津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■決まりごとが醸成する緊張

2021-09-24 08:03:23 | 徒然

「有吉家文書解説」は残すところ三回となった。
誠に細やかな作法が定められており、これは「控」を作って、その場に当たる時には事前に目を通し「予習」も必要であろうと思ってしまう。
何処を通りどこから入り、畳の何枚目の畳の目いくつの場所に刀を置き、どこかを背にしてどこどこの方向に頭を向け・・・どこで平伏をし、どのタイミングで頭を上げるETC・ETC
これは当然三卿家老・有吉家の控えであるから有吉氏がそのような作法で行動をしている、そのことをわきまえて読まなければならない。
その他の人々には又それなりの行動規範があるのであろう。座班が定められているとはいえ、どこに着座すればよいのか戸惑うことも大いにあったろうと思われる。

ふと、お茶のお稽古の場面を思い出した。襖の開け方から、ひざの進め方、道具のそれぞれの位置はまさに畳の目で決められていたが・・・・今ではすっかり忘れている。
しかしそういう決まり事があってのそれぞれの道が成り立っているのだろう。
緊張は格式となっているように感じる。

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■丹後舊事記・巻之五から(13)羽柴越中守忠興濃州歸陣之事(二)

2021-09-23 09:10:15 | 史料

 斯て細川越中守忠興は丹州龜山より十町許北の方馬城村に至り前田主膳正方へ使者を遣し城中を退去な
きに於ては忽攻落し申べしと案内せられける、是より先に幽齋は田邊の城退遁ある頃前田の宰相小池清左
衛門途中へ出向ひ主膳正兼てより内府へ志有らば龜山の城へ御立寄有て給るべしと有により玄旨も所望に
任せられけるが越中守馬城へ着陣の頃幽齋家井戸利跡を龜山に殘し三刀谷監物をめし連て馬堀村に至り子
息忠興に對面して前田主膳正田邊へ發向するといへども我らに内通有たる由幽齋物語有ければ忠興の曰く
然らば主膳正を是へ引申すべしと有に依て玄旨より其旨告られければ主膳正近臣十人許り召連て忠興の陣
へ參向有により幽齋竝に忠興の舎弟與重郎孝之同座にて主膳正利宗忠興に向て福地山の御先手をうけ玉は
り相應の志操をも顯申度と有ければ忠興承引有に依而主膳正は先達而龜山を出馬有其後忠興は福知山に至
り長田野より二分に蛇が鼻より江戸坂へ取りかゝる兵城蛇が鼻へ統卒を出し忠興の先鋒をなやますに依て
竹束を植て城に迫る夜に入ければ忠興の兵士中津海彌兵衛といふ者越中守の下知を受け城邊に至り蛇ヶ鼻
の要害を迫りけるが首一ッ取て馳せ歸る忠興彼が木柵を越て敵に近付剰へ張番の者を討し事を褒美せらる
かの彌兵衛は若州大舘軍中津海村の農夫成が早道輕案人の及ばぬ者成とて越中守扶持し玉ふ或時忠興宮津
の城にて猿樂興行の時田邊へ早道の手柄有爰に略す

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■山の記録・矢部

2021-09-23 07:31:11 | オークション

               山の記録矢部‐肥後藩御山支配役木原家の記録   

             

 このような著作がある事を知らなかった。「肥後藩の御山支配役・木原家」の記録とある。
少々興味がわいて応札してみようと思うが、少々高い。少々マニアックな内容だから応札する人もなかろうと観察中である。

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■有吉家文書解説「年中行事抜粋」(46)五節句御禮之式・2

2021-09-22 17:54:40 | 有吉家文書

  〇五節句御禮之式・2

一、夫より御小姓頭案内有之候得ハ御用番初之通罷出組外以下此着座まゝ一同ニ謁を受元之如入候得ハ右之面々御弓間
  御板椽之様ニ退去之事
     此所右ニ絵図委之
  夫より御小姓頭の案内が有れば御用番初めの通り罷り出、組外以下此着座まゝ一同に謁を受け元の如く入れば、右の面々御弓間御板椽の様に退
    去の事

     此所右ニ絵図委之
一、御礼相済候節ハ御小姓頭佐野御間まて罷出知せ有之候間夫より皆退出落間より多門之様ニ罷通り詰間江引取候
     但御弓之間御椽側ニハ御使番西向ニ列座いたし居其次引下り御目附も一人座着いたし居候得共無構罷通候之事
  御礼が済んだ節は御小姓頭佐野御間まて罷り出、知せ有れば夫より皆退出、落間より多門の様に罷り通り詰間へ引取る事
     但御弓の間御椽側には御使番西向に列座いたし居り、其次引下り御目附も一人座着いたし居れども構いなく罷り通る候事
一、御禮御物頭列已上出仕之事
  御禮は御物頭列以上出仕の事
一、三月四日・五月四日寄合者差止前日翌日之上巳端午之御礼ニ寄合候場も取来相済候依之御備頭御留守居大頭茂月並伺
  御機嫌茂右節句
ニ伺有之候事
     但文化十二年三月四日之寄合より本行之通りニ相極候事
  三月四日・五月四日寄合は差止め、前日翌日の上巳・端午の御礼に寄合の場も取来り済む事、之により御備頭・御留守居大頭も月並伺い、御機
    嫌も
右節句に伺有る事
     但文化十二年三月四日の寄合より本行の通りに極る事
一、九時を承御用聞退出之事五月五日者御備頭御留守居大頭江陣行営并兵粮積帳差通候手数左之通
  九つ時(12時)を承り御用聞退出の事、五月五日は御備頭・御留守居大頭へ陣行営并兵粮積帳差通すこと手数左の通り
一、御備備より陣行営三人一箱宛御留守居大頭より兵粮積之帳連名一箱差上候を御発駕前被遊御下候付其儘政府へ差置詰
  間御下国之年之五月五日御
禮後御用番坐ニて返候手渡いたし候付封印を不用差返候
  右御礼前相渡候儀も有之候前後之内イツレニても不苦候
  御備備より陣行営三人一箱宛御留守居大頭より兵粮積の帳連名一箱差上らるを御発駕前御下げあそばさるに付、其儘政府(奉行所)へ詰間に差
    置き、
御下国の年の五月五日御禮後御用番坐にて返す手渡いたすに付、封印を用いず差返すこと
    右御礼前相渡すことも有り、前後の内いずれにても苦しからずこと
一、同詰間江相見候様坊主を以申趣候得ハ出方有之候事
     但前後如何間違候哉封印之儘返達ニ相成候儀も有之候間左様之儀無之様入念可申事
  同詰間へ相見える様坊主を以て申し趣されれば出方有る事
     但前後如何の間違い哉、封印の儘返達に成ることも有れば、左様のことが無い様に入念に申すべき事
一、今日不参之衆ハ近日寄合之節相渡候併寛政十一年五月五日御備頭清水数馬病中ニて出仕無之候付御用番封印を用同役
  尾藤助次郎江相渡通
有之候様申達候儀も有之候事
  今日不参の衆は近日寄合の節相渡しのこと、併寛政十一年五月五日御備頭清水数馬病中にて出仕なきに付、御用番封印を用い同役尾藤助次郎へ
    相渡通之ある
様申達すことも有る事
一、転役之面々之箱わ直ニ留置申候
  転役の面々の箱は直に留置き申す事

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■丹後舊事記・巻之五から(12)羽柴越中守忠興濃州歸陣之事(一)

2021-09-22 06:48:18 | 先祖附

 羽柴越中守忠興は十五日の戰ひ終つて後領地丹後へ早走りを馳て關ヶ原の戰ひに内府公御勝利の由を告
られけれども老父幽齋田邊の城を退去有しと聞えければ忠興お本陣へ参りて申されけるは先日小野木縫殿
介近國の諸將を相かたらひ某しが領内に亂入仕りたる遺恨あれば福知の將を攻圍み小野木に切腹させ申べ
し其道筋なれば前田主膳が龜山の城をも攻落し申たしとありければ家康公仰けるは足下は此度の先鋒とし
て岐阜竝關ヶ原にて家中の輩骨を折たれば福知山へは別人を遣すべしと内々評定するといへ共申さるゝ處
も理あれば御望に任せ遺恨をはらし玉へと宣ふに依て越中守嫡子與市郎次男與五郎舎弟玄蕃頭を始として
二千八百餘人引ひ福知山へ發向せらる。爰に播州姫路の城主木下右衛門太夫延俊は關東へ志有けるが病氣
と穪して居城に籠りて世間の様子を伺はれけるが羽柴忠興丹後へ發向の聞え有ければ右衛門太夫手の者四
五百を召連れ忠興に出迎ひ丹州へ趣て相應の御忠節申したしと所望有により其旨を家康公へ申上られけ
れば則右衛門太夫を攻軍の内へ加へらる。               
  或説に谷出羽守藤掛三河守川勝右衛門尉等も忠興と一部に成て福知山を攻て丹後へ向へたる罪を補ひ
  たりといへり。

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■身近に迫るコロナ

2021-09-21 08:27:16 | 徒然

 昨日は敬老の日だということで娘がやってきた。部屋に入ってきても大きなマスクを外そうとしない。
三人の孫たちに話が及んだが、長女は大学三年生だがコロナ禍の中対面授業はなく親は学力がつかないだろうと心配している。

そしてバイトに励み、全国に散らばったS高校時代の同級生たちと連絡を取り合い、大学の夏休みの期間中は全国あちこちのコンサートに出かけているらしい。
過日その中にコロナ陰性の人が出て、孫娘は濃厚接触者となった。本人は陰性ではあったが家族ともども所定の日数を家の中で過ごしたらしい。
娘も一週間ほどテレワークで過ごしたらしい。
そんな話を聞いて、大きなマスクを外さないことに合点したことだが、もう十分日にちも経過して安全なのだが気を使っての事だった。
いつもはついてくる孫たちも、気を使ったのだろう娘一人の来宅となった。

娘が、いつまでもワクチン接種を受けようとしない母親に、「次はちゃんと申し込んで、受けなさい」と言ってくれたので、どうやらその気になったようだ。
孫娘の身近にコロナが迫ってきていたことがショックだったらしい。
最近は数字的にはずいぶん下降気味で、今月いっぱいで「緊急事態宣言・まん延防止等重点措置」も解除へと動きがあるようだが、はたしてどうなるのだろう。

まだまだ大いに用心することに越したことはない。


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■有吉家文書解説「年中行事抜粋」(45)五節句御禮之式・1

2021-09-21 06:52:03 | 有吉家文書

御在府年
   五節句御禮之式                        五節句とは

一、御禮五半時揃ニ付麻上下着五時出仕之事
  御禮五つ半時(9時)揃に付麻裃着、五つ時(8時)出仕の事
一、御一門衆同席之内欠席并隠居之使者御用番謁例之通候事
      但五節句ニハ代謁と申儀ハ無之候事
  御一門衆同席(家老)の内欠席并隠居の使者御用番(月番家老)謁例の通りの事
      但五節句には代謁と申すことは之なき事
一、御小姓頭より座付之窺且御備頭等不参之口達年始之通候事
  御小姓頭より座付の窺い且御備頭等不参の口達年始の通りの事
一、右同案内有之御弓之間東御椽通り中柱と佐野御間南御入側二枚杉戸内を北南江建付有之候中柱御間江罷出御敷居内北
  向東頭ニ御一門衆初座着御用人江謁御祝儀申上候事
      但御用人ハ北側西之隅ニ御衝立有之此所より罷出候例之御給仕口ニ候事
  右同案内有り御弓の間東御椽通り中柱と佐野御間南御入側二枚杉戸内を北南へ建付之ある中柱御間へ罷り出、御敷居内北向東頭に御一門衆初め
    座着、御用人へ謁御祝を申上げる事

      但御用人は北側西の隅に御衝立有る所より罷り出のこと、例の御給仕口の事
  五節句御禮中柱御間ニて御一門衆始御家老御中老御用人江謁直ニ居なり之内御用番壱人右絵図之通謁を受九曜之御間
  中柱之御間境之御敷居より三枚目之畳列座より一間計絵図之通謁を請御用人初退出を見て元之座に直り候夫より中柱
  御入側御杉戸明居候所へ参居候得者佐野御間ニ而御備頭御留守居大頭御祝儀を受候儀宜よし御小姓頭より知せ有之候
  間直ニ佐野御間江参御祝儀を受絵図左之通
    (佐野御間此処ニテ御祝儀を受少御備頭等之方向謁受ル御備頭大頭)
  五節句御禮は中柱御間にて御一門衆始め御家老・御中老・御用人へ謁、直に居なりの内御用番(月番家老)壱人右絵図の通り謁を受けえ、九曜
    の御間・
中柱の御間境の御敷居より三枚目の畳列座より一間計り絵図の通り謁を請け、御用人初め退出を見て元の座に直り、夫より中柱御入側
    御杉戸明け居る所へ参り居れば、佐野御間にて御備頭・御留守居大頭御祝儀を受けること宜しきよし御小姓頭より知せ有るれば、
直に佐野御間
    へ
参り御祝儀を受け絵図左の通
    (佐野御間此処で御祝儀を受け、少し御備頭等の方向謁受る御備頭大頭)
  右御備頭御留守居大頭之御祝儀を受候而一先右絵図之通中柱御入側板戸之口ニ引取猶又着座御礼宜段御小姓頭より知
  せ有之候上ニて左之絵図之通御祝儀を受夫より又中柱御入側御杉戸口之様ニ引取居候得者御物頭以下之御礼宜段御小
  姓頭より知せ有之候間又佐野御間江参御祝儀を受絵図左之通
  御物頭以下ハ絵図之通御床之方より二枚目之畳二間を前ニ當座着相済候段為知ニ相見候間直ニ詰間江引取候事  
    右御備頭・御留守居大頭の御祝儀を受けて一先ず右絵図の通り中柱御入側板戸之口に引取り、猶又着座御礼宜しき段御小姓頭より知せ有りたる
    上にて左の絵図の通り御祝儀を受け、夫より又中柱御入側御杉戸口の様に引き取り居れば、御物頭以下の御礼宜しき段御小
姓頭より知せ有るの
    で又佐野御間へ
参り御祝儀を受く、絵図左の通
    御物頭以下は絵図の通り御床の方より二枚目の畳に間を前に當て座着相済めば、知らせに相見えられ、直ニ詰間へ引取りの事
一、夫より御一門衆当代ニても并三家嫡子之見習ニて無之人者直ニ退去ニ相成御用番ハ同御間中カニ直り東より竪畳三枚
  目南より横畳五枚目一畳を右ニ当坐着御物頭一列々々罷出謁候事
      但御用番外之面々ハ始坐着之儘列坐之事
  夫より御一門衆当代にても并三家嫡子の見習にては無き人は直に退去に成り、御用番は同御間中に直り東より竪畳三枚目南より横畳五枚目一畳
   を右に
当坐着、御物頭一列々々罷り出謁の事
      但御用番外の面々は始め坐着の儘列坐の事
一、夫より中柱之御間御椽側ニ懸ケ控居候得ハ小姓頭より案内有之候中柱・佐野御間境御椽側弐枚御杉戸より御用番出佐
  野御間東之御入側を通り御敷居内ニ入南より横畳三枚目座着御備頭御留守居大頭奉行謁を受元之口之よふニ入控居候
  事
  夫より中柱の御間御椽側に懸け控居れば小姓頭より案内有り、中柱・佐野御間の境御椽側弐枚御杉戸より御用番出、佐野御間東の御入側を通り御
  敷居内に入り南より横畳三枚目に座着、御備頭・御留守居大頭・奉行謁を受け元の口の様に入り控居ること

一、御備頭御留守居大頭大御奉行者佐野御間御上段を後ニ当東頭南向ニ座着ニ相成居謁相済直南御椽側東頭同席之列座之
  所より少引下り列座有之候事
      但大御奉行ハ列座無之直ニ退去之事
  御備頭・御留守居大頭・大御奉行は佐野御間御上段を後に当、東頭南向に座着に相成居り「謁」を済せ、直ぐ南御椽側東頭同席の列座の所より
    少し引下り列座之ある事

      但大御奉行は列座無く直に退去の事
         
             ・・続く・・

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■御恵贈御礼・蘇峰の会会誌「蘇峰」

2021-09-20 08:46:51 | 書籍・読書

                                                         

 ながく同好の士により続けられてきた「徳富蘇峰勉強会」が、今年の4月29日「徳富蘇峰・熊本の会」と改組し発会式が行われた。
そして早速会誌「蘇峰」の創刊号が発刊された。ご同慶の至りである。
熊本史談会のN君は、「蘇峰の会」「蘆花の会」「木下韡村の会」等々に籍を置く大の勉強家でもある。
そのN君からこの記念すべき創刊第一号をご恵贈たまわった。厚くお礼申し上げる。
森山淡草先生のすばらしい表紙題字や、小林啓治画伯の雄渾な表紙絵にほれぼれしながら、内容を拝見している。

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■一日楽しみたいと思います「綱利公書状」

2021-09-20 08:12:18 | オークション

                       細川越中守書状幅

            

 宛名は「松播磨守」ある所から、綱利室・本源院(犬姫→久姫)の兄の松平頼隆(頼重・光圀弟)だろうと思われる。
一行目にある「壽光院」とは徳川綱吉の側室・大典侍(おおすけ)であろうと推察される。
何やら「御内證文」という文字があって、何事だろうと思わせている。
今日は「敬老の日」老人は一日、この文章にチャレンジしようと思っている。

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■丹後舊事記・巻之五から(11)「田邊城攻の事」(七)

2021-09-20 06:53:30 | 史料

 此藤孝入道幽齋はいまだ若冠の昔より武を講ずる暇あれば敷島の道に心をよせやう/\年の長ずるに及
びて其器に當れり、源氏物語は九條種道公(御法名東光院)の御直傳を受奉り古今和歌集は西三條實枝
(御法名二光院)より相傳せられ彼古今集一部の秘訣は散位基俊に授られしにより永く二條家の傳受と成
る但幽齋所持せられし古今一部の抄物は為家の筆記成によつて其書の始に祖父頓阿基俊に逢て此集傳受せ
しとは書れしなり斯數なき秘本なるを今度幽齋防戰勝利あらずして城に火をかけ自害せば秘書悉く焼失すべ
             八條宮智仁
し惜しみても猶餘りありとて知仁親王御使大名勘介田邊へ下り彼古今集源氏物語を禁中へ上へしとなり玄
旨貴命背きがたく古今と源氏物語と二部の箱に廿一代集を取添へて八島殿の御使へ渡し其外秘蔵せられし
歌書は封じて箱に納め烏丸光廣卿の方へ遣すとて
    藻 鹽 艸 書 あ つ め た る あ と と め て
          昔 に 返 す 和 歌 の 浦 波
 斯して送り申されし後事なりと傳ふ、又其頃僉儀有て一統に奏し申されけるは應仁の頃東下野守常縁
今集を宗祇に傳ふ宗祇より三條家三世(逍遥院逍明院)を經て今彼秘訣悉く幽齋に傳る左あらば此集武家に出て
重ねて公家に傳りし例東野がためし有は幽齋も又公家へ相傳へ申やうに勅をなし玉ふべきやと有ければ則

禁中へ召れ玄旨は歌道に其名高く旦古今和歌集の傳授は此頃公家にも絶たりしを玄旨幸ひに其傳を繼然ら
ば八條の知仁其頃和歌に志深し苦しからずば彼知仁に傳授せよかしと綸旨有りければ玄旨勅答申上て曰く
下官いまだ若かりし頃より和歌に情をよせるといへども性質が雅來急にして題も辨へ知る所なし中にも古
今集の傳授は其身に應ぜぬ由成しを先師三光院憐をたれて傳置玉ひぬさある未練の能といひ故に和歌の家
にもあらば公家へ相傳へ申さん事いよ/\恐れあれども勅命更に黙止がたし氷は水より出て水より寒く藍
は藍より出で藍より青しと云事あるはたとひつたなき教をなすとも後入道を悟り知るの些の助ともならざ
らんや扨又一師を闇ふして萬義弟路に迷ふとも一鳥一木の名は残るべしとて終に八條殿へ傳授せらる、又
烏丸光廣卿其任に絶たりとてこれも其頃相傳あり時の人八條殿を勅命の傳授と云光廣卿を器量の傳授と云
しなり。
  或説に中院通村卿西三條公國公も其後傳授せられしが公國公へ授けられし書の奥に二度御家に返し候
  と書れしとなり。
 一本に玄旨は諸藝の達人なり寄手の諸將宥めして圍を解へしと勅諚あるによつて諸將丹後を引拂ひ玄旨
を退出せらる勅使は烏丸光廣卿とも又西三條公國公とも記せり、案ずるに若勅使命の趣なればたとひ寄手
の圍を解とも幽齋城を明渡して成がたかるべきか然らば前に顯すごとく徳善院を以て具に勅諚有て其後勅
使を立られたるが實成べし、又烏丸殿西三條殿勅使として田邊下向有事事實なるや丹後國九世戸文殊參詣
有しとて連序の懐紙短冊等其寺智恩寺に有又樗峠より橋立正面の景色眺んと岩瀧浦に船を上げ山伏相傳院
に輿を休められしとて此山伏の許にも光廣卿の短冊に章のものあり。

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■2021年9月17日 6時27分の「NHK・WEB NEWS」から

2021-09-19 16:29:40 | 徒然

 ご厚誼いただいている山梨在住のAA様から、2021年9月17日 6時27分のNHKのウェブニュースをご紹介いただいた。
写真などが紹介されているが、引用は憚れるだろうと思われるから以下のサイトをご覧いただきたい。

      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210917/k10013263731000.html

内容は東大史料編纂所が永青文庫と共同で、細川忠興が書き残した「能」に関する巻物を調査した結果、その紙面が石田三成や古田織部などの書状の反故紙であったことが判明したという。
「石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興に「自分たちは恵まれているのだから、金をため込むのではなく周りに配るよう」説いていて、専門家は押しつけがましいともとれるほど生真面目な三成の性格や人間性がよく表れているとしています。
また、古田織部の書状は、織部を名乗る前の「左助」という名前で「刀を貸してほしい」という趣旨が記されていて、専門家はほとんど残っていない織部の若い頃の書状だとしています。」とある。

その他大変興味ある内容があり、今後担当された村井祐樹准教授による詳しい報告書が発表されるものと思われ「東京大学史料編纂所」のサイトに目が離せない。

 
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■丹後舊事記・巻之五から(10)「田邊城攻の事」(六)

2021-09-19 08:17:16 | 史料

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・爰に前田徳善院は去年より在京せしを頃日
禁中へ召出され細川玄旨の秀頼へ對して疎略なき趣分明なり其子越中守玄蕃頭秀頼に叛くとも是又父が素
意ならんや、然るを天下の爲めと號して這回し兵卒を動す上罪なき玄旨を征伐せば誰か暴逆の甚敷をにく
まざらん幽齋も又強て一城に楯籠は自秀頼をないがしらにするのそしりあらん。次に古今和歌集の傳受
當時幽齋一人なり、かれもし計らざるに命を潰さば數十世の傳來永く絶て偏に和歌の衰となるべし、是に
依而宸襟を惱まし玉ひ彼古今集を召上られ此間叡覧有つれ共口釋なくしては分明ならぬ所ありて此の書有
共無が如し然らば双方和睦して幽齋再び都へ上り此集の流を世に殘さば叡感いかでか淺かるべき幸ひ玄以
は日頃内府に親み深く又秀頼を餘所に見るべき者にもあらねば樂に玄以が辭を信じて和平せん事疑なし急
ぎ此こと思慮を廻らすべしと勅諚有り、雲以法印勅命を蒙りて朝廷を退き急に丹後へ人を遣し勅諚違背し
がたき事あり城中攻軍矢止を相互にせらるべしと云遣し其身は直に大阪へ下り廣島黄門と益田長盛とに逢
て勅命を領れば丹後へ軍使を馳て諸將の圍をとき幽齋恙なき様に御下知有れかしとときければ輝元長盛兩
人共に勅命更に背きがたしさりながら備前中納言石田長束方へ此趣を云遣し重々御自分まで内談すべし
と有により徳善院は歸京せらる。五六日過て徳善院方へ右兩人より使者を登せ先日仰聞るゝ趣何れ共我等
と同心なり但し和睦の古法なれば幽齋丹後の國中を退き四ヶ所の城には小野木公郷指図して番部を置べき
旨貴殿の所存に随ひ此より啓付すべしとなり。玄以法印仰せられけるは宮津峯山久美の城は籠城の始より
捨置たれば其以違亂をいふべきやうなし田邊の城を小野木に渡し剰へ領地を退かん事貴殿明聞せらるゝこ
とども幽齋同心なかるべし然らば田邊の城番は渠が部の者に申付てはいかが候べき重て御差圖を受べしと
なり、使者大阪へ歸て此旨を申ければ兎も角も宜敷様に流説せらるべしと有に依而勅命の趣を其以自筆書
面認め次に自分の口簡を使者の口上に言含め幽齋へ異見せらるなれども暫く同心無量なるに冨之小路中院
両卿を勅使として急ぎ城を開くべきよし、勅命有幽齋背き難きに依而終に田邊を退去有是に依而前田主膳
正彼城の在番を勤む、攻軍の諸將は九月十二日に田邊を歸陣せられしとかや。扨幽齋は田邊を出て丹波龜
山の城に滞留して其後京都へ登り吉田の随神庵に暫らく居住せられければ貴賤親疎の限りなく聲問る人
多き中に先日光廣卿へ玄旨歌書を授けられしに光廣卿其書を深く収めいまだ見玉はざりけるが此時返玉ふ
とて
    明 て 見 ぬ 甲 斐 も あ り け り 玉 手 箱
        二 度 か へ す 浦 島 の な み
    浦 島 や 光 を 添 へ て 玉 手 箱
        明 け て た に 見 す 返 す 波 か な       玄 旨

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■『再考小倉藩葡萄酒事情』追加稿₋「有馬直純」

2021-09-19 06:49:59 | 論考

 今年の3月21日から10回に亘り、ご厚誼いただいている北九州市小倉在住のソムリエ・小川研二氏の論考「再考小倉藩葡萄酒事情」をご紹介してきた。
今般追加稿として「有馬直純」をお送りいただいた。ここにご紹介するとともに過去の稿についても再掲しておく。

   ・■再考小倉藩葡萄酒 (一)ミサ用葡萄酒
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (二)ガラシャの菩提
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (三)キリシタン忠利
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (四)忠興の仕打ち
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (五)藩主と葡萄酒
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (六)御薬酒
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (七)葡萄酒製造法
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (八)キリストの御血
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (九) 真田信之
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (十)結び

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 ■有馬直純

 有馬直純は細川忠利(1586〜1641)と出生と死亡の年が同じであり、二人は生涯の友であった。
先述(九)の真田信之の正室は本多忠勝の長女小松姫で弟が忠政である。
そして直純の継室は忠政の長女国姫(家康曽孫)であり、その妹亀姫が小笠原忠真の正室である。忠利の正室は忠真の妹千代姫という縁戚関係でもあった。
さて、直純の父晴信は著名なキリシタン大名であり、四万石の肥前日野江藩主であったが、慶長十七年(1612)、岡本大八事件により改易となる。
しかし、直純は国姫との関係からか、家康の処遇により父の領地を継承した。
父の改易には直純が関係していたといわれ、『日本切支丹宗門史』に「ドン・ミカエル(直純)は、かねて父の計画を訴え出ていた。そこで公方様(家康)は、顧問官に調査を命じた。陰謀と賄賂の事実は明るみに出された。」
晴信の旧領地奪回工作に岡本大八に賄賂を渡していたが、全くの詐欺であったことが判明した。大八は息子とともに死刑となった。しかし、晴信はこれで飽き足らず、さらに領地奪回工作を続けていた。

「ミカエルは之を知るや、その恐ろしい夫人、並びに左兵衛と共同して、新たに陰謀を企てているものとして、公方に訴え出た。」そして、「死刑の宣告を受けた」のである。 
「恐ろしい夫人」とは国姫であるが、祖父家康と同じく大のキリシタン嫌いであった。「左兵衛」は長崎奉行長谷川左兵衛のことで、直純の領地島原を狙っていたと伝わる。若き藩主に父のことも含めて絵を描いたのは間違いない。

 この年、将軍秀忠は「彼(直純)に棄教して御国に何か一宗を信仰し、家来にも棄教させよと命じた。そこでミカエルは、表面上は公方と同じ浄土宗を奉じ、新たに左衛門左と名乗った。」直純のキリシタン宗根絶の迫害が始まることになる。

「有馬殿は、公方に告発されまいとて目立ったキリシタンを若干犠牲にして、手本を示そうと思った。彼は有家のキリシタン二人を死刑に処し、幾程もなく又一人有馬のキリシタンを現場に処した。」
そして「最も残酷な迫害の舞台は有馬領であった。」(同上、1613年の項)
「聖堂は転覆され、宣教師達は或は追放され、或は逃走した。」(同上)
やがて、直純の異母兄弟になる「八歳になるフランシスコと六歳になるマテオの幼い弟二人を死刑にせよ」(同上)と命じた。

「左衛門佐殿は、やがて浄土宗の仏僧「幡随院」(ばんずいいん)を政庁から連れて来た。彼は、この仏僧に領内の全住民を堕落させる任に当たらせた。しかし、一人として地獄の手先の説教を聴きに来る者はなく、子供らは往来に来ると、彼を馬鹿にするのであった。」(同上、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第二期第二巻)
イエズス会側の記録は迫害者や他宗を悪魔呼ばわりするのが常套手段である。

さて、日本側の『幡随意上人小伝』(文久二年、1862年)をみてみよう。
幕命(家康)により高齢(72歳)にも関わらず名僧であった幡随意上人がキリシタン教化のために江戸から島原へ派遣されたのである。
「怪術を現し巧に人を惑わして政を乱すものあり。吉利支丹耶蘇宗と称す。希くは邦家安寧の為赴いて教導に尽くされ」るために、江戸から直純と台風に遭遇しながらも、上人の「法力」により無事に「肥前国直純の館に到る。乃ち錫を同地の三福寺に掛け夢中感得の尊像を奉安し、四十八日の別行を修し」たのである。やがて、「国中上人の教化に服して正法を信仰するもの続出するに至る。直純その洪化に感じ新たに一道場を営建し上人を請じて創主となし満字山観山寺と称し寄するに荘園百戸を以てす。時に慶長十八年なり」

観山寺は延岡に転封後、二岸山白道寺となり、元禄八年(1695)、有馬清純が越前丸岡藩に移封とともに移る。(現福井県坂井市丸岡町)
慶長十八年とは1613年であることから一致するが、内容は違う。
実際は島原のキリシタン棄教はなかなか進まなかった。24年後の島原の乱からみても多くのキリシタンが潜伏していたことがわかる。

「罪の人であるこの不幸な大名(直純)は、公方様からは始終疑われ、左兵衛には虐待を受け、どうして良いのか分からなかった。」(『日本切支丹宗門史』1613年の項)

ついに有馬の領地を狙っていた長谷川左兵衛は江戸幕府に訴える。

「彼は九月政庁(幕府)に出かける前、ドン・ミカエルがキリシタンでありながら公表することを望まぬこと、また誰もそれを知っていること、並びに内府様(家康)は直ちにこの大名に対して、断然たる処置を執らるべきことを書き送った。」(同上)のである。直純はすべての教会を破却し、八名のキリシタンを処刑したが、効果もなく「家臣五十人の知行を取り上げるだけに止めた。」(同上、1614年の項) 極刑を覚悟しているキリシタンになす術はなかった。

『有馬晴信記』の「慶長十九年七月十三日肥前之国高来郡日野江城ヨリ日向国縣ヘ所替之事」の項に「左衛門佐若輩ニ候條。幾久仕置難申付可有之候。日向国ハ葛木郡(高来郡)ヨリハ所柄能ク候。左衛門佐義御贔負ニ被思召候。一万三千石御加増。先知合五万三千石被下候」とある。
(左衛門佐は若輩である。ずっと難題を申し付けた。日向国高来郡より所替えした方がいいと贔負に思い、一万三千石加増し合計五万三千石となされた)
家康の温情である。直純がキリシタン対策に心労を重ねていたことが、国姫から家康の耳に届いたことは間違いないだろう。旧地は長谷川左兵衛の思惑通りに長崎と併合したことはある意味成功であろう。

「彼(直純)は八月同地に赴いた。彼の先祖は、二十六代連綿として有馬の地を領し、如何なる騒乱にも耐えて来たのであった。神の怒りが、全く情深い計算によりミカエルを改易した。要するに、この放埒な子を家庭の父の家に連れ戻すためであった。」(『日本切支丹宗門史』1614年の項)

慶長十九年七月十三日は西暦1614年8月18日であり、縣(あがた)は後の延岡である。
その後の直純のキリシタンに関する記録はないが、翌年1615年、大阪の陣の後に日向国に入った宣教師がいる。ドミニコ会の司祭ハシント・オルファネルである。
1609年に長崎で信徒組織ロザリオ(聖マリア起因)の組を結成し、特に禁教令後に大村や有馬で顕著に飛躍した。(五野井隆史『イエズス会士によるキリスト教の宣教と慈悲の組』) このことにより聖マリア信仰が育んでいくことになる。

1622年の「元和の大殉教」では、55人処刑されたが、宣教師21人を除いた34人の内21人がロザリオの組員であったことが物語っている。4月初旬に長崎にいたオルファネルは12月初旬まで筑後、豊前、豊後、日向への長途の巡歴をしていた。(『日本キリシタン教会史』)

日向入りの前に豊前中津にいたが、細川忠利の家老久芳又左衛門(くばまたざえもん)の屋敷に身を寄せていた。(同上、1618年忠興により処刑) 実は直純が幡随意上人を招いたり、改宗策を強行していた1613年に、オルファネルは有馬にいたのである。(『日本切支丹宗門史』) 小倉に潜伏することになるイエズス会司祭中浦ジュリアンも有馬にいたことも付記する。
日本人武士に変装したオルファネルは日向に向かった。もちろん、直純と会うためであることは間違いないだろう。忠利の伝言を持って。

時代は下り寛永十七年(1640)八月七日の有馬直純宛忠利書状に以下の文言がある。(『大日本近世史料 細川家史料二十六』)
   御気色しかと無之由二付而、ぶとう酒参度由、我等給あましハ江戸ニ置候而、此方へ持而参給かけ候入物共、
   此印判を口ニおし進之候、事之外薬とハ覚申候、

(顔色が全くないとのことで、ぶどう酒を飲まれたいとのこと。私共が差し上げる余分のぶどう酒は江戸に置いていますので、こちらへ急いで入物と共に持って来ます。この「印判」を口に押しつけるとさらに薬効が上がると思います。)

別の意味で「御気色…」の部分を(しっかりと表に出ないようにして)とも読めるが、肝心なところは「印判」と「口に押しつける」である。神社仏閣の病平癒の札に「キス」すれば、さらに御利益があると言っているのだろうか。残念ながら日本人にはそのような風習はない。

ルイス・フロイス『日本覚書』に「我々は抱擁するのが習わしであるが、日本人は全くせずに、我々を見て笑う」とある。そして、クルス(十字架)やメダイなどにもキスをする。特に被昇天の聖母マリア(像)の衣装へのキスなどは、日本人からみて異様に映っただろう。当時の日本人にも「口吸い」があったが、ニュアンスが違う。キリシタン教本には上品に「いただく」「拝む」「拝する」など使用していた。(米井力也『Predude to a kiss』

さて、南蛮仕込みの「拝む」としたら「印判」はキリシタン関連と考えら、紙、木製なのか分からないが「聖母マリアの御像」ではなかろうか。

  酒をとまり候て能者も御座候、悪者も御座候、如何と笑止ニ存候事、
(酒をやめることはいいことやら悪いことやら如何ですかと(遺憾に)思います) 「酒」が「祈り」とも取れる。

忠利は翌年、寛永十八年(1641)三月十七日に、直純は四月二十五日に没している。
私は死を予感した直純が「痛悔の祈り」を捧げたのでなかろうかと思う。
イエズス会日本司教ルイス・デ・セルケイラの認可の元に配布された『こんちりさんのりやく』(contriçãoポルトガル語=痛悔、1603年印刷) が広く日本人キリシタンに読まれていた。島原発といわれ当然、晴信・直純父子の手元にあったことだろう。
「キリシタン禁制において、270年間潜伏し続けた信徒たちの心の拠り所になったという事実である。」(川村信三『「こんちりさんのりやく」の成立背景と意義』)
同時に神の母とされるマリア信仰も平行していった。

さて、『こんちりさんの利益』は「ゆるしの秘蹟」のマニュアル本であるが、重要な条は「緊急の場合、あるいは戦場に赴くなどして告白を聴く司祭がいない場合は、いづれその機会があれば告白するという覚悟を条件に罪(大罪)をらゆるされる。」とあり、司祭への「告白」がなくても「真の痛悔」があれば「霊魂の救済」が成し遂げらるという。
絵踏、表向きの転宗などは「真の痛悔」があれば、赦されるのである。

父晴信への仕打ち、義理の弟らや家臣の処刑や追放など、キリシタンとしての大罪を心から「痛悔」することにより、人生最後にキリシタンとしてデウス(神)の赦しを求めたのではなかろうか。

「われかつておかせし科(とが)をも陳ぢ奉らじ。ただ罪科のはなはだ重く、しかも数かぎりなき事を白状し奉らせ。しかるといへども、御慈悲わわが科よりも深き御子(おんこ)ぜすす−きりしとの流したもふ御血(おんち)の御奇特わ、わが罪科よりもなを広大にましますとわきまへ奉る也」(「おらしょ」(祈り)『こんちりさんのりやく』)

現代では「御子(おんこ)イエズス・キリストの流し給える御血(おんち)の功徳において、わが罪を赦し給え」となる。
忠利も洗礼を受けているが、直純にとっても「キリストの御血である葡萄酒」は貴重なものであった。

「キリストを信じる者にとって、葡萄酒を飲むことは、感謝を呼び起こすばかりでなく、救いと永遠の喜びの源である主のいけにえを想起させる機会ともなる。」(ブリジット・アン・ヘニッショ『中世の食生活−断食と宴』)

1865年、長崎の大浦天主堂に15名のキリシタン信徒が現れた。応対したフランス人神父ベルナール・プティジャンに、一人の女性信徒が「わたしのむね、あなたのむね同じ」と尋ねた。これは同じキリスト教ですかとの意味で、神父は大きく頷いた。そして彼女は安心したのか。

「さんたまりあさまの御像はどこ」神父はすぐに彼らをマリア像の前に導いたのである。(現在も同じ像)
世に言う「信徒発見」「神父発見」である。
彼らは浦上のキリシタンであった。

奇しくも281年前、その土地をイエズス会に贈ったのが、直純の父・有馬晴信であった。

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■有吉家文書解説「年中行事抜粋」(44)於御城御武器見分之心得

2021-09-18 16:14:29 | 有吉家文書

   〇於御城御武器見分之心得

一御武器夏秋ニ懸取出しニ相成出揃之上御城内方御奉行より見分之儀相伺候間為見分一人罷出候事
 御武器は夏秋に懸けて取出しにあいなり、揃の上御城内方御奉行より見分のこと伺い候間、見分のため一人(家老)罷出る事
一出仕往来之内罷出候間刻限者其時々之模様ニ随ひ前々日又ハ前日御奉行江申達候事
    但御奉行ハ毎出方有之御目附ハ為知不申候得ハ出方無之候事
 出仕往来の内罷り出れば、刻限は其時々の模様に随ひ前々日、又ハ前日御奉行へ申達しの事
    但御奉行ハ毎出方有之御目附ハ為知不申候得ハ出方無之候事
一御奉行者政府江出席ニ相成候付御殿出仕より致見分被候節ハ政府江人を遣知らせ候尤政府出席之節ハ不及其儀候事
    但御奉行ハ先ニ参出迎居候儀も有之一同ニ罷出候儀も有之候事
 御奉行は政府(奉行所)へ出席になるに付、御殿(花畑邸)出仕より見分いたされる節は政府へ人を遣し知らせる、尤政府出席の節は其には及ばな
 い事

    但御奉行は先に参り出迎え居ることもも有り、一同に罷出ることも有る事
一御城内ハ例之通家来一人先ニ立頬当御門より入御役人口より上り候此口者御数奇屋御門内坂上廣キ耕作御門之手前右ニ
 有之口也

 御城内は例の通家来一人先に立ち、頬当御門より入り御役人口より上ること、此口は御数奇屋御門内坂上の廣い耕作御門の手前右に有る口也
一御役人口江者御天守支配頭同道御目附等出迎居候事
    但坊主も先ニ参居候事
 御役人口へは御天守支配頭を同道、御目附等出迎え居る事
    但坊主も先に参り居る事
一夫より直ニ御天守方支配頭案内左手之箱段を上り御家老間と申所ニ通り候此御間ハ屏風を立刀懸出居候事
 夫より直に御天守方支配頭の案内で、左手の箱段を上り御家老間と申所に通る、此御間は屏風を立て、刀懸けが出居る事
一右之御間江致着座候ヘハ御天守方支配頭同所御目附罷出候間一ト通り致会尺茶煙草ハ坊主より出候事
 右の御間へ着座いたせば御天守方支配頭・同所御目附が罷り出るので、一ト通り会釈いたし、茶・煙草は坊主より出す事
一夫より直ニ御天守支配頭一人案内有之御奉行も一所ニ致見分候残之御天守方支配頭以下下役等迄跡ニ付参候事
 夫より直に御天守支配頭一人の案内が有り、御奉行も一所に見分いたす、残の御天守方支配頭以下下役等迄跡に付参る事
一御道具ハ左右前後御間々江有之候間任案内致見分候事
 御道具は左右前後御間々へ有るので、案内に任せ見分いたす事
一小御天守下御具足之間御床ニハ 三齋様御作縫延之御具足并関原御召之御鞍鐙 霊雲院様御召式正之御道具有之候
 此所ニてハ御辞儀仕候上拝見仕候其外御代々様御具足御間内一円幾側茂飾付相成候一々御詞儀仕候儀も難成御道具之間
 タタ通り拝見仕候事

 小御天守下御具足の間御床には 三齋様御作縫延の御具足并に関原(戦いにて)御召の御鞍・鐙 霊雲院様(綱利公)御召の式正の御道具が有る事
 此所では御辞儀を仕て拝見仕する、其外御代々様御具足御間内一円幾側も飾り付け成り、一々御詞仕ることも候成りがたく、御道具の間はただ通り
 拝見仕る事

一夫より一階々々御道具致見分続小御天守江上り候得者 頼有公之御鎧日月之御旗等有之此御間ハ脱劒ニ而拝見候事
    但大小御天守御上段之御入側帯劒御間内ハ脱持居罷通候事
 夫より一階々々御道具見分いたし、続小御天守へ上れば 頼有公の御鎧・日月の御旗等有り、此の御間では脱劒にて拝見する事
    但大小御天守御上段の御入側は帯劒、御間内は脱持居って罷り通る事
一夫より御天守江上り是ハ極りニてハ無之候へも定例序ニ上り致眺望候此御上段江者御道具無之次之段以下ニ御道具有之
 候

 夫より御天守へ上り是は極りでは無いけれども、定例序に上り眺望いたすこと、此御上段には御道具は無く、次の段以下に御道具有ること
一夫より元之御家老江帰り弁当等仕候ハヽ此所宜又休息なしニも夫より御櫓之御道具致見分候長櫓之方ハ御役人口ヨリ右
 之方
之様ニ参り候御間内御天守方御役人局を通り候
 其節ハ皆平伏致居候へも不及会釈尤士席根取等江者見合次第致会釈候儀も有之候左候而諸帰り元之御役人口より引取候
 事

    但此時茂御天守方支配頭同所御目附等出迎候所迄送候間御武具之手入等弥以無油断被心懸旨申達候事
 夫より元の御家老(間)へ帰り弁当等仕つれば、此所宜又休息なしにも、夫より御櫓の御道具見分いたし、長櫓之方は御役人口より右の方の様に参
 れば、御間内御天守方御役人局を通ること

 其節は皆平伏致し居れども会釈にはおよばず、尤士席根取等へは見合次第に会釈いたすことも有ること、そうすれば諸帰り元の御役人口より引取る事
    但此時も御天守方支配頭・同所御目附等の出迎える所迄送るので、御武具の手入等弥以って油断なく心懸けらる旨申達す事
一御座敷内者不及見分候尤致見分度も候得者其段最初ニ御天守頭江申達候へ共御坐鋪支配ニ申達ニ相成居候事
 御座敷内は見分のおよばず、尤見分いたす度もあれば、其段最初に御天守頭へ申達せれば御座敷支配に申達し成り居る事
一供中頬当御門内出入之儀ハ小姓頭記録有之候故略之候事
 供中、頬当御門内出入の儀は小姓頭記録がある故これを略す事
一右之通ニ候へも以前より極り居候格式ハ無之臨時之模様茂可有之候事
 右の通りではあるが、以前より極り居る格式は無く、臨時の模様も有るべきの事
一右風入相済幾日まてニ御取納ニ相成候之段達有之候由引切書巡覧に出候事
 右の風入れが相済み、幾日まてに御取納に成りたるか達があるので、引切書巡覧に出る事

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■入り相いの空

2021-09-18 14:14:21 | 徒然

 10年ほど前「空はただ入道イワシのせめぎあい」という、季語もない、馬鹿々々しい句を作ったことがある。
夏から秋に季節をまたぐ頃の空には、夏の雲(入道雲)と秋の雲(イワシ雲・筋雲など)が併存して、面白い表情を見せてくれる。
ただそんな景色を何とか読みたいと願っての事はまちがいないのだが、力量不足というのは何とも情けない結果となる。

こういう状況の空を「入り相いの空」と形容するのだが、どうもこれは季語ではないようだ。
暮れなずむころを「入り相い」といい、俳句ではよく使われているが、「入り相いの空」は見かけないようだ。

 昨日から今日にかけて九州北部を台風が通過するということもあり、少々身構えていたが、大した風も吹かず、雨も降らず有難いことであった。
朝から史談会の例会の為に外出したが、空は少々どんよりとしていて「入り相いの空」とはいかない。しかし帰るころになるとすっかり良い天気になり、
まだまだ入道さんの勢力が勝っている。
そして今年もあと三か月余、熊本のコロナもずいぶん落ち着いてはきたものの、コロナに翻弄されたこの一年だった。
はたしていつ終息に向かうのだろうか。
「天高い秋の空」のごとく、さわやかにすっきりしたいものである。

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