津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■幽齋「九州道の記」五月廿三日条

2023-05-23 06:54:20 | 先祖附

     くれわたる鐘の御崎をゆく舟に我は忘れずふるさとの夢

 九州道の記。五月廿三日條「赤間關を出て行けるに、雨の名残にや波かぜの荒き故
に、小倉に泊りて、明る夜をこめて舟よそひして、筑州箱崎をさして行に、船人の、
これなむ金が御崎といふ、昔鐘を求め舟に載てきたり、汀近く成て取落して、今に有
と云。日和のよき時は龍頭などみゆるよしを語る。勅撰名寄には、金と云字を書たり
と覺えけるが、鐘にて有べきなどと友達抔に語りける次に、萬葉に、我は忘れずしか
のすべ神と哉覽讀たる事など思ひ出て」。さて右一首をしるし、續いて「かやうに云
戯れ、こぎ行程に、夕浪荒くなりて、やう/\志賀の島に著て、金剛山の宮司の坊に
やどりて」云々。この記事興味多し。二條流の幽齋、なか/\勉強家で、又、強記で、
勅撰名寄の文字を正し、萬葉の歌まで想ひ出し、同舟の友達等(勿論、西征の諸將)
に講義してゐるのである。鐘御崎、筑前國宗像郡の岬角で、響灘に突出してゐる。續
                 (博か)
西遊記に見える梵鐘傳説を、吉田東吾傳士は「附會ならむ」と斷じ、金御崎が正し
く、昔金を採掘したる所といふやうに述べてゐる。萬葉の歌といふは、巻第七雑歌、

    ちはやぶる
 千磐破金之御崎をすぎぬとも我は忘れじ志賀のすめ神

を指す。幽齋これを本歌に取つて、自分は志賀の神よりも故郷の方が忘れ難い、と
「戯れ」たのである。初句「暮れわたる」は單に時刻を現がすのみでなく、第二句
「鐘」にかかつて、入相の響きをも持たせてゐる。〇新村出博士著「南蠻記」昭和十八年五月刊
の中に「沈鐘の傳説」といふ一偏あり、幽齋の書いた鐘にも言及して、「後人の附會
     〇  〇
にもせよ鐘神と解して置いて、此海中の沈鐘をば宗像志賀の諸將の所爲とすることも
出來よう」云々と述べられた。

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■予行練習の触れ

2023-05-22 08:36:13 | 史料

 文化九申五月廿ニ日付にて奉行所から新藩主の入国の際、御城及び御花畑で御礼をお受けなされるに当たり、滞りがないように「習禮せよ」との触れを出している。
習禮」は「しゅうらい(呉音)」と読むが、予行練習を意味する。
新藩主とは先代斎樹の死をうけて、宇土細川家から宗家をついだ斎護のことである。14歳で宇土藩主(立政)となり、22歳で細川家54万石の太守となった。
以前有吉家文書・年中行事抜粋として47回にわたり詳しくご紹介したが、夫々の御規式についてその所作については厳しい決まりがある。
「形式主義」の最たるものだが、多くの家士が集まる重大な御規式だから「畳目」一つ間違わないようにせよ、と言う訳である。
最近はすっかり忘れてしまっているが、茶道に於ける所作を思い浮かべている。

 一今度御入國之上、於御城御禮被遊御受候節、大勢之御禮人即朝ニ至習禮有之候てハ、手間取御禮初之刻限遅々可       
  致、依之習禮有之度面々ハ、前以着座ハ最寄之御小姓頭え懸合有之、御物頭以下都て最寄之御使番へ懸合、習禮
  相濟居候様、且又揃刻限よりハ随分早メニ相揃被居候様、左候て御禮之即朝は御間所幷御疊目等之物見迄ニて相
  濟御禮速ニ相濟候様                        
 一於御花畑御目見諸御禮等被為受候節も、習禮有之度面々ハ右同断被仰出候、揃刻限前以被罷出候様近年頭々え達
  ニ相成居候得共、大勢之御禮人有之節は習禮ニ手間取、被仰出候揃刻限ニ相濟兼、上ニも度々被遊御待奉恐入候
  儀ニ候間、以來は御目見諸御禮ニ被罷出候面々、兼て父兄よりも習禮等之儀示談有之候様、尤以來頭々えハ定達
  ニ被相心得居、組支配方之内追々御目見御禮被遊御受候節々、其達有之候様、別て遠在宅之面々ハ前廣ニ出所有
  之、習禮相濟居候様、且又御禮即朝御間所拝見仕候節、御所柄之儀ニ付別て謹慎有之も、御城ハ御座所等も御間
  近ニ有之候間、猶更不敬之儀等有之候てハ難相濟候條、子弟之面々えハ是等之所も父兄より精々可被示置候、右
  定之儀付てハ御小姓頭より申達之趣も有之、此段可及達旨御用番被申聞候條、左様御心得、觸支配已下例文
     文化九申五月廿ニ日     御奉行中
                                 (度支彙凾より)

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和七年」を読む (1)

2023-05-22 06:35:05 | 史料

 忠興(三斎)文書-元和七年 (六年廿五日忠興隠居シ三斎宗立ト號ス)

(正月二日忠利江戸着ー二月賜暇帰国)

279、二月廿七日文書
 ・仙石忠政ノ茶碗ノ良否ヲ知ラズ

280、二月廿八日文書
 ・細川興元女ト佐久間勝年トノ縁談、佐久間一類ハ桑山貞時ト間柄悪シ

281、(元和七年カ、月未詳)十六日書状
 ・蜂須賀千松三斎ヲ訪フ

282、三月十日書状
 ・加々爪忠澄ノ依頼ニヨリ茶入ノ蓋ヲ作ル

283、三月十一日書状
 ・同上、蓋ヲ送ル
 ・幕府年寄衆ヲ数寄ニ招く

(日にち不詳、三斎帰国の途に着く)

284、五月一日書状
 ・忠興下國ノ途次忠利ノ使者(金森山三郎)ニ合ウー備後・布刈瀬戸

285、五月十日書状
 ・忠利小倉移徙吉日ト定メ土御門久脩(室・三淵晴員女=幽齋末妹)ニ依頼ス

286、六月十七日書状
 ・中津廻知行替ノコト

(忠利六月廿三日、中津より小倉ニ移徙)

287、六月廿四日書状
 ・生鮑・生栄螺・諸白給候、喜悦

288、七月朔日書状
 ・仙石忠政書状のこと

289、七月三日書状
 ・唐人少峯ニ中津ニテ家ヲ與ヘントス、小倉町屋引候へ

290、七月六日書状
 ・江戸留守居番ノ懈怠(能勢源八)、相談ナク知行遣スコト無用

291、七月八日書状
 ・高台院(豊臣秀吉室)へ例年進物ノ用意
 ・小倉城ノ塀破損ス、以前ニ小倉場修理普請ノ許可ヲ得、忠利ヨリ重ネテ許可ヲ請ヒ修理スベシ

292、七月廿九日書状
 ・谷衛友女ト(細川家家臣)谷主膳ノ祝言

293、八月二日書状
 ・忠利ヨリ好物ノ松茸百五十本贈ラル
 ・当年初ノ小鴨、一入賞玩
 ・豊前并豊後拝領部分ノ絵図、こかねわりノ絵図

294、八月廿日書状
 ・土井利勝ヨリ忠利年末参府ノ旨申来ル
 ・其方證人下候得との由
 ・證人ノコトハ出府以前忠利ヨリ申越スベシ

295、八月廿一日書状
 ・為音信御所柿一籠(五十)、則賞玩候

296、八月廿四日書状
 ・玖珠郡ノ川海苔・草花、何連も珍敷令満足

297、八月廿七日書状
 ・平野長泰ヨリ人抱依頼サル、以後人抱ニ付而ハ三斎関知セズ

298、八月廿九日書状
 ・松平忠輝ノ事
 ・桑山元春、七月廿日歿
 ・松平忠直ノ事
 ・忠利ノ江戸下向ハ土井利勝次第タルベシ
 ・秀忠ノ鉛輸送ノ為船ヲ用意ス
 ・忠利領内ヲ巡見ス

 

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■引越し準備

2023-05-21 14:31:35 | 徒然

    引越し迄まだ3週間ほどあるのだが、直前4・5日で荷造りすることに自信が持てず、本や資料をひとまずダンボール詰めを始めたら瞬く間に20箱ほどの山が出来てしまった。
引っ越し業者さんによると、家族一人に付大体ダンボール20個くらいだという話だが、すでに一人分を過ぎてしまった。
本の断捨離は300冊ほどは処分した。ずいぶん思い切ったが余り未練もない。
資料は袋詰めの中身を一々チェックしているが、これは中々捨てることは出来ない。20年余りの私の活動の證である。
いやはや、この年になってから引っ越しをするとは考えもしなかったが、今の住まいが熊本地震後の緊急避難の住まいでもう七年も過ごしてしまった。
引っ越しは奥方が言い出したことだが、これに反対は出来ない。彼女よりこちらが先立つのは間違いないと思うし、最後は彼女の想いのままにと言う心境である。
僅か500mに満たない距離の処に引っ越すのだが、こんなに体力も時間も金もかかるのかと唖然としている。

三日前に契約した引越し業者から、段ボールが50枚届いた。一昨日から昨日にかけ5箱に120冊ほどの本と資料を箱詰めした。
本棚がスカスカになってしまって、ブログを書こうにも資料が無くなりつつある。どうする津々堂・・・

本棚の残りと押し入れの中の250~200冊ばかりの本と、4~5箱分になろうかと思われる資料を箱詰めしなければならない。
81歳爺、なんとか無事に事故なく引っ越しを済ませようと、今日もぼちぼちと作業中である。

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■御扶持方御切米御帳(4)

2023-05-21 06:18:42 | 史料

松助殿衆   先述・松之助の事ヵ?
 一 七人扶持貮拾石             神野宮内
 一 貮人扶持貮拾五石            中神与平次
 一 貮人扶持拾貮石             橋詰山三郎
 一 三人扶持拾五石             春野権十郎
 一 三人扶持拾五石             源川牛之助
 一 三人扶持拾石              麻生次郎兵衛
 一 右同断                 伊藤太郎左衛門
 一 右同断                 伊藤長右衛門
 一 三人扶持八石              平原九右衛門
 一 貮人扶持八石              足立喜兵衛
 一 貮人扶持拾石              田嶋久左衛門
 一 貮人半扶持七石             藤田与右衛門
 一 貮人扶持五石              三枝安右衛門
 一 貮人扶持拾石              秋吉左兵衛
 一 壹人扶持七石           御小道具 孫七
 一 壹人扶持六石           同    八左衛門
 一 壹人扶持六石           御小人  作兵衛
 一 壹人扶持五石           同    清丞
 一 右同断              同    久蔵
 一 右同断              御草履取 少吉
 一 右同断              同    門吉
 一 右同断              同    少三郎
 
 〇御扶持方合四拾九人半扶持
 〇御切米合貮百拾九石         人数貮拾三人

御喝食(玄喝食)御付衆 ・・・・・・・・・・・・・・忠利息・鶴千代当時11歳→妙解時住職→大徳寺、天岸和尚
 一 拾七石六斗               御乳人 御切米御扶持方共々
 一 貮人扶持五石              舟津玄和
 一 壹人扶持三石              松本傳右衛門
 一 壹人扶持三石              草履取壹人
 一 壹人扶持二石五斗            下女壹人

 〇御扶持方合五人扶持
 〇御切米合三拾壹石壹斗

江戸定詰衆
 一 貮拾人扶持金小判六両          椋梨玄加
 一 拾人扶持                遠藤玄理
 一 五人扶持                竹下小十郎
 一 五人扶持貮拾石             山田仁左衛門
 一 五人扶持貮拾石             小林七兵衛
 一 五人扶持貮拾石             跡部太左衛門
 一 三人扶持拾石              柴田与次右衛門
 一 右同断                 窪山新左衛門
 一 三人扶持拾五石               見古
 一 貮人扶持拾石              野村弥右衛門
 一 右同断                 尾崎勝右衛門
 一 六人扶持金小判三拾両        御細工 新兵衛
 一 八人扶持              銀屋  勘七
 一 五人扶持 但作料各別ニ被遣     御大工 佐右衛門
 一 壹人扶持六石            御掃除 喜兵衛
 一 右同断               同   太兵衛
 一 右同断               同   清三郎
 一 壹人半扶持六石           同   長三郎
 一 右同断               御小人上り 十右衛門

 〇御扶持方合九拾人半扶持
 〇御切米百五拾石
 〇金小判三拾六両

京・大坂定詰衆
 一 銀子三拾枚               珠方院様
 一 同貮拾枚                宗朱院様
 一 米七斗 御賄米壹ヶ月分           同人
 一 三人扶持弐拾石             志賀殿
 一 弐人扶持八石           京都物師 おなつ
 一 弐人扶持八石           同    おつ
 一 弐人扶持六石           同    おくす
 一 壹人扶持                下女壹人
 一 壹人扶持五石              下男壹人
 一 五人扶持貮拾石          大坂 菅 十兵衛
 一 右同断              同  岡 九郎兵衛
 一 三人扶持拾五石          同  服部勝太夫
 一 三人扶持拾石           同  喜多村傳兵衛
 一 貮人扶持拾石           同  三輪九左衛門
 一 貮人扶持拾石           同  坂井茂兵衛
 一 右同断              同  渡邊弥三兵衛
 一 貮人扶持銀貮拾枚        御銀見 能村次右衛門
 一 三人扶持拾石         川御船頭 水足五郎右衛門
 一 三十五人ハ 但壹人ニ而壹人扶持六石完 大坂川舟御加子
 一 貮人扶持五石         大坂御門番  小右衛門
 一 壹人扶持六石              樹松市丞
 一 壹人扶持六石           御中間    七左衛門
 一 米貮石五斗貮升 但御合力米也   伯楽   
平兵衛

 〇御扶持方合百拾三人扶持
 〇御切米合三百八拾壹石五斗貮升
 〇銀子三貫百三拾九匁
 〇米七斗 御賄米壹ヶ月分       大坂詰人数四拾七人  

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■サボテンも子育ても放任主義の結果

2023-05-20 06:40:57 | 徒然

                                            

 今年は我が家の二鉢のサボテンは、花の当たり年らしい。一鉢は蕾が三つ付いて今朝ほど二つ開花した。
淡い色の多弁の花が並んでおもわずほっこりさせる。今一つの鉢のサボテンは少々小振りで、私の手元に置いてから初めて蕾を付けた。
こちらはあと一週間はかかりそうだ。娘が結婚した時、ご出席の皆さんにお配りしたものだから22~3年になる。
写真のこのサボテンを見ていると、娘の子育てを見る思いがする。
長男は大学を出て今年から東京で生活を始めた。長女は大学で最後の頑張りの一年である。
二男は少し年が離れていて今年高校入学、中学時代は方向性が定まらずにいたが、兄に感化されたのか IT 関係に目覚めて頑張り始めた。
二男を思わせる三つ目の蕾も一週間後位には先の二つの花に負けじと、きれいな花を見せてくれることだろう。
22~3年振りに初めて咲く別の鉢の花も、大変興味深い。
私の二男一女の子育ては放任主義であったが、このサボテンも同様である。そんなサボテンが見事な花を見せてくれる。

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■史談会講演会と武蔵の命日

2023-05-19 07:12:03 | 熊本史談会

 明日20日の史談会では在熊の歴史研究家・福田正秀氏の「宮本武蔵」についてのお話しをお聞きする。
今回の企画は、武蔵の命日を意識してのことではないが、奇しくも今日は武蔵の命日である。
講演に参加したいというある方からのお電話で、「西の武蔵塚」では今日19日に武蔵の墓前祭があるとお聞きして気が付いた。

 ふと、又武蔵の本当のお墓は何処なのだろうと改めて考えてしまった。武蔵のお墓と伝聞されるものは「武蔵塚」「西の武蔵塚」そして「泰勝寺内」の三ヶ所がある。
「古今肥後見聞雑記」(寺本直廉編著)に以下のような記事がある。これは龍田町弓削にある、いわゆる「武蔵塚(公園)」を指している。

しかし後段では自らの伝聞として、武蔵の墓は「無雙寺内」だと語っている。泰勝寺のことだと理解すると、現在では墓石も見受けられるが、当時はなかったらしく、これは光尚の賢慮で「武蔵には国中に敵が多く墓が荒らされることを考慮してのこと」だとしている。
私はこの記述の中にある「無雙寺」について詳しい事を知らないが、泰勝寺の塔頭として存在したのか?
国道57号線から泰勝寺に到る道筋の途中に大渕和尚(春山和尚とも)の「引導石」というものが存在する。
これを考えると、泰勝寺境内の墓地が武蔵のお墓だとするのが妥当のように思える。
弓削の武蔵塚は細川家代々の参勤交代・御帰国を見守り、西の武蔵塚では女人のお墓が寄り添い武蔵の一面が垣間見える。
それぞれのお墓がそれぞれの意味合いを伺わせている。

     一、飽田郡弓削村邊に松山の月に武蔵塚あり石塔五尺七寸程
    厚さ九寸計幅下の方にて二尺壱寸計り二重臺之上の臺石
    高壱尺五寸程幅三尺二寸四方下の■ハ四尺余也将棊頭也銘に云
            正保二乙酉年
      兵法第一 新免武蔵居士之墓
            五月十九日


    右武蔵塚明白なりといへ共予曽て聞しハ武蔵死去の時
    光利公御意にして此所ハ石塔にて等して骸骨は龍田の無雙
    寺境界に葬しと云墓石なし
是 國君の賢慮ゟ出たり武
    蔵事諸国に為敵人多若又尋来り死骸を堀て仇を報ん
       イてかくハ被仰付しものならん
    事を恐れさせ及ふ故也ときけり

 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和六年」を読む (2)

2023-05-19 06:10:18 | 先祖附

忠興文書-元和六年(閏十二月廿五日、忠興致仕し隠居す)

211、六月八日書状
 ・木下延俊(忠興女婿)ノ家臣丹羽九郎兵衛幕府ニ目安ヲ上グ
 ・同上、幕府取上ズ
 ・同上、九郎兵衛妻子ヲ捕フ
 ・同上、土井利勝ノ帰府ヲ待チ九郎兵衛ノ身柄ヲ延俊ニ渡ス様ニ才覚
 ・延俊女(忠興孫)ノ縁談・・・(未だ確定せず)

212、六月八日書状
 ・(松井家江戸證人)松井政次帰国ス(替り之證人に松井興長母・自得院江戸着による)
 ・栗石ノ売却
 ・和子入内ノ進物ハ不要ノ由ナルモ便宜次第差上ゲベシ
 ・市橋長勝歿シ、甥長政家督ヲ相続ス、驚申候事
 ・小倉城修理ヲ許サル
 ・酒井忠行ト松平定勝女トノ婚礼
 ・先年五百石積以上ノ船ヲ禁止スルニ大船建造ノ噂アリ、小倉藩ニハ四百石以上ノ船ナシ
 ・黒田長政竹千代及徳川頼房トノ縁談ヲ才覚ス
 ・長政危篤ノ事小倉ニテハ噂ナシ

213、六月八日書状
 ・興元女(忠興姪)ヲ善悪ニ構ハズ嫁セシメタシ、
 ・興昌、井上正就女トノ縁談ノ吉左右ヲ待ツ

214、六月晦日書状
 ・(六月十八日和子入内)土井利勝ヨリ入内ノ祝儀ハ手軽ニスベシトノ指示アリ
  国松ニ緞子・銀子ヲ進献スベシ
 ・藤堂高次トノ親交ヲ勧ム
 ・忠利、毛利高成ト佐久間安政女ノ婚約ヲ斡旋ス
 ・奉公人之儀、知足院ハ各別ニ候間、抱可申候
 ・竹千代・国松叙位ノ祝儀ニツキ土井利勝ヨリ指図アリ
 ・大阪城普請ハ十月中ニ終ラン
 ・江戸下向ハ一月トナラン

215、七月三日書状
 ・江戸・小倉・京上方ニ流行病
 ・烏丸光賢室(忠興女・萬姫)男児出産
 ・上方・小倉大水
 ・黒田長政病癒ニテ出仕
 ・長政、権門ト姻戚タラント才覚ス
 ・後藤又一郎(又兵衛子息)ノ病、唐人薬ノ使用
 ・立花宗茂ノ書状詳報セザルハ不念
 ・在国ノ大名ヨリ幕府出頭衆へ普請ノ様子ヲ報ズル者アレド左様ノコト厭ナリ
 ・普請ニ遅レズ石垣を崩サズ竣工スレバコトナシ

216、八月十日書状
 ・志んほち(六丸=光尚)病気・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・志んほち= 新發智)
 ・忠利、加藤嘉明と入魂、左様ニ可在之こと
 ・黒田長政徳川頼房トノ縁談を才覚ス
 ・小倉ニ唐船著ク

217、九月十日書状
 ・竹千代任官ノ祝儀ノ進物ニ付土井利勝ノ指示未無之
  銀子十五貫目・金入緞子二十端ヲ送ル
  入内祝儀ノ進物ノ輕キハ大阪城普請ニ支出多キ諸大名ヲ勞ル為ナラン
 ・木下延俊家臣ノ目安
 ・與安法印女、本多正純養女トナシ松倉勝家ニ嫁
 ・島津家久トノ親交ハ無用
 ・田中忠政ノ訃(柳川城主‐元和六年八月七日歿)
 ・柳川藩仕置ノ為岡田将監下向予定ノ報懇切、小倉ヲ通ラバ謝礼セン

218、九月十日書状
 ・細川興昌(矢田部藩主・忠興甥)及び同人姉ノ夫々ノ縁談ノ吉左右
 ・忠興眼病再発ス

219、九月二十三日書状
 ・土井利勝ヨリ至急出府スベシトノ指図アリ
 ・遠路病中ノコトナレバ十月中出発ハ不可能ナラン

220、十月十三日書状
 ・忠興去四日小倉出船ー九日摂津傳法著ー十日大坂普請場見廻ー十一日出京ー十二日御入内御礼
 ・土井利勝ノ指図ヲ誤報シテ急ギ出発、下々甚ダ迷惑、以降ユルユルと可参
 ・竹千代元服任官ノ祝儀ハ濟、国松不明
 ・忠利、故田中忠政ノ屋敷ヲ望ムー忠利夫人為ト望ハ如何?

221、十月十六日書状
 ・廿日ゟ廿ニ日ノ間吉田出立、十三泊程ニテ江戸到着ノ予定
 ・忠興江戸入ノ際、曽我古祐・妻木之徳・細川玄蕃ノ出迎ヲ留ムベシ

222、十月十六日書状
 ・柳河在番中ノ内藤政長・秋元泰朝ノ書状ヲ預リテ先ニ送ル

223、十一月三日書状
 ・忠利ヨリ迎トシテ書状菓子筋子ヲ送ラル

224、十一月四日書状
 ・三嶋ニ著ス
 ・出迎ハ無用
 ・忠利帰国ノ暇ハ忠興ノ江戸到着後タルベシ
 ・民部卿局ト前後シテ下向ス

225、十一月六日書状
 ・七日江戸到着ノ予定 
 ・振舞ニハ心安キ衆ヲ招クベシ

226、閏十二月七日書状(忠興十一月七日江戸到着、忠利ハ同月廿八日江戸出立・帰国ノ途ニ就ク)
 ・忠興病ム
 ・忠利先月十五日吉田参著、女御ヘノ祝儀ヲ済シ下国ス

*忠興元和六年閏十二月廿五日致仕、薙髪シテ三斎宗立ト號ス、
 元和七年四月十日帰国ノ途次、京都吉田ニ立寄リ、ヤガテ帰国シ、小倉ヨリ中津ニ移ル
 忠利モ江戸ヨリ帰国、封ヲ嗣ギ、六月廿三日中津ヨリ小倉ニ移ル
1911、烏丸萬宛閏十二月廿五日書状(大日本近世史料・細川家史料八 p72~73)

(226~278は年未詳のものが紹介されている。これについてはここでは取り上げず、次回からは元和七年へ続く)

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■沼田家の鬱憤

2023-05-18 10:23:15 | 史料

 かたずけ資料の中から、次の資料が顔を出した。読んでみると忠興の死の寸前八代に派遣されていた沼田勘解由が、
松井興長・米田是季に宛てた書状を読んだ光尚の驚いた様子が書かれている。
ここに書かれているように、いつも沼田家は割の合わぬ仕事を押し付けられて鬱憤をためている。
2代・延元代の関ヶ原出陣の際、3代・延之代では天草島原の乱出陣の際と二度にわたり留守居を仰せつかっている。
家臣たちの鑓働きの機会を失い大反発をしているが、藩主や重臣が何とか納得させようと努力するが、夫々暗礁に乗
り上げて難儀している。
特に光尚が指揮をした天草島原の際も留守居役を仰せ付けられたが、戦いが集結し大方が帰陣した後も納得出来ない
延之の抵抗は激しく、終には「門」を閉ざした。
武家が門を閉ざすということは、主家に対する公然たる抵抗の意思表示だとされる。家臣らは討手が遣わされること
を覚悟したようだ。
そのことは、花畑邸も知る処とになり、主席家老・松井興長が一人沼田邸を訪ねて懇切に説得に努めた結果延之はよ
うやく「門」を開かせたという。
沼田家と言えば、三卿家老に次ぐ家格と言っても良い、幽齋室・麝香の実家の家柄である。
熊本城の二の丸には、細川家重臣の屋敷がずらりと並んでいる中、その沼田家の屋敷は、西大手門の真正面にあるこ
とも沼田家の家格を伺わせている。
光尚の死後、幼い六丸の家督相続を成就させるために多大な尽力をした延之が、江戸城内でその沙汰が申し下される
と「三間し(す)ざり」をして感涙にむせび平伏し続けたという逸話が残る。                 
いつも正面から御家の為に身命を尽くしたいという気概が見て取れる。それは細川家根本家臣としての矜持であろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   長岡勘解由八代へ被遣付自然世上不慮之儀も候時ハ
                八代ニ居申間敷由佐渡監物へ充候而誓帋差上驚申候

一、追而申候長岡勘解由儀今度八代へ遣候付自然世上不慮之儀も候有之時ハ八代ニ居申間敷之ニ而其方并監物なとへ
  當候而誓帋を差上候由ニ而其方共なとより指越見届驚申候
一、惣而勘解由儀加藤肥後守没落之砌豊前より人数参事茂可 在之哉と申候節小倉之城之留守ニ可被置之由妙解院殿よ
    り御申付候砌勘解由断を申候由其節重而御留守御申付間敷由被仰候然處ニ有馬一揆発起之刻人數入候節又勘解
  儀熊本之留守ニ可被置之由妙解院殿重而御申付候其節
最前之首尾ニ而候故達而断可申之由ニ而有馬へ勘解由方よ
  り
使者を指越候陣中之事故兎角之儀不被申様ニと存我等かたより状を勘解由かたへ遣異見申候ニ付訴訟申儀存■

  候事
一、其以後熊本に而以来ハふつと留守を仕間敷旨勘解由誓文立候由ニ候主人ニ對候而ハ慮外之様ニ存候得共一陳茂不
  仕
勘解由両度留守を御申付候間勘解由存分之通候尤之様ニ存妙解院殿へ我等茂達而勘解由儀取合なと申候つる
  と覚へ候其故ニ而候哉又自分ニ被思召直候哉其以後御帰国
之砌者勘解由へ懇之様ニ粗及候事

一、右之通候故我等内存ニは勘解由儀以来とても留守居なとニ置可申とハ聊不存候就其今度留守中之書附ニ茂不慮之
  事茂候ハヽ先手ニ加へ可申候若人数少入事候共勘解由なとをハ先へ遣之与之内ニ書入置候此段少茂偽無之候帰国
  之上其
方へ其書付見せ可申候其上異国船なと着岸之砌勘解由ニ平野孫ニ右衛門なと差加遣之由申渡候事

一、右之通ニ候故勘解由儀留守なとニ置可申とハ少茂不存候此度八代遣候儀ハ三齋御逝去之砌ニ候間萬事■かハしき
  儀も
可有之候間目付心ニ遣候条諸事公儀へ聞へ悪さニ成事茂候ハヽ指引を茂可仕候為其勘解由召置候由御老中へ
  咄
申候得者尤之由御申候つる其故右之段申遣候但最前之状ニ何事茂在之時留守ニ居申候様ニ書成候哉又長く城番
  可申付なとヽ申様ニ書中相聞候哉其段ハ
覚へ不申候事

一、必竟勘解由内存ニハ此度八代へ遣候砌若不慮之儀有之時ハいつかたへも可参候當分目付心ニ遣候との儀此方より
  不入念
ニ付唯今何茂迄申候と相見へ候此段者我等違ニ而茂可在之候乍去最前より勘解由留守ニ居候儀断申候通を
  我等
茂渕底存候其断勘解由茂可被存候間誓紙ニ者及申間敷事之様ニ我ニハ存候但不慮之仕合存之時者とても八代
  ニ
居不申候間仕置之心得ニも成可申と存候ての事ニ候ハヽ内證ニ而其方迄申候而事済ニ候于今誓紙ニ而理之段
  等合点不参候此状之通具ニ勘解由へ申聞せ内存之通
急度返事可被申越候為其如此段候謹言

     正月十一日             肥後光尚・御判
                   長岡佐渡守殿

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■熊本城下の坂・索引

2023-05-18 07:45:38 | 史料

 「ブラタモリ」が国民的人気を博すと、タモリ氏が口にする「日本坂道学会」がクローズアップされた。
会員二人でタモリ氏は副会長らしいが、一方別に「日本坂学会」というものがあった。
今は日本を削除して「坂学会」となっているが、以前ここから「熊本城下の坂」の著編者・藤本修氏を紹介してほしいとのメールが入った。
ご迷惑かなと思いながらその旨を藤本氏に連絡したが、今では氏の研究論考「熊本城下の坂」は「日本坂学会」の有力資料となったようだ。
昨日のブログで一部触れたが、全内容を開示することは出来ないが「索引」を御紹介しておきたい。

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 熊本城下の坂 

高山彦九郎日記に、『藪氏に入りて語り、慶宅坂を下る時に高本教授に逢ふて其に入る』。
別な日には、『夜に入りて洗馬橋を渡り塩屋町を過ぎ、右へ新二丁目蔚山町堀ばたへ出て切通を過ぐ、豆腐谷と号す』。

桃文之助は西遊日記で、『当所の地理を覚え候為に、案内者を召し連れ城下内を徘徊致す。先ず観昔坂より京町辺、夫よりニノ丸内へ入る』。

河井継之助は塵坪で、『百間石垣の下を通り木下眞太郎へ往く。木下へ土産のため菓子屋のよき所へ立寄り尋し所、朝鮮飴とて諸國へ廻る当
所の名産あり』、とそれぞれ書き残している。

慶宅坂・観昔坂は何処にあり、慶宅とはどんなネーミングなのか、高本教授・木下眞太郎は彼らとどういった交友があり、屋敷は何処にあっ
たのか。朝鮮飴の菓子屋の屋号は何でどこの町内にあったのか、など彼らの足跡を辿ってこれらの事物を調べてゆくことは、当時の肥後の地
誌民俗歴史を知り得、ハダで感じることが出来ることにもなって興味は尽きない。
熊本城下(府内)にエリアを定め、坂の所在を確認する。坂の出典は、肥後國誌・肥集録・地名事典などから求め、坂の様子風景などは各種
資料から参照引用し、現地を確認して写真を添えた。

 

  〔目次〕 頁番号はWORDの仕様上、頁の上下交互に付いている。本書はB4サイズ。

   一 各種史料に見る坂    1      *京町台西崖エリア
   一 肥集録原本写真     2     一 赤尾口の坂     31
    *熊本城内エリア                一 釋将寺坂      31
   一 薬師坂 槇島坂     3     一 榎木坂       32
   一 砂薬師坂/古京町坂   4     一 新道坂       33
   一 柊木坂         6     一 入道坂 梯子坂   34
   一 法華坂         8     一 雁木坂 雲晴庵坂  34
   一 棒庵坂         9     一 伊庭(射場)坂   35
   一 監物屋敷下坂     10     一 西方寺坂 円光寺坂 35
   一 左仲屋敷下坂     10     一 岩立坂       36
   一 慶宅坂        12     一 竜迫谷坂 一身坂  36
   一 鞍掛坂        13     一 新坂 七曲り坂   37
   一 南坂         14     一 錦坂        39
   一 古城坂        15     一 (錦橋 錦山神社) 40
   一 津川屋敷下坂 同南坂 15     一 (余滴)      41
   一 千葉城坂       16     一 (南京町の旧町名) 42
   一 (宮本武蔵旧宅)   17      *手取・高田原・山崎エリア
   一 大木屋敷下坂     18     一 禿坂 山崎天神前坂 43
   一 宮内坂        19     一 お伊勢坂 三年坂  44
   一 宮内新坂       19     一 声取坂 わくど坂  45
   一 沼田屋敷下坂     20     一 三年坂 上月屋敷下坂46
   一 (豆腐谷)      21     一 錦嚢移文、雑撰録に見る坂
   一 六所宮前坂      22              47~49
   一 山崎口坂       23     一 場所不明の坂    50
   一 (熊本城点景)    24     一(余滴)追廻田畑51~56
    *京町台東崖エリア            一  わくど坂     57
   一 観音坂        25     一  長六橋   58~59
   一 中坂 春木坂     26     一  祭文 お城焼失  60
   一 堀部屋敷下ル坂    27     
   一 牛縊坂        28
   一 新坂         29
   一 迫門坂 三年坂    30

〔索引〕

あ行                         ○砂薬師坂                  4
○赤尾口(構外)の坂        31       ○住江甚右衛門(次郎右衛門)屋敷下坂    47
○小豆坂              18       ○迫戸(瀬戸)坂              30
○有吉(大蔵)屋敷下左右坂     13       ○舩場不破敬次郎屋敷前之坂         48
○一身坂              36          た行
○伊庭坂              35       ○鷹匠小路高林寺前之坂           48
○岩立坂              36       ○鷹匠小路田中道俊屋敷脇之坂        48
○岩立円光寺下坂          35       ○鷹匠小路間部忠右衛門屋敷前田端江下ル坂   48
○岩立観音堂坂           34     ○立田口久本寺脇之坂            49
○岩立向台寺下坂          36     ○立田口薬園前之坂             49
○岩立釈正寺坂           31     ○立田口薬園西脇之坂            49
○牛縊坂              28        ○多武木坂/たぶのき坂            6

○宇土小路南田端江下ル新道坂       33          ○千葉城坂/千葉城橋際之坂         16
○雲晴庵坂             34     ○津川屋敷下坂/津川(平左衛門)屋敷北脇坂 15
○榎木坂              32     ○津川屋敷南坂/津川平左衛門南脇坂     15
○円光寺坂             35     ○寺原瀬戸坂                30
○お伊勢坂             44     ○寺原中坂                 26
○追廻新道坂            48       な行
○追廻田畑(須戸口)坂       43     ○長岡図書屋敷下北門之坂          10
○大木(惣馬・舎人)屋敷下坂    18     ○中坂                   26
○落合弥次兵衛屋敷前之坂      48     ○七曲りの坂                38
か行                         ○仁王門脇坂                19
○上月(兎毛)屋敷下坂       46     ○錦坂                   39
○禿坂               43     ○入道坂                  34
○上林水足七郎助屋敷前之坂     49     ○沼田(権内 十之進)屋敷前之坂      20
○雁木坂              34       は行
○観音坂              25     ○梯子坂                  34
○京町観音坂            25     ○春木坂                  26
○京町仙勝院下中坂江下ル坂     27     ○柊木坂                   6
○京柳坂              29     ○備前堀脇坂                14
○金峰山町浄圓寺前田端江下ル入道坂34      ○藤崎宮仁王門脇坂             19
○鞍掛坂              13     ○古京町坂                  4
○慶宅坂              12     ○古城坂                  15
○監物屋敷下坂           10     ○不破太直屋敷脇中坂へ下ル坂        26
○向台寺坂             36     ○棒菴坂/坊庵坂/棒安坂           9
○肥壷坂              31     ○法念寺脇渡場之坂              4
○声取坂              45     ○法華坂/法花坂               8
さ行                       ○堀部(右学)屋敷下ル坂          27
○西方寺坂             35       ま行
○左仲屋敷下坂           10     ○槇島坂/槇嶋半之丞北脇坂          3
○三年坂        30/44/46     ○三渕屋敷下坂               15
○釋将寺坂             31     ○南坂/南御門前坂             14
○松雲院町渡場之坂         49     ○宮内坂                  19
○新坂            29/38     ○宮内新坂                 19
○新道坂              33       や行
○新堀門外町口龍迫谷江下ル一身坂  36     ○薬師坂                   3
○鋤身崎内検町入口之坂       49     ○山崎口坂                 23
○山崎天神前坂           43
○山田嘉左衛門屋敷脇新堀龍迫谷へ下ル坂 36
○山名志津麿屋敷北脇坂       15
ら行
○竜迫谷坂/龍作谷下坂       36
○六所宮前坂            22
○六所宮社内江上ル坂        49
○六所宮社内藤崎社江上ル坂     49
わ行
○わくど坂             45
場所不明の坂            50
○一丁目門南江上ル坂 ○衣紋坂○芥坂 ○奈三田坂

〔地名施設〕頁順

☆千葉城              16
☆宮本武蔵旧宅           17
☆アズキ谷             18
☆漆畑               19
☆豆腐谷              21
☆下馬橋              23
☆一日亭              24
☆観音橋              25
☆赤尾口              31
☆龍崩                  32
☆岩立               36
☆三身口              37
☆錦橋               39
☆錦山神社          40/60
☆辻射場              41
☆二階町 四軒町 金峰山町     42
☆高田原              43
☆追廻田畑             51
☆わくど坂             57

☆長六橋              58

 

○==========◎==========○==========◎==========○==========◎

〔主な参考引用資料〕

 *坂の出典----肥後國誌、肥集録、肥藩叢録、平凡社・熊本県の地名、市政だより・ふるさと、熊本城みてある記、
                         雑撰録、錦嚢移文、他

 *絵図地図----新熊本市史・絵図地図編、熊本県立図書館所蔵絵図、熊本大学永青文庫研究センター刊本、熊本市立図書  
                         館及び博物館所蔵図 他

   *藩士の家譜---津々堂HP・新肥後細川藩侍帳、細川家系譜

                                 熊本城下の坂

                                  平成二十五年九月  編纂 藤本修 (自家本)

                                      

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■熊本城周辺の坂

2023-05-17 18:11:06 | 熊本
 
■小豆坂と折栴檀橋

 お尋ねを頂いたので「小豆坂と俺栴檀橋」の書き込みがある絵図をご紹介する。棒庵坂を下った突き当り位のところから、折り返して坂がある。内坪井の武家屋敷(現在の登園中学のプール)......
 

 ご厚誼いただいているブログ「徒然なか話」さまの5月9日のブログ聖と俗の写真を拝見して、かってはこの道路もなく新堀部分は広丁方面からはどん詰まりで、いわゆる内坪井を形成していたことを改めて思い起こさせるものであった。
手前の坂・錦坂についてはこのブログでその成り立ちが説明されている。
私は、錦坂と道向こうの坂の関係を知りたいと思い、こちらもご厚誼いただいている元・史談会会員の藤本修氏の研究成果の「熊本城下の坂」(CD版)を眺めたりしているが、この坂(錦坂の正面の折り返しの坂)は随分新しいものではないのか。
坂の名前はあるのだろうか?。私はこの坂を何度か自転車を押して上がったことがあるが、随分難儀した事を覚えている。

 一年前のこのブログで書いた小豆坂は、この写真からするとずっと左手の方であるが、現在ではその坂はなく地図の上でしか場所を知ることが出来ない。
内坪井の街中に広丁から上熊本へ抜ける道が、先ずは隧道、そして平道となり、軽便鉄道が走り市電に代りそれが廃線となり、それこそ地図を見なければ内坪井の雰囲気は見いだせない。
しかし、この貴重なアングルの写真は、かっての内坪井の雰囲気を良く表していると思う。感謝。

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■御扶持方御切米御帳(3)

2023-05-17 08:21:32 | 先祖附

御竹様(忠利女・当時10歳)
 一 三人扶持八石              御乳人

 一 貮人扶持拾石              おかち
 一 貮人扶持五石              おさこ
 一 貮人扶持五石              おいぬ
 一 右同断                 おすき
 一 壹人扶持六石              ちゃあ
 一 貮人扶持拾石              おくめ
 一 壹石五斗                あさきり
 一 右同断                 よし
 一 壹石                  ちやこ
 一 壹石五斗                はき
 一 貮石                  ふく

真如院殿方
 一 三人扶持三拾石                真如院殿・・・・・・・・・・・・・・・・・(忠利女・藤生母 後・高見権右衛門室か?)
                     勝千代殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(忠利末子・元知か?)
 一 三人扶持八石              御乳人
                     おくろ殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(不明)
 一 壹人扶持三石              御乳人
 一 貮人扶持五石              さん
 一 貮人扶持七石              こな
 一 貮人扶持六石              あちや
 一 壹石五斗                つね
 一 右同断                 かん
 一 壹石五斗                あき
 一 壹石                  さゝ

御六様(後綱利・当時3歳)
 一 貮人扶持銀貮拾五枚           上壹人御仕著代
 一 貮人扶持同五枚             右之下女貮人分
 一 貮人扶持同拾五枚            御乳人
 一 貮人扶持同三枚             下御乳人
 一 貮人扶持同貮枚             下女壹人
 一 貮人扶持金小判八両           御さし壹人
 一 壹人扶持同壹両貮歩           右之下女壹人
 一 貮人扶持同三両             御しめし洗貮人
 一 壹人扶持銀貮百目・但白米五合完之    御腰元使壹人
 一 壹人扶持銀貮百目・但白米五合完之也   跡部太左衛門娘
 一 貮人扶持・内壹人扶持ハ中米之白米五合完 おゆき
 一 金小判四両                同人
 一 貮人扶持・内壹人扶持ハ中米之白米五合完 おかや
 一 金小判四両                同人
 一 貮人扶持・内壹人扶持ハ中米之白米五合完 おくり
 一 金小判四両                同人
 一 貮人扶持・内壹人扶持ハ中米之白米五合完 おかち
 一 金小判四両                同人

御藤様(忠利女・12歳)
 一 三人扶持貮拾石             おなあ
 一 三人扶持貮拾石             おすま
 一 貮人扶持拾貮石             おひこ
 一 壹人扶持五石               いま
 一 三人扶持拾貮石             御乳人
 一 貮人扶持拾貮石             おつま
 一 右同断                 おたい
 一 貮人扶持拾石              おやな
 一 貮人扶持拾石              おかね
 一 貮人扶持九石              おふり
 一 右同断                 おきち
 一 貮人扶持九石              おつる
 一 壹人扶持弐石弐斗            とう
 一 五扶持・壹人扶持ハ中米之白米五合完   尾上殿
 一 金小判貮拾両               同人
 一 貮人扶持拾貮石             おゆき
 一 貮石貮斗                もみち
 一 五石                  夕きり
 一 三石                  あこ
 一 五石                  かや
 一 貮石貮斗                ちよ
 一 銀子貮枚                なへ
 一 五石                  むへ
 一 三石                  こな
 一 銀子貮枚                たけ
 一 貮石貮斗                あいこ

 〇御扶持方合百三拾人扶持 内七人扶持ハ白米
 〇御切米四百八拾六石三斗
 〇金小判四拾八両貮歩
 〇銀子四貫三百貮拾貮匁
 
 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和六年」を読む (1)

2023-05-17 05:49:38 | 先祖附

忠興文書-元和六年

199、正月十日書状
 ・幕府へ年頭ノ祝儀トシテ諸白樽ヲ進上ス
 ・忠利春甫ノ墨蹟ヲ望ム、忠利ニハ定家ノ和歌ヲ進ス、利休ノ墨蹟モアルカ
 ・天千代(興孝=江戸證人)二幕府首脳ノ音信
 ・黒田蔵人召抱
 ・大坂城普請ニ付大坂城普請奉行(守田守次)ヨリ書状
 ・同上、土井利勝ノ斡旋
 ・木下延俊女ノ縁談
 ・竹千代ニ鷹野道具進上
 ・忠利・天千代ニ秀忠ヨリ鷹ノ鳥ヲ拝領
 ・利休作竹ノ花筒、車僧(くるまぞう)ト名付ヶタル由来
 ・氣相散々にて書中しとろニ可在之候

200、正月十日書状
 ・松井興長母(康之室・自得院=沼田光長女)江戸證人ニテ江戸へ下ル
 ・くり石ヲ売却ス
 ・人抱ニツキ土井利勝ト談合シ幕府ノ許可ヲ受ク

201、正月十八日書状
 ・筑紫主水(後、広門)ノ身上ニツキ土井利勝ノ斡旋ヲ依頼ス

202、正月晦日書状
 ・松井興長母病ミ京都ニテ加療ノ後江戸へ下ル
 ・同上・江戸到着セバ松井政之(自得院甥=沼田与次郎光次)ハ返サルゝ筈

203、二月五日書状
 ・藤堂高虎、忠利ニ石ヲ伏見ヨリ大坂へ日雇ニテ運ブコトヲ勧ム
 ・細川興元女ノ縁談ニツキ報ズベシ
 ・人抱ノ許可
 ・東国大名衆江戸城普請ヲ分担ス
 ・浅野長晟、老臣浅野氏意ヲ成敗ス
 ・大阪城普請ノ用意
 ・山名禪高屋敷、成候は可有才覚候事
 ・大坂普請奉行自筆之はし書披見
 ・忠利、島津家久ト親交ヲ結ブ

204、二月五日書状
 ・大阪城日用ニテ普請ノ分ヲ再普請ス
 ・江戸城普請用石ノ調達ヲ命ゼラシ町人ニ伊豆ノ石場ノ石ヲ売ル
 ・五郎太石ノ売却
 ・秀忠鷹狩

205、三月十九日書状
 ・南蛮花ノ種給候、喜悦
 ・江戸城普請ニ付石ヲ献上ス
 ・竹千代・国松兄弟ノ上洛ノ時日判明次第急報スベシ
 ・伊丹勝長ト中川忠勝女トノ婚姻
 ・酒井忠世弟・西尾忠永死去訃報
 ・伊達政宗忠利ノ水指ヲ所望ス
 ・蜂須賀至鎮(忠利相婿)ノ訃報、無是非
 ・中津居住ノしんほち(六丸=光尚)ノ蟲氣、患ニハ非ず
 ・戸田氏銕・日下部五郎八殿、我等二肝煎
 ・松平忠重ト木下延俊(室・忠興女加賀)女縁談
 ・家臣死亡ノ跡知ニテノ人抱ニ付将軍ノ内意ヲ伺ウ
 ・小倉城修理ハ幕府ノ得ルモ行ハズ
 ・大阪城普請ハ遅滞セズ
 ・谷衛友役儀ヲ宥免サル

206、三月廿六日書状
 ・竹千代・国松兄弟ノ上洛ハ四月タルベキニ付進物ヲ送ル
 ・(和子)御入内内定シ五月上旬出立ニ付進物ヲ送ル
 ・小笠原忠知ニ具足甲ヲ贈ル
 ・南禅寺塔頭聴松院入院ノコトニ付、金地院(崇傳)ト圭西堂(前建長寺住持・忠興母光壽院甥)ノ出入
 ・忠興上洛ノ可否ヲ利勝ニ問ウ
 ・幕府年寄衆大坂へ赴ク
 ・進物ニ金銀ヲ添フルハ利勝指示次第、当座借ニテ才覚スベシ

207、三月廿六日書状
 ・藤堂高虎・黒田長政不和
 ・黒田長政女、竹千代ニ入嫁ノ噂ハ確カナルベシ、徳川頼房トノ事ハ如何
 ・土井利勝ト伊丹康勝ノ不和

208、三月廿九日書状
 ・大阪城普請ニ付奉行衆ノ指令ニ理屈申ス者アリ
 ・半役ノ衆数多アル故、普請ニ遅レザル様申クベシ
 ・西之丸北大角ノ石垣普請ヲ所望ス
 ・黒田長政領内ノ城ヲ破却ス、大坂城高石垣七十間分ノ普請を所望ス
 ・曽我尚祐、忠興ニ公役軽減ノ分別ヲ勧ム
 ・咳氣ヲ散々ニ患フ

209、三月廿九日書状
 ・和子入内ノ日取
 ・竹千代・国松兄弟ノ上洛ハ当年延期
 ・右三人ヘノ進物
 ・忠興上洛ノ可否ヲ土井利勝ニ尋ヌベシ
 ・三河・遠江・信濃譜代衆ハ上洛、東国衆ハ江戸逗留
 ・黒田長政縁辺ノ事きゝ度候

210、四月十八日書状
 ・和子入内ニ付上洛或ハ使者差遣無用トノ觸状アリ
 ・伊丹康勝ノ肝煎ニテ進物ヲ献上ス
 ・松井興長母・自得院、(江戸證人トシテ)江戸ニ著ス、松井政之ヤガテ帰国セン
 ・和子上洛ニ付土井利勝ノ通達
 ・五百坪ノ栗石
 ・来年江戸城普請ニ付秀忠駿府滞在ノコトは不定ナラズ
 ・妻木之徳(貞徳二男・旗本1,000石)女房衆親類ノ者召抱・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→妻木勘兵衛カ?
 ・木下延俊女(忠興孫)ノ縁談
 ・大阪城普請ニツキ大坂普請奉行(渡邊勝)細川家ノ為大ニ斡旋ス

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■疱瘡ばゝあ

2023-05-16 07:05:39 | 史料

 現在当ブログでは「本能寺からお玉ヶ池へ」シリーズを御紹介しているが、種痘は「医学の革命」とされ、事業に関わった先駆者に明智光秀や織田信長のご子孫が深くかかわっておられるという事実は、誠に不思議な感じではある。
恐ろしい疱瘡(天然痘)という病は、1956年(昭和31年)以降患者の発生はなく、1976 年(昭和51年)を最後に痘瘡ワクチン の定期接種(種痘)が廃止された。
当然ながら私らの年代は、腕にその痕跡を残している。
世界的にもその絶滅に努力されたのが、世界保健機関(WHO)の責任者であられた熊本出身の医師・蟻田功氏であり、1980年(昭和55年)5月WHOは天然痘の世界根絶宣言をおこなった。
蟻田先生は今年の3月、96歳で亡くなられたが、この疱瘡が十数世紀にわたり死病として恐れられた事を想うと、そのご尽力を忘れてはならない。

 古い史料を読むと、「疱瘡婆」という言葉を見出す。どうやらこれは地方によってとらえ方が違っているようだ。
東北では「疱瘡」をまき散らす「疫病神」として言い伝えが残されているようだが、熊本ではと言うと、疱瘡に罹ったら「疱瘡婆」を避けよと言われていたらしい。
   ばゞを禁じ夜伽等も相断り申候。以前およぎ殿(患者の姉)難症の砌はばゞ許り大勢にて、とかく疱瘡はゐき病にて忌む事これ
    ありと相見へ申候。居間抔も不浄なり。当分は禁じ申すべく左様相心得返す/\もばゞは介抱忌み申すべきこと。」

詳しい解説はないが、どうやらかって疱瘡に罹患した女性という意味ではないのか。抗体を持ち疱瘡患者の近くに遭っても伝染しないように思うが、どうやら受け止め方は真逆のようである。

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■熊本史談会5月例会御案内

2023-05-16 06:25:02 | 熊本史談会

         熊本史談会5月例会御案内

              記
 
期日:令和5年5月20日(土)午前10時00分~11時45分(質問時間を含む)
場所:熊本市民会館 第6号会議室
演題:「宮本武蔵」のウソ・ホント ここまでわかった武蔵の足跡と人物像
講師:歴史家・宮本武蔵研究家 福田正秀氏 

                                                      
 
一般参加自由:
    事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
    尚、講演前に当会の例会を催しますので、入場は開演10分前からとさせていただきます。

    又、コロナ対策の爲のマスクの着用は随意と致しますが、ご記名をお願いいたします。

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