本は朝夕の涼しさが増してくるのだが、是を「随兵寒合」と呼ぶ。
例年だと今の時期、風に乗って祭りに参加する「連」の人たちが、あちこちで追い馬の練習や、ラッパや太鼓を打ち鳴らして気勢を上げているのが聞こえてくるのだが、今年も昨年に続きコロナで取りやめ、静かなものである。
かっては9月15日と決まっていた例大祭だが、最近では暦の休日の関係で定まりがない。
ワクチン接種が功を奏したのか、熊本では感染者の数が減少傾向にあるが、政府の思惑どうりに11月頃に終息に向かうのだろうか。
漸く朝晩はクーラーをつけることなく過ごせるようになる。
「田邊城攻の事」(一) 参考:「田辺城の戦い」
大老奉行の面々大阪に於て評議しけるは丹後侍従忠興近年内府へ親み幼君に對して疎略なれば此度の企
を聞とも定めて内府の味方すべし急ぎ丹後へ軍勢を差向老父幽齋を攻るに於ては越中守玄蕃頭父が艱難を
救はんため其志をひるがへし日頃の科を陳謝せんか若然らずば諸人見せしめの為渠が城を攻略し父幽齋に
腹切らせて丹後一國を治むべし。然らば丹後福知山城主小野木縫殿介を陣將として
生駒左近(雅樂頭陣代) 石川紀伊守
前野但馬守 谷 出羽守
川勝右衛門尉 織田上野介
山名主殿頭 藤掛三河守
長谷川 鍋 高田河内守
毛利勘八郎 早川主馬頭
毛利民部太夫(毛利勘八郎と重複か) 杉原伯耆守
別所豊後守 小出大和守
赤松左衛門尉 山崎左馬介
前田玄以法印
丹後、丹波、播磨の軍勢凡一萬七千人丹後へ發向あるべきとなり(中略)去程に小野木縫殿助の諸將七
月廿日に丹後國境に陣を居翌廿一日田邊より一里此方なる福井山に陣を取小野木は圓立寺を本陣となす是
より先に宮津、久美峯山城をせむる播州立野城主石川紀伊守杉原伯耆守なり。かくて七月廿ニ日より田邊
の軍始りければ京都より加勢に入し三刀谷監物陣頭に顯れ召連來りし一族五百卅人を城兵に差添へ持口を
固め大探馬に出ければ忠興の家士山本三四郎主人の命に叛ひて其頃浪々の身と成しが三刀谷が馬の口にす
がり何卒貴君の手に付て相應の心はせおもあらはしたしといふ、三刀谷孝和許容して三四郎を途中よりも
の見に遣す此時海上をみれば船二艘にて福井の方へ趣く者あり是玄旨の家臣麻野吉左衛門なるが朱の鹿の
角の立ものにて船頭に控へたり谷出羽守藤掛三河守河邊に下由嚴敷鐵砲を打かけるに依而麻野吉左衛門引
色になる、孝和此時三刀谷與三輩のもののみ相添山蔭に隠し先鋒佐方與右衛門二陣佐方平左衛門三陣孝和
四陣油語彦兵衛如此列を調べ閑々と兵を進む、谷出羽守藤掛三河守三刀谷が逼るを見て福井の濱より横合
に馳係る孝和態と一町許引退く敵勝に乘て間荒に馳來りて伏兵の前を通る時三刀谷與三鐵砲を放て突かけ
孝和も返し合せ攻軍を追立首三十餘組打に取て馬を斑す。孝和油語彦兵衛に下知して森蔭に旗を立させれ
ば敵大勢なりとや思ひけん跡より附來らざるによつていよ/\事故なく引拂ひけるとなり。
■桃節山が「肥後見聞録」に記す「ぼした祭」
先にもふれたが桃節山の「肥後見聞録」には、藤崎宮の秋の例大祭に関する記事が見える。以前は加藤清正の朝鮮征伐に由来する「ぼした祭」と呼ばれていたことが、この記述で証明させている。今......
ちょうど一年前に書いた記事ですよとgoo blogさんが毎日連絡してくれる。
かって藤崎宮の秋の例大祭は9月15日と決まっていたが、最近は暦の上で連休を作るためか不定日となってしまった。
この記事のようにかっては通称として「ぼした祭」と呼ばれていた。
これは加藤清正が朝鮮を亡ぼしたとして、「亡ぼした」が「ぼした」になったとされる。
しかし関係者はこの説を認められないまま、この「ぼした祭」という呼称は正式には消えてしまった。
この証明はべつに小泉八雲が明治二十六年九月二十三日、友人に送った書簡に、『没したり、朝鮮没したり』を口々に叫びながら、興味深い馬飾りをつけた馬たちを町通りに駆けるのです。とあるから、これはどうも否定することはできない。
「そういう時代もありましたが、改めます」と言っておけば良かったろうと思うが、市民の中にはいまでも「ぼした祭」として親しんでいるひともある。
「朝鮮を亡ぼした」という由来などとんと忘れてしまっている。
〇玄猪御礼之式 玄猪とは
一玄猪御祝被仰出候段御用人より書付御用番江相達候付佐弐役江相渡候事
玄猪の御祝い仰出されること、御用人より書付御用番へ相達しの事に付、佐弐役へ渡す事
一夕七半時揃二而麻上下着仕之事
夕七つ半(17時)時揃にて麻裃着仕る事
但提灯なし二詰間江相揃候得者宜候事
但提灯なしに詰間へ揃えば宜しき事
一着服者兼房尤上下其餘之色ニて茂不苦候事
着服は兼房(憲法小紋)尤上下其の餘の色にても苦からぬ事
一御小姓頭より案内有之御一門ニ三家より進上之御餅有之候事
御小姓頭より案内有り、御一門に三家より進上の御餅ある事
一同席之御禮ハ鹿之御間ニ而被為受候付入口ニ御屏風かこひ出来御間取諸事年始之通候事
同席の御禮は鹿の御間にて受けなされるに付、入口に御屏風かこひ出来、御間取など諸事年始の通りの事
一御出座被為候上御小姓頭より猶知らせ有之候間御一門初一人宛帯劒ニ而罷出候事
○末之附紙爰ニ附
御出座為されたる上、御小姓頭より知らせ有れば、御一門初一人宛帯劒にて罷り出る事
○末の附紙爰に附
一御間入口ニ而御辞儀無之御向通より直ニ御三方之元ニ進出御餅を取頂戴之仕直ニ右江開引取歌仙御間元之坐ニ而御餅紙
ニ包懐中夫より九曜之御間御椽側江且々参例之通御一門衆始列座之事
御間入口にて御辞儀は無く、御向通より直に御三方の元に進み出御餅を取りこれを頂戴仕、直に右へ開き引取り、歌仙の御間元の坐にて御餅を紙
に包み懐中し、夫より九曜の御間御椽側へ且々参り例の通り御一門衆始め列座の事
一右之通り御一門衆始九曜之御間江下り候ヘハ御上段御間取仕直しニ相成候併詰間へ引取之間合無之候事
右の通り御一門衆始め九曜の御間へ下れば、御上段御間取仕直しに成り、併詰間へ引取の間合は無い事
一御出坐之時例之通平伏仕御一門衆御三方持出候得者手を揚候事
但御向詰等例之通候事
右御禮者御物頭列以上ニて候事
御出坐の時例の通り平伏し、御一門衆御三方を持ち出せば、手を揚げる事
但御向詰等例の通りの事
右御禮は御物頭列以上の事
一夫より御次御礼相始同席者居続ニ座着御一門衆者御次御礼ニハ列座無之候尤退去之御間合無之候へハ居続ニ茂被致由之
事
夫より御次御礼が始り、同席は居続けに座着、御一門衆は御次御礼には列座無く、尤退去の御間合無ければ居続にも致され由の事
一夫より御出座之時諸事例之通候事
付紙
文化五年御在国之節不被遊御出座候付左之通相究候
夫より御出座の時、諸事例の通りの事
付紙 文化五年御在国の節、御出座遊ばされずに付、左の通り相究らること
一御一門衆始御家老御中老迄中柱之御間南之方江列座いたし謁御用人之上御三方一ツ九曜之御間御上段之三方より三畳目
ニ差置候一人宛罷出順之頂戴直ニ南之側之列座之所ニ直り直御三方二上より四畳目二閣候上御備頭御留守居大頭両人完
罷出御餅頂戴御椽頬之様退去各御三方取入候所ニ而御備頭御留守居大頭御礼口より罷出北之方ニ列座相成猶又御三宝五
ツ上より差置候上御役付着座以上五人宛繰出候頂戴御椽頬之様ニ退出之事
御一門衆始御家老・御中老迄中柱の御間南之方へ列座いたし謁、御用人の上御三方一つ九曜の御間御上段の三方より三畳目に差置かれ、一人宛罷り
出順に之を頂戴し、直に南の側の列座の所に直り、直御三方に上より四畳目に閣の上、御備頭・御留守居大頭両人あて罷り出、御餅頂戴御椽頬の様
退去し、各御三方取入れたる所にて、御備頭・御留守居大頭御礼口より罷り出、北の方に列座に成り猶又御三宝五ツ上より差置かる上、御役付着座
以上五人宛繰り出して頂戴し御椽頬の様に退出の事
口之稜々付札
○此儀本行之通候處近年不図脱劒ニ相成御向通より二畳目御礼席にて御辞儀仕方ニ相成候處以前茂本行之通候上玄猪
ハ於公儀茂御辞儀なし二御餅頂戴有之よしニ付御年限中旧被仰付候節帯劒御辞儀なしニ相成度其節申談可奉伺候事
文政三年玄猪御礼之節御在国之時分付紙之通奉窺之処矢張脱劒ニて御礼申上候様被仰出候間以後脱劒ニ而御禮
申上候之方ニ申談其通相決候事
口之稜々付札
○此儀は本行の通りの處、近年図らずも脱劒に成り、御向通より二畳目御礼席にて御辞儀仕るように成りたる處、以前も本行の通りの上、玄猪
は公儀においても御辞儀なしに御餅頂戴有るのよしに付、御年限中、旧仰付られたる節帯劒御辞儀なしに成り、其節申し談じ伺いたてまつる事
文政三年玄猪御礼の節御在国の時分、付紙の通り窺たてまつる処矢張脱劒にて御礼申上げる様仰せ出され、以後脱劒にて御禮申上げる方に
申し談じ其通りに決る事
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【参考】上記「御一門ニ三家より進上之御餅有之」 は下記のことに依り慣例化されたか
(前略)有吉将監立言は京都御屋敷御長屋ニ居候に、御出陳玄猪の日にて、立言餅を祝ひ立出ける時、妻心付、殿にも御祝可然と申て急なる折節故、器物も不有合、山折敷の有けるに乗せ持出候へは、藤孝君はや御馬に召れ候所に、玄猪の餅御祝被成候へと云て差上けれは、御出馬の折節、玄猪は能心付也と被仰馬上にて御祝、目出度御帰陳可被成と仰候、即御勝利なりけれは、御帰陳の上にても猶御賞美被成候、後々まて山折敷にて玄猪の餅差上候事は、段々御領知も重なり、旁以御吉例に被思召候に付、向後無懈怠差上候へとの御意有之候故と (綿考輯録第一巻p57)