津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■一年前の記事から

2022-05-24 07:14:44 | 歴史
 
■最近知った二つの事実

 最近知った二つの事実、周辺の史料にはあるのかもしれないが勉強不足で承知していなかった。■沼田家の熊川城退去の事 現在武田元明の家臣であったというM家の先祖附を読んでいる。祖の......
 

 一年前■沼田家の熊川城退去の事■有吉平吉の細川家仕官の事をかいている。その後それぞれに進展があった。

1、沼田家の熊川城は後にここで取り上げたM家=実は松宮家が治めることになったので、松宮氏に依って攻め落とされたものと理解していた。
   処が、沼田家の系図をよくよく眺めていたら、なんと松宮左馬允久住という名前が見え、この人が沼田清延女婿であることが判った。
     左馬允の父が清長であり、清延の長兄・沼田光長が永録八年、將軍義輝生害の時討死したため、主を失った熊川城をせめ代官となったのではないかと考えられる。
 兄弟と雖も相争うのは乱世の世の常である。参考「城郭放浪記・若狭熊川城

2、有吉平吉に関する大阪城が所蔵する史料については、その後購入した「有吉将監」により詳細を知り得た。

歴史の勉強は、資料を読み込んでいると、ふとしたきっかけで絡んでいた糸がほぐれる様に、その大本が見えてくることがある。日頃の勉強を怠らずにがんばれということだと認識している。

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■大きな間違いと大きな収穫

2022-05-23 15:01:45 | 先祖附

 今朝UPした■御侍帳・家紋から考える(21)に於いて失敗をやらかしてしまった。
本来は「氏」とすべきところを「関氏」としたため、該当者がないことにしてしまった。お詫び申し上げて訂正をさせて戴いた。
「か」の項でまとめられているから、「かん氏」であろうと考えた。ひょっとすると「せき氏」かもしれないと思い調べたが弥十郎成る人物がいない。

 今日の昼食後、足を投げ出して椅子で午睡をしようと思い、うとうとする中でそのことを想っていた。
ふと漢字の読み方ではなく、漢字そのものを間違えたのではないかと思い至った。
原本である「熊本藩侍帳集成」の「御侍帳(家紋入り)」を改めて眺めていたら、私が「関」とよんだ字は「」という字の間違いだったことが判明した。
そしてなんと私の「新・肥後細川藩侍帳」においては、この「閌」氏が脱落していた。これは私の大チョンボである。
すみやかに原本を修正したいと思う。
午睡どころの騒ぎではなくなり、まずは「家紋から考える(21)」を急遽修正した。

 漢字の間違いではないかと思ったのは、もし「関」でなけれはと考えた時「閌」ではないかという思いがあった。
実は、私が独立する前に勤めていた建築事務所で、担当ではなかったが、設計したクリニックのオーナーが「閌」様だったことを覚えていたからだ。
大変珍しく思いよく覚えている。「門構えに亢」で「こう」と読む。名前由来ネットによると全国で10人くらいだというから希少種といえる。意味は「高く立派な門。転じて、高く大きいさま。」とある。
そんな貴重な名前が細川藩にあった。そしてクリニックの医院長はまさしくそのご子孫であろうことは間違いなかろう。

 本当に気付いてよかった。侍帳の訂正が行えたことは大いなる収穫となった。



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■菖蒲のお茶会に想う

2022-05-23 12:32:46 | 徒然

 昔取った杵柄で、お茶会に出かけてみたいと思うことがある。
三千家さんには立礼式という、いわゆる椅子式の茶法があるが、私が勉強した肥後古流にはそれがない。
ないが故の古流であり、肥後古流が古利休流そのままの作法を伝承していると所以でもある。
歳を取って膝を悪くし、なおかつタタミの部屋がない生活をしてきたから、もう何年も正座なんてしていないし、出来そうにない。
そうなると、茶会などとても出かけることはできない。
 座法は小笠原禮法が幕府に於けるお規式などで取り入れられると、「正座」となり、ヒエラルキー上座に対する儀礼となると、一般の人たちもこれに倣い固定化してきた。
大河「麒麟がくる」で光秀の母親役を演じた石川さゆりさんが、立膝で座るという時代考証を目の当たりにして、かなりリアルになったものだと感じた。
男性の胡坐(あぐら)がなくなり正座が慣例化されると、武士はいわゆる「居合い」の為の座しかたを考えるようになったという。
つまり指を重ねて座るということは厳禁で、いつも右足の親指を曲げて、右ひざを起こす態勢を作れるような座し方である。
右の片膝を立てると「居合い」ができる。これが武士の座り方であるとお聞きした。
肥後古流のお茶は武士の茶法などとと言われる。茶会で「足がしびれる」などという事は、あってはならぬ事で、修行がが足らないという事になる。

 かっては、お茶も胡坐であった時代がある。茶室が出来、武士は刀を刀掛けにおいて、小さな躙り口から茶室に入らされ、武士も町人もこの世界では分け隔てなく正座で茶を楽しむという、平等を求めるこの仕掛けは、茶の宗匠といわれる有力町人たちの企てであろう。
しかしながら利休を始め、茶人で命を落とした人は結構いる。茶道が許された者たちの特権であった時代から解放されると、大名や有力武士たちは競って茶人のもとに入門するという時代が到来すると、そういう作法を受け入れなければならない。そういう意味では江戸時代に始まりは平和な時代への入り口であったとも思われる。

 6月の第一日曜日には八代の松井家の松浜軒では例年「菖蒲の茶会」が催されていたが、こちらもコロナの影響があったろう。
「未来の森ミュージアム」に出かけて、そしてお茶会に参加するというのもなかなか良いと思うのだが・・・

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■御侍帳・家紋から考える(21)

2022-05-23 06:54:37 | 先祖附

                                             

                                                                              新・肥後細川藩侍帳【か】の部

■萱野宗拝は、御茶道・萱野家の関係者であると思われる。この萱野家は家祖・甚斎が古田織部の弟だと伝えられる。旧姓古田氏。
 200石を領している処を見ると何代目かの当主とも考えられるが、この名前の人物は見受けられない。
(南東59-2 茶・鷹・馬)萱野宗保家の5代目で、分家司馬太の娘を奥方とする宗羽(養子 実・水足左助四男 甚斎)ではないかと推察される。
   萱野正信 五才の時正勝養子となる。幼名庄助。安永三年古市宗円同席にて「極真ノ台子」を調ぶ。
   安永九年家督。寛政六年御茶道頭。文政三年七月没。室・同氏司馬太女。家紋は「丸に丁子右二つ巴紋」である。
 この人物であれば、下記分家の尚太郎とは室を通して義兄弟となる。

■萱野尚太郎は、(南東19-5)萱野司馬太家の3代謙堂のことである。の祖・甚斎の孫市平を初代とする分家であるが、
 代々学問の家として知られる。
 萱野謙堂 名は熈載字は汝庸、尚太郎と称し、謙堂又は英雪と号す。中村雄飛と共に肥藩の二哲と称せらる。最も詩書を善し、
 射、槍、剣、調馬、體術及び茗理、歌道、蹴鞠、謡曲、挿花に至るまで其堂に入る。食禄二百五十石、大阪留守居役たり。
 文化五年正月廿一日没す。享年五十。墓は大阪法雲寺にあり。家紋は「丁子右二つ巴紋」である。  

■萱嶋英介は、(南東17-10)萱嶋儀十郎家の7代目の栄助だと思われる。八代御城付八代御番頭組 百石。
 家紋は「隅立四つ目結紋」である。

■可児弁助は、【青龍寺以来】の家で(南東16-7)可児小七郎家の8代目弁次かと思われる。家紋は「子持ち角に左巴紋」である。

■可児次左衛門は、【青龍寺以来】 (南東16-9)可児清蔵家の6代目・兵内(次左衛門)である。上記・小七郎家との関係は良くわからず、家紋も「 」も全く異なる。

■垣屋弁之允は、(南東16-16)垣屋 保家の5代目「御備頭御留守居大頭組御小姓支配御奉行触御物頭列・御小姓支配定府・大広間御取次
 百五十石」とある。代々定府の家か。家紋は「五つ木瓜紋」

■梶原太郎助は、(南東17-6)梶原源三家の代目・永吉(太郎助)御番方組脇・西山大衛組 三百石
 家紋は「丸に切竹矢筈十字紋」「隅立角に八つ矢筈紋」。大河に登場している梶原景時の梶原一族の家紋も「丸に並び矢」関係性が伺える。  

■甲田茂右衛門は、(南東17-3 この項)甲田 豊家の7代目。家紋・・不詳

■河添善大夫は、(南東61-17 一代御中小姓)河添波文家の6代目である。家紋は「隅切り角に違い鷹羽紋」である。  

甲斐伝右衛門は一代限りか?「細川藩家臣略歴」には名前が見付けられない。家紋は「松笠菱紋」である。

■香山俊助は、(南東17-5)香山三弥家の 4代目、文化元年頃~ 阿蘇南郷郡代、文化十二年四月~ 玉名郡郡代
 文政八年十月~同十一年九月 高橋町奉行。家紋は「隅立角に釘抜き紋」  

■香山庫蔵についても「細川藩家臣略歴」はヒントを残してくれていない。しかし「肥後人名辭書(全)」は次のように記す。
 香山庫蔵 名は正房、調馬師たり。騎を其門に学ぶ者凡そ千余人に及ぶ。文化六年二月十二日歿す。年七十七
 どうやら御馬方(南東59-12 茶・鷹・馬)香山新八家の一族であろうと思われる。家紋は「隅切り角に吉文字紋」 

■菅 市之進は、(南東17-18)菅九十九家の5代目、新之允とも。家紋は「梅鉢紋」、今一つは「丸に桜紋」か?  

■菅 十助は、(南東17-17)菅 十洲家の六代目、家紋は九十九家と同様か?  

■門池弥五右衛門は、(南東17-14)門池群蔵家の7代目、家紋は「杏葉紋」もしくは「茗荷紋」。先祖は田中筑後守(吉政)の家来で、1,000石取りであったらしい。
 先年、外人の旦那さんと来熊、先祖探しのお手伝いをした事を思い出した。  

■門池亀之允は、同上分家(南東17-15)門池三七郎家の4代目、故に家紋も同じく「杏葉紋」  

■角川喜三兵衛は、【丹後以来】以来の (南東17-2)門川大平家の7代目である。
 家紋が面白い。「替り菊水紋」と仮にしておこう。

■蟹江寿右衛門は、(南東16-13)蠏江新次郎家の7代目で宇七郎・七大夫とも。加藤清正家臣・蟹江氏の末か。
   蠏江観遊 名は昭明、字は伯融、壽右衛門と称し、観遊と号す。藩に仕へ穿鑿頭、時習館訓導を勤む。禄百石。
        文久三年五月十七日没す。年九十三。墓は本妙寺中妙性院。家紋は「本文字紋」か?

関 弥十郎については、「かん氏」「せき氏」共に同名の人物が特定できない。
 まずは訂正とお詫びをしなければならない。この人物は   閌(こう)弥十郎氏である。
「新・肥後細川藩侍帳」において、「か」及び「こ」の項のいずれにも記載がないことが判明した。
 但し出典である川口恭子氏の「細川家家臣略歴」にはちゃんと記載がある事を確認した。
 偏に当方の手落ちである。現在原本のチェック・修正をしているので反映させたいと思っている。
 但し、当サイトでの公開は少々時間を頂戴したい。            5月23日14:30修正
 閌 弥十郎は、(南東17-26)閌(門構えに亢)半家の7代茂久(弥十郎・十郎助)のことである。
   家紋は「丸に一つ茶の紋」

 

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■「頓」という文字

2022-05-22 18:05:17 | 徒然

 「頓」という字は、今日ではあまり使われない文字の一つではなかろうか。
「とん」と読み、[訓]では「とみに ひたすら」である。
「とんと駄目だ」というのは「全然だめだ」という事になる。
細川忠興の弟・興元の名は頓五郎、これは「とみごろう」なのであろうと思うが如何だろう。
「ただひたすらに」「健やかに」という父・幽齋や母麝香の想いが見て取れる。

昔の手紙などを見ると、「頓首」などと書かれたものが見受けられるが、「頭を地面に摺り着けるように・・」という意味があるそうだから、へりくだり方が半端なく、もう最近では死語であろうか?
小学校の同級生に「とんそう(遁走)」は「逃げ去るという意味」と聞いて、「豚が逃げた」とずっと思っていたという男がいた。
70年ばかり前の話だが、名前もそして顔も覚えているが、会う機会があればそんな話をしてみたいと思うのだが、卒業以来「頓と消息が知れず」あったことがない。

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■清正に「鹿苑寺殿」と呼ばれた人

2022-05-22 06:37:18 | 人物

 いわずもがな、鹿苑寺とはあの有名な金閣寺の事だが、殿がつくと室町幕府3代將軍足利義満をさす。
処で加藤清正がそう呼んだ人がいる。かっては鹿苑寺金閣の僧であった人が還俗して清正に仕えた下津棒庵の事である。
天正19年清正が領国熊本の家臣、加藤喜左衛門・下川又左衛門に宛てた36条に及ぶ書状の中に次のようにある。
「鹿苑寺殿可有上洛之由被仰候共、清正近日令下国間相留可申事」
「鹿苑寺殿(下津棒庵)上洛あるべきの由仰せられ候共、清正近日下国(帰国)せしめ候間、相留め申事」とある。

 もう10年ほど前になろうか、京都の京丹後市峰山町丹波の相光寺のご住職・西田承元師から突然ご連絡をいただき、「下津棒庵なる人物が金閣寺の出身だという事は事実なのか」というお問い合わせを頂いたことがあった。
間違いない旨を御返事し、下津家の関係者にもその旨をご連絡したことがあった。
師のご指摘は「金閣寺では還俗ということはありえないから・・」という事であった。
このご縁があって、今日もご厚誼をいただいている。

 先に書いたように、清正は棒庵を「鹿苑寺様」と呼んでいる。金閣寺に修行された御坊様という事での敬称であろう。
日蓮宗の信者でもあった清正は、相国寺とは深いかかわりを持つ。鹿苑寺金閣はその相国てらの山外塔頭である。
そういう関係で、かっては公家(久我家)にうまれ、鹿苑寺金閣の僧であったを熊本半国の領主となった清正が招聘してたのである。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」によると、たびたびその名前が出てきて、「御納戸」(財政、出納)方をまかせられ、お城の建設、町人町の計画などに深くかかわるとともに、善蔵たちを安土城や大阪城の見物に連れていったり八面六臂の活躍である。
当サイトでは、「時慶記による下津棒庵」として、慶長期のある時期の下津棒庵の行動をご紹介してきた。
棒庵は加藤清正の外交を担った人物だとよく言われるが、まさにそのことを表している。
棒庵坂にその名を残し、また清正亡き後の加藤家内の騒動「牛方馬方騒動」の仕掛け人でもある。
色々なところで名前を残した怪僧ともいえる。その子息は細川家にも召し出された。
又、御一方は東久世家を創家した。
大変親しくご厚誼いただいている、熊本史談会で色々お世話になった下津さまも、ご子孫のお一人である。

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■街角の風景「小さな御社建設中・・」

2022-05-21 16:35:19 | 徒然

 熊本市民会館の西隣に山崎天神がある。「茶臼山ト隈本之図」にも記載がある古い御社である。
今朝、熊本市史談会の5月例会に出席のために前を通っていたところ、小さな御社が建設中であった。
明日で終了する「くまもと花と緑博」の会場の喧騒も感じられるそんな街中である。
もう八分ほどの完成度であら方の姿を現している。大工さんの仕事が終わり、屋根が(多分銅板葺きだろう)葺かれると完成である。
見事な檜造りで宮大工さんがお一人で作業をしておられたが、傍で眺めて居たい気持ちにさせられた。
私は建築設計を生業にしてきたが、このような寺社建築は門外漢である。
しかし歴史に親しむにつれて、こういう寺社建築や御城の建築などに大いに興味をそそられている。
熊本県立図書館の構内に、細川忠興が一色某(希首座)を殺害した事に関係する御社があるが、この建物も見事な仕事ぶりが伺えるが、今日拝見した山崎天神の御社も同じくらいの大きさで作りが大変良く似ていた。
現代においてはちゃんとした設計図があるのだろうか?ちょっと聞いてみたい気がしたが、お手を休めるわけには行かないので諦めた。
来月の史談会の折には、完工していることだろう。写真でも撮ってご報告したいと思う。
CADをつかって設計図に起こしてみたいという欲望がふつふつとしている。

                  参考: ■希首座を祀る祠  ■綿考輯録から「希首座」事件

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■御侍帳・家紋から考える(20)

2022-05-21 06:55:41 | 家紋

                           

                                                  新・肥後細川藩侍帳【か】の部

加来佐左衛門は、(南東19-9)加来煩平家の3代目・佐左衛門(五百石 御留守居組・大組附 屋敷・内坪井)
 初代佐左衛門の次兄・三七(兵右衛門)は細川三斎の養女・御三(細川行孝室)の父であり、八代時代の側室・立法院(いせ)は姉に当たる。姪の「御三」を養育した。
 家紋は「菊輪に巴紋」、もう一つは「隅切り立角に杏葉紋」これは豊後大友一族であることを示している。

     加来兵右衛門----+----三右衛
            |
            +----三七---------お三(細川三齋養女・後細川行孝室 源立院)
            |
            +----いせ(細川三齋側室・立法院 お三を養育)
            |
            +----佐左衛門----宇左衛門----佐左衛門  

加来三右衛門は、上記佐々右衛門の長兄である。上記加来煩平家の初代・佐左衛門が名跡を相続したものと思われる。
 家紋はまさに豊後大友一族であることを示す「杏葉」であり、今一つが「巴紋」である。家紋からも嫡家であることが判る。

加藤恒雄は、(南東18-21)加藤民七郎家の7代目(御掃除頭・御掃除御奉行触 百五十石)である。
 下って深水家からの養女・田鶴は細川護久の生母(齊護側室)である。家紋は「巴紋」である。 

加藤伝之進は、(南東18-19)加藤傳次家の5代目である。初代は田邊上に籠城した金山下坊、2代才助が幼少であったため後家に50石が与えられた。
 成人の後才助が50石を拝領、細川家肥後入国後すぐに佐敷詰となり、代々佐敷詰である。
 家紋は「一に巴紋」である。  

加藤左兵衛は、(南東18-20)加藤閧男家の5代目・左兵衛(信五左衛門)である。家紋は「下り藤」及び「亀甲に■■」  

加々美八右衛門は、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の一族・加々美氏の人物だと考えられるが、名前が見当たらない。一代限りの人か?
 家紋は小笠原家の家紋「三階菱紋」である。

加々尾市右衛門は、(南東17-12)加々尾市郎家の7代目・源蔵(市右衛門)嶋田四郎右衛門組・御番方三番組 二百石である。
 家紋は「丸に一文字紋」 

嘉悦惣右衛門は、(南東16-1)嘉悦平馬家の7代目で、御使番・御中老支配 三百石。家紋は「 ? 」「船紋」

嘉悦      この人物は名前が記されておらず不詳。

狩野四平太は、(南東17-1)狩野庄馬家の8代目で御番方・続繁弥組 二百石。家紋は  

狩野太郎大夫は、(南東17-22)狩野源内家の5代目・兵大夫(三男 太郎太夫・太郎兵衛)二百石当時五百石である。
 家紋は「二つ巴紋」である。狩野源内の三男が昭和19年に文化勲章を受章した狩野君山。細川護貞さまが師と仰がれる人物である。 

辛島才蔵は、(南東17-25)辛島彝蔵家の時習館教授・辛島えん井である。御鉄炮三拾挺頭・惣教支配・時習館教授 三百石内二百石御足高。
 名は和雄、一名憲、字は伯彝、才蔵と称し、エン井と号す。幼にして穎悟、数歳にして句讀を受け大學を背踊す。長じて草野潜渓に学ぶ、
 後時習館訓導となり又江戸にして大府の命を蒙り經を昌平黌に講ず。藩臣此の栄典にあずかるもの薩(摩)の赤碕海門、芸(洲)頼春水
 等数人のみ、後進んで時習館教授となる。所謂六教授の一人也夙に程朱を信し、忠君憂国の念終始一の如く、又親に事へて孝養を極む。
 天保十年二月廿三日没す。年八十六。墓は万日山
 家紋は「三角に丸紋」  

辛川直部は、 (南東16-10)辛川弥五作家の7代目、御前様御付・御裏方支配頭之支配・御前様お付、御裏付兼帯 百五十石。家祖の九兵衛は後藤又兵衛の縁類だとされる。家紋は「陰蛇の目紋」

辛川甚平は、同上一族、(南東16-12)辛川一二家の5代目で養子である。家紋「同上}   

辛川文平は、同上一族、(南東63-125辛川喜八郎家の5代目である。6代目・喜八郎の代「御知行被召上候 文政十二年七月 御擬作高百石」 
 家紋は「同上」
 

辛川充弥太は、同上一族、(南東16-11)辛川孫四郎家の7代目である。息・孫之允は文政十二年七月~文政十三年九月 飽田詫摩郡郡代
(上、下益城郡助勤)、文政十三年九月~天保七年九月 芦北郡郡代、安政元年四月 ~安政五年二月 奉行副役、安政五年二月 ~
 安政六年十月 奉行 在任中に死去した。家紋はこちらは陽の「蛇の目紋」である。  

鏡 清三郎は御船頭頭の家、(南東58-5 船)鏡栄次郎家の7代目、御船頭之頭・鶴崎御番代触である。
 初代善右衛門は「御船手惣奉行」を務めた。家紋は「丸に上文字紋」村上水軍の関係者か、今一つは「丸に工文字」の陰紋か。

萱野九郎助は、(南東17-9)萱野 食(クロオ)家の7代目・只之允(九郎助)である。
 家紋は少々判りにくい。「隅立角に二つ巴紋」か  

 

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■白い花、観察記録

2022-05-20 09:15:52 | 徒然

  

         

 以前「散歩土産」で頂戴してきたザクロ状の種が沢山入った3㎝ほどの玉を、大きな鉢に植えてみたら、数日前から花が咲き始めた。
丈は65㎝程に伸び、10㎝ほどの鞘からさらに10㎝ほどの高さで花をつけている。直径も10㎝ほどでまことに短命な花で昼過ぎには萎れてしまう。
花は10センチほどの高さと書いたが、実は鞘の中で見えない部分があり実際は20㎝ほどの長いものである。右下の写真が咲く前の状態、これが咲くのは明後日くらいか?
今朝ほどは二輪が咲いている。左下の写真の右下の部分、頭を下げているのが花が落ちた後の鞘の部分、これがあの丸い種を沢山抱えた玉になるらしい。
実際は相当数の目が出たのだが、元気の良い二株を残して抜いてしまった。この位が九寸鉢には丁度良かったようだ。
厚さが増す今から、早朝の白い花はすがすがしい。
いろいろ調べているが花の名前がまだ判らないでいる。

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■御侍帳・家紋から考える(19)

2022-05-20 06:48:44 | 家紋

 忘れていた訳ではありませんが、「御侍帳・家紋から考える」を再開することに致しました。
最終回は■御侍帳・家紋から考える(18)でしたから、1年11ヶ月ぶり、19回目としての再開

        

                                                                    新・肥後細川藩侍帳【か】の部

河田大助 (南東19-7)河田平八家の3代目である。初代吉大夫は(南東63-102 *)河田源十郎家の4代目で郡奉行
 等を務めた八右衛門の子で分家したものと思われる。兄と思われる八右衛門の子・源十郎は「御知行被召上候 明和六
 年十月 高百五十石 貶」という記事が残る。何があったのか絶家となった。そのために弟の創家が認められたのか、
 不詳。家紋は「隅きり平角に毬挟み紋」

河井藤兵衛 (南東17-24)河井藤八家の4代目である。天明六年八月~文化九年二月にかけて、阿蘇南郷・合志郡・宇土
 郡・山本郡・合志郡などの郡代を務めた。家祖は阿部守殿助と有る。御小姓組に属し「寛文四年六月・御侍帳」では
 「有吉有吉内膳組 五百石」と有り、又 「寛文十二年八月二日 乱心」ともある。なにが起こったのか不詳。
 そのため、河田姓となったか?。家紋は「角に松皮菱紋」

河本小四郎 (南東59-11 茶・鷹・馬)河本眞左衛門家の4代目である。5代目以降は、御馬方や馬術師範を拝命して
 いるが、小四郎については現況不明(先祖附未確認)家紋は、「丸に木文字紋」か?

川崎作之允 (南東17-20)河崎作十郎家の4代目・作之允重光、正時(養子 実・塩山仁右衛門末子 作左衛門)
 (1)二百五十石 御番方七番組御小姓組五番 屋敷・内坪井(2)歩頭 二百五十石とある。
 家紋は 「 」「 」

兼松七右衛門 (南東19-8)兼松市之允家の四代目七十郎(七右衛門)か?宝暦12年の「兼松七十郎拝領知行」が残るが、
 代々七右衛門を名乗っており、確定できない。家禄800石だが、その出自については現況勉強不足にて不祥。 家紋についても「 」

兼坂藤右衛門 (南東19-4)兼坂淳次郎家の三代目、藤右衛門・定輝、正徳三年六月(御弓廿挺頭)~正徳五年十月
 中小姓頭、正徳五年十月~享保八年 小姓頭、享保八年~享保十七年六月 番頭、享保十七年六月~延享三年八月 用
 人を務めた。700石。家紋は「隅立て角に流鼓紋」

兼坂甚次郎 詳細不明兼坂藤右衛門一族か、 家紋「四つ目結」

金守彦助 500石とあるから、(南東19-6)金守(森)彦十郎家の人物であろうと思われるが、初名か、詳細不明。
 家紋は「毬挟み紋」

金森七太夫 (南東17-19)金森七九郎家の人物であることは間違いないが、人物の特定が出来ない。
 家紋は「加賀梅鉢紋」か?

金津孫四郎 ガラシャ夫人に殉死した金津助次郎の嫡男の家・【丹後以来】(南東18-17)金津十次郎家の人物に間違いないと思われるが、 7代孫太郎・正澄のことか?
 家紋は「将棋紋(ふ駒紋)」だが、ガラシャ夫人に殉死したことによる忠興公からの拝領紋と言われる。「一名・金成り紋」
 今一つは助十郎家同様「一文銭」紋である。

     助十郎---+--助次郎---+--助次郎---十次郎---十次郎---十次郎---貞之允---孫太郎----略(十次郎家)
         |     |  
         |     +--又助----左次兵衛---又助---------略(又之允家)
         |
         +--又十郎----助十郎----又十郎----助之進---又四郎---助之進---文次---助十郎---略(十郎家)

金津助十郎 ガラシャ夫人に殉死した金津助次郎の次男の家・【丹後以来】(南東18-18)金津十郎家の8代目である。
 家紋は「丸に今文字紋」及び「一文銭紋」である。
 「将棋紋(と駒紋)」だが、忠興公からの拝領紋と言われる。「一名・金成り紋」
 *ご子孫からご連絡をいただき、この紋は次男家が拝領されたとの事である。 5:25加筆修正

金子貞次郎 (南東16-2)金子五象家の8代目、御番方・斎藤勘助組 百五十石。家紋は「丸に三角」?(正式の名前をご教示いただきたい。)

金子作助 (南東16-24)金子惣十郎家の6代目もしくは8代目が特定できない。家紋についても不詳。(  同上  )

上月八右衛門 (南東18-3)上月半下家の7代・小吉郎(八郎右衛門)八右衛門トアル (1)御使番 九百五十石  (2)千石取り
 寛政十一年七月~文化三年十二月 中小姓頭、文化三年十二月~文化四年十一月 小姓頭、 家紋は「 」

上月十郎大夫 (南東18-4)上月 寿家の 5代目・十郎(十郎大夫・平次右衛門) 御物奉行 五百石である。
 家紋は「丸に石畳み紋」?

上妻軍太 (南東16-3)上妻覚三家の6代目、家紋は「隅立角に傘」「丸に滕(ちきり)紋」 

上妻新右衛門 (南東16-4)上妻新右衛門家の4代目、 家紋は同上

上林軍助 【丹後以来】の上林甚十郎家(南東16-6)の7代目・猶次郎(軍助)である。家紋は「林文字紋」今一つは良くわからない。

上林源太左衛門 田邊城に籠城した井沢助兵衛を家祖とする(南東16-5)上林甚九郎家の10代目・次郎大夫(源太左衛門)御鉄炮十挺頭 旧知二百石 である。家紋は「隅きり角に林文字紋」今一つは良くわからない。    

  

     

  
     

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■藤見と洒落てみましたが・・・

2022-05-19 16:08:41 | 徒然

 近所の錦が丘公園の藤棚がさぞかし綺麗だろうと散歩がてら出かけました。
テニスコートで楽しむ人やら、子供さんと遊ぶ若いお母さんやら、約1㌔程の周回走路を走ったり速足散歩を楽しんだり、いろんな人たちが集まって賑わっています。
20平米ほどはありそうな藤棚は、葉っぱと蔓が伸び放題で、花が見えません。「何という事でしょうか・・?」
よくよく眺めましたが、花芽がまったくなくて今年の藤見は駄目のようです。近くに枝が切り落とされていましたが、時期が悪かったのでしょうか。
市営の立派な広い公園ですが、管理が行き届いていない感じです。選挙前には走り回っている市会議員さんに足手見ましょうか・・・?

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■熊本城築城当時?の「えいとう(永棟)節」について

2022-05-19 07:09:03 | 熊本

 熊本県甲佐町の文化財探訪に「地突き歌」という項目がある。その記事には

船津山口の松ノ本共同墓地に「松本新兵衛之墓」があります。墓標には「音頭司 松本新兵衛之墓」と記されています。明治10年(1877年)西南の役において傷んだ熊本城を補修する際、(甲佐町)船津山口出身で、明治30年(1897)78歳で亡くなった松本新兵衛氏は熊本城修復の「土突き」の音頭司(頭領)だったそうです。その遺徳を偲んで弟子たちにより建立され、寄進者には本町の人のみならず御船町、美里町の56人もの人名があり、人徳の深さがうかがわれます。」と有る。

 一方、「白秋の黄昏」というブログには、

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■開館時間を間違える

2022-05-18 12:41:03 | 徒然

 図書館に借りた本を返却するするために、涼しいうちにと朝から出かける。
8時半開館と思い込んで出かけたら、9時半開館という事で30分待ち、時間つぶしに江津湖畔を暫くサイクリング・・・。
そして緑陰にしばし時間つぶし・・・
今日はコピー目的もあって郷土コーナーで36枚のコピーをする。

   (1)・鈴木喬著「肥後宗氏一族の盛衰」 著作権の関係で半分だけ(後日後半部をコピー予定)
   (2)・史叢・第11号の内、松野国策著「熊本城築城地搗音頭(一)」
   (3)・史叢・第12号の内、松野国策著「熊本城築城地搗音頭(二)」

(1)の「肥後宗氏一族の盛衰」は著者の鈴木先生から頂戴して所蔵していたが現況行方不明、25枚をコピーする。
(2)及び(3)は、熊本城築城当時の地搗音頭「えいとう(永棟)節」を知りたいと思ってのコピー11枚である。
  著者、松野国策先生の長年にわたる収集活動の成果である。今となっては本当に貴重な資料となった。
  そして、築城時の風景が見えるような、ひょうきんで豊かな歌詞が貴重に思える。
  いずれご紹介したいと思う。

傘寿爺様のサイクリングも、足元のおぼつかないこと凄まじく、大いに限界を感じながらも帰宅する。疲れた・・・・

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■御大工棟梁善蔵が語る、清正の熊本城築城

2022-05-18 06:23:05 | 史料

 「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」を注意深く読むと、清正の築城までの行動が見て取れる。
清正は天正16年閏5月、肥後の国に於いて194,916石を拝領して、肥後半國の領主となった。佐々成政の失政・切腹に伴う秀吉の判断である。
清正は、入国後当然ながら隈本古城に入城したであろう。
上記「聞覺控」によると、清正は「お国入りのずっと後」に巡見して、城に適した場所を見て廻っている。
  ・「初めは杉島に目をつけなされた・・」が「摂津守の方向」だからお止めになったとある。
   杉島とは現在の南区富合町杉島だが、かっては加瀬川と緑川に挟まれて中の島状をなしていた。
   加瀬川の対岸は河尻、加藤時代・細川時代を通じての湊町である。
   大渡の渡しは急流の激しいところであったらしい。小西行長の宇土城までは直線距離で7㌔弱である。
  ・また、「府中(国府があった二本木地区)が狭い」ので、隈本古城に近い現古町地区に町を移している。
   そこで新城築城の場所は「とどの最後の場所が茶臼山だった」とする。隈本古城を整備するという雰囲気は見て取れない。
  ・清正は善蔵に「安土城」「大阪城」などの調査を命じる。そのためこの聞覺控の編者・善三郎の父を帯同している。
   案内役は清正の懐刀で納戸方(財政・出納役)の元公家の下津棒庵である。
   尚、善蔵と善三郎の父は、高麗陣にも出陣して、地元の城をつぶさに調査して「図引き」をしている。
  ・町の図引きは下津棒庵、お城の図引きは岩野の武家岩野嶽道祖城主)宗久隆が担当した。
   これらの図を清正・飯田覚兵衛・森本儀太夫らが検討した。
  ・お城の場所が茶臼山に決まると、「山の地均し」が始まった。
  ・慶長3年からお城の「建て方」が始まった。今日ではこの資料から、熊本城の築城開始は慶長3年だとする研究者が多い。
   但し「建て方」とは、土台の取り付けから棟上げ迄の一連の大工工事を指す。

   一方元の城(古城)から「引き直し」なされた。古城の天守を曳き家したのではないか?
   小天守か?
  ・慶長4年正室清浄院(清正養女)を娶る。慶長5年、石田三成の人質としての大阪入城を避けるために大坂を脱出。
  ・慶長5年、関ケ原の戦い。清正は隈本に在って宇土城攻め・石垣原の戦いの援助などを行う。東軍勝利。
   尚、黒田如水を熊本城に招くために天守の完成を急がせている。ー天守の一応の完成か

  ・「摂津(小西行長)が上方で死んで宇土迄行って天守を解き或いは御門も解き・・・」とある。
   行長の死は慶長5年10月1日であり、清正は慶長6年2月頃肥後一國と豊後三郡、都合54万石の太守となる。
   宇土城天守は宇土櫓?、御門は禅定寺山門となったと言われる(現在は懐れて存在しない)

              かっての禅定寺山門(Dr高田撮影)

 ・一方善蔵は、「高麗門」「三丁目御門」の建設に携わった


  その他、材木や石材の調達地、井戸の話、えいとう節や真言宗僧侶による着工式、また昭君の間の抜け道や天守からの抜け道、
  その通路(不浄門から小豆坂)などに就いて詳しく語っている。
  残念ながら白川大蛇行についての記述が見受けられないのが残念である。
        

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■小豆坂と折栴檀橋

2022-05-17 17:26:31 | 地図散歩

 お尋ねを頂いたので「小豆坂と俺栴檀橋」の書き込みがある絵図をご紹介する。
棒庵坂を下った突き当り位のところから、折り返して坂がある。
内坪井の武家屋敷(現在の登園中学のプール)辺りへ下っているが、高低差が7~8mあるので急こう配であったろう。
下りきったところに流れているのが坪井川、これに掛かっていたのが折栴檀橋である。
内坪井は広大な範囲があるが、現在は広町筋から上熊本に至る幹線道路に分断された。
大事なお侍さんの登城口であった。冠木門のようなものが見受けられ、番小屋らしいものも伺える。
小さな川の流れがあったと伝えられるが、下方に描かれているのがそうであろう。
              

コメント (1)
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