津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御扶持方御切米御帳(2)

2023-05-15 08:50:50 | 史料

後家衆
                     西山左京殿    (西山左京=13代将軍足利義輝の遺児尾池義辰の子、熊本藩士1,000石)         
 一 貮拾人扶持               御母儀
                     鳴海丹後
 一 貮拾人扶持               後家
                     桑原主殿助
 一 貮拾人扶持               後家
                                   谷主膳
 一 拾五人扶持               後家
 一 拾人扶持                阿蘇神主娘
 一 拾人扶持                徳雲院
                                   嘉恵九左衛門
 一 拾人扶持                後家
                                   三宅平太夫
 一 五人扶持                後家
 一 五人扶持                多寺瑞仙母
                     波多中庵
 一 拾人扶持                後家
 一 五人扶持                匂當後家
 一 拾人扶持                下田与左衛門女房・娘 (忠利殉死)
 一 五人扶持                田中意徳後家     ( 同上 )
 一 五人扶持                伊藤太左衛門女房   ( 同上 )   
 一 五人扶持                津崎五助女房     ( 同上 )     
 一 五人扶持                小林理右衛門母    ( 同上 )   
 一 三人扶持                野田喜兵衛女房    ( 同上 )    
 一 貮人扶持                杉原少三郎母     ( 同上 )     
 一 拾石                  河田猪兵衛母     ( 同上 )     
 一 貮人扶持五石              宮原勝左衛門女房   ( 同上 )   

 〇御扶持方合百六拾七人扶持
 〇御切米合拾五石

御上臈衆
 一 四人扶持貮拾石             ていよ
 一 三人扶持拾五石             かも
 一 右同                  おとく
 一 貮人扶持拾石              おミや
 一 三人扶持銀六百貮拾目          おやな
 一 貮人扶持銀三百五拾目          おたん
 一 右同断                 おなつ
 一 貮人扶持銀貮百目            おかち
 一 貮人扶持拾石              おすま
 一 貮人扶持拾石              おかめ
 一 壹人扶持三石              くま
 一 貮石                  せき
 一 右同断                 夕きり
 一 壹石五斗                梅かえ
 一 銀八拾目                たつ
 一 貮人扶持七石              おち
 一 貮人扶持六石              なか

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■霜女宛米田是季書状

2023-05-15 07:16:53 | 先祖附

 ガラシャ夫人の最期を伝えるものとしてつとに有名なのが、侍女「霜」が光尚の乞いに対して書き遺した所謂「おしも覚書」である。
今回はその内容ではなく、光尚の指示により霜に対して義兄(姉聟)米田監物(助右衛門是政)の子是季がその旨を依頼した書簡を取り上げる。

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正保四年三月光尚君江戸江御参勤之前、監物是季に御意御座候ハ、秀林院様御生害の事今程覚候者可有之哉、監物母雲仙庵か妹しもと申者御側に相勤、其節之儀覚居可申候、当年ハ御急被成候間、来年御登り之節京都御まん様(烏丸光賢簾中)江御寄可被遊候、其時分しも罷出候ハゝ可被聞召との事ニ付、監物より其段しもに申遣候

    又申まいらせ候 しかれハ ひこさまこゝもと御のほり前われらに おゝせられ候ハ、しうりん院さまの御さひこのやうすついに御聞不被成候、もはや今
    ほとその折ふしの事共くわしく存候ものハあるましく候、それさまハ御そんし有へきとおゝせられ候まゝ私申上候ハ、一段其とうりニて御座候、御はて被
    成候前かとの御つかひをもそれさまなされ候、御さひ期まて付て御入候、御ゆいごんをも御聞候て御出候ニ付、くわしく存られ候と申候得ハ、左候ハゝ今
    度江戸御下りニハ御急きなされ候まゝならせられす候、来年御のぼりの節ハ御まんさま江御より可被成候間、そのきざミそれさま 御まんさまへ御出ニて
    御入候へ、やうす御聞可被成候まゝ此よし私ところより申進候へとおゝせ置れ候、ふしミニて野々口丹波ニも左様ニ仰られ候よしニ御座候、もはやとしま
    かりよられ候まゝ、何事もわすれ申さるへく候へとも、まつ御意の通申つかハし申へきよし御返事申あけ候、めて度かしく
       (正保三年)五月十五日                       なか岡けん物
                御しもさま
                    人々申給へ

  右之通ニ付翌年霜より書付(おしも覚書)差上申候

ハ江州佐々木一族、田中之城主一ニ田中坊比良内蔵助江州比良之城主なり、比良太郎兵衛か親なりか妹也、米田助右衛門是政妻・野々口丹波妻ハ右内蔵助か為ニも姉也、しもハ同国和尓之城主入江兵衛尉に嫁す、兵衛尉父ハ入江順幸入道とて生国ハ摂津之由、織田信長に仕へ候
   一書、霜ハ近江七人衆の内比良娘にて、入江兵衛太夫一本ニ摂津侍女房、入江仁兵衛母と云々、又一書、霜は比良内蔵助妻之妹と有之米田家記 
夫ト兵衛尉山崎合戦の時明智殿の手にて討死、依之其子仁兵衛と共ニ助右衛門方ニ参、仁兵衛ハ与七郎と一所に在之、霜ハ秀林院様江相勤候、外ニ娘壱人有名ハかめ、後ニ京都浪人臼井九左衛門友甫と云者ニ嫁す、此故を以秀林院様御生害後ハ九左衛門所ニ罷越候、

    長岡監物室・雲仙庵とシモ(入江兵衛尉室)との関係を示す略系図
     

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和五年」を読む (2)

2023-05-14 11:07:51 | 先祖附

忠興文書-元和五年(1619)

  (九月十九日、於中津六丸=光尚誕生ス)

194、十月十一日書状(忠興八月九日ニ賜暇、十月ハ在国)
 ・来春大阪城普請ニ付摂津御影・飯森辺ニ石場ヲ取ル、淡路ノ石場ハ蜂須賀家(忠利相婿)ノ年寄衆ニ交渉スベシ

195、十月十五日書状
 ・筑紫主水(後広門)ノ出府ヲ了承
 ・山名禪高屋敷ヲ才覚(取得?)スベシ
 ・墨蹟ノ表具ハ気分回復セザル為遅ル
 ・茶入レヲ忠利ニ送ル、代金ハ内密ニスベシ
 ・大阪城普請ノ指令出ズ
 ・渡邊筑後ニ万事頼ミ入ルベシ
 ・普請奉行(花房正成・長谷川守知・日下部五郎八・渡邊筑後)、花房・長谷川ハ黒田長政ト知音(細川ー黒田家の関係悪シ)
  日下部五郎八ト入魂ニスベシ
 ・惣奉行戸田氏銕ニツキテハ土井利勝ヨリ依頼アル筈
 ・小田原城ヲ土井利勝ニ下賜ノ噂
 ・田中忠政出府、福島正勝越後下向
 ・木下延俊(室忠興女・加賀)女ノ縁談ハ土井利勝ノ同意ヲ得テ定ムベシ
 ・墨蹟・茶入及ビ茶入袋箱ニハ例ノ印ヲ押ス

196、十一月十三日書状
 ・秀忠ニ鷹野道服ヲ献ズ
 ・土井利勝・伊丹康勝ニモ道服ヲ贈ル

197、十二月三日書状
 ・土井利勝・酒井忠世・本多正純・伊丹康勝等年寄衆加増ヲ受ク
 ・大坂城普請坪数決定次第通知ヲ待ッ
 ・後藤又一郎(又兵衛二男)母ハ以前ゟ豊前ニ招ク積リ
 ・眼痛ノ為不干(佐久間正勝)妻木之徳ニハ返書ヲ遣サズ
 ・忠利米千俵拝領之由
 ・江戸茶湯流行
 ・所望ノ豊前焼無之ニ付、長崎ゟ取寄ノ品進之候
 ・秦宗巴ノ香炉ハ興元遺物目録ニ書入レシ故忠利所望ニ応ジガタシ
 ・伊達政宗駿府ニ屋敷ヲ望ム

198、十二月十九日書状
 ・鷹ノ鶴拝領ノ御礼を早打ヲ以テ申入ル
 ・高羽ノ鳥箒・保呂羽

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■御扶持方御切米御帳(1)

2023-05-14 07:47:35 | 史料

寺社方
  一 壹石三斗八升 御■供米壹ヶ月分毎月相渡ル   妙解院殿(忠利公)
  一 右同     右同理             泰勝院殿(幽齋公)
  一 右同     右同              光壽院殿(幽齋公夫人・麝香)
  一 右同     右同              秀林院殿(忠興公夫人・ガラシャ)
  一 右同     右同              正受院殿(忠興公女・烏丸光賢簾中 萬姫)
  一 五百石                妙解寺 慶宝
  一 百石                     大渕和尚(泰勝寺開山)
  一 百貮拾石                   知雄院
  一 拾石                     永勝院 (宇佐八幡宮の社僧ヵ)
  一 五人扶持貮拾石                鏡首座
  一 貮拾人扶持                  正学寺
  一 三人扶持貮拾石          妙解寺行者 玄徳  品川妙解寺宿坊
  一 四拾石   江戸升二而夏冬両度ニ貮拾石完渡ル 朔首座
  一 銀子五拾枚 江戸ニ而相渡ル       紫野 元盛
 (御印・以下同)  
  〇 御扶持方合貮拾八人扶持
  〇 米合八百六石九斗
  〇 銀子合五拾枚

御合力方

  一 百五拾人扶持                 小代下総
  一 百人扶持                   朽木内匠頭
  一 五拾人扶持                  三池左兵衛
  一 五拾人扶持                  三池善太夫
  一 五拾人扶持 江戸升ニ而相渡ル         幸 小左衛門
  一 三拾人扶持 京升ニ而相渡ル          細野圖書
  一 貮拾人扶持 江戸升ニ而相渡ル         垣屋玄休
  一 拾人扶持  右同               平野三悦
  一 拾人扶持  御知行之外ニ被遣         欲賀道芸
  一 七人扶持                   佐久間藤七妹・壹人女房姉
  一 右同断                    大西太兵衛・同勘十郎・女房妹貮人
  一 五人扶持                   柴田萬作・母・柴田安之丞 
  一 右同断                    野間権太夫母
  一 右同断                    中小路左源太せかれ貮人
  一 拾人扶持                   木庭道願
  一 七人扶持拾八石                宮本武蔵
  一 貮拾人扶持                  岡部道宇
  一 米貮百俵                     同人
  一 大豆五拾俵                    同人
  一 餅米三俵                     同人
  一 小豆二俵                     同人
  一 六人扶持                   才賀大蔵
  一 九拾石   年中三度ニ被遣          三宅藤右衛門
  一 三拾六石  右同理り             三宅新兵衛
  一 拾八石   年中三度ニ被遣          三宅左京
  一 五拾石                    鹿子嶋治部左衛門
  一 百石    京著米ニ而被遣          浄正院様
  一 百石    大坂渡り             阮正堂
  一 百石    京升大坂渡り           本阿弥勝兵衛
  一 五拾石   大坂渡り             小田長左衛門
  一 貮百石   右同               柏原道喜
  一 三拾石   右同               井上道因
  一 貮百石   右同               生田四郎兵衛
  一 貮百石   右同               意休庵
  一 金小判三拾両                 細田清印(荒木村重の孫・細田栖印)
  一 同五拾両                   渡邊権兵衛
  一 銀子七拾五匁 御賄銀壱ヶ月分         三渕三入(細川幽齋の兄・藤英の子・光行の三男。山入とも)
  一 五拾石                    西郡要人作
                           浅山修理亮

  〇 御扶持方合五百四拾貮人扶持
  〇 御合力米合千三百拾五石八升
  〇 大豆拾八石
  〇 小豆七斗ニ升
  〇 金小判八拾両
  〇 銀子七拾五匁 御賄銀壱ヶ月分                   

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■御扶持方御切米御帳を取り上げる

2023-05-13 13:04:05 | 史料

「部分御舊記 賞賜并選挙部」に正保貮年‐御扶持方御切米御帳なる貴重な資料が紹介されている。
全32頁に亘るものだが、これを当ブログでご紹介しようと思い付いた。
熊本藩に於ける侍の身分制度は「士席・歩段・諸役人段・足軽并抱夫」の四階層で構成されている。
士席が言わゆる「馬乗り」と呼ばれるもので、これはいわゆる「侍帳」で系統的にまとめられており、松本寿三郎先生監修の「細川藩侍帳集成」なる佳書が存在する。
しかし乍ら「歩段・諸役人段・足軽并抱夫」については、系統だった資料が見当たらない。
正保二年という一時代に過ぎない史料ではあるが、この資料が持つ意味合いは大きいものがある。
一番近い時代のデータとして慶安元年のものによると「知行取892人」に対し「切米・扶持米取」は3617人とある。
文化9年になると知行取は1.4倍ほどに増員しているが、切米・扶持米取は1.6~1.7倍ほどに増えている。
これは、それだけ行政を実質的に動かす人材を必要としたことを物語っているのだろう。
次回から下記の分類について順次ご紹介していきたいと思う。

    寺社方、御合力方、後家衆、御上臈衆、松之助衆、御喝食江御附衆、江戸定詰衆、京・大坂詰衆、御役者衆、
    御物書・御算用衆、御留守居諸奉行、所々御番衆、諸役人、御船頭・御加子、御町奉行ニ御付衆、御飛脚・鉄炮衆、
    御留守居鉄炮衆、御掃除衆、御花作、御蔵長付・蔵子、御荒仕子、新地鉄炮、 

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■本能寺からお玉が池へ ~その⑮~

2023-05-13 07:16:57 | 論考

 このシリーズは、東京深大寺にある医療法人社団‐欣助会・吉祥寺病院の医師で明智光秀のご子孫である西岡暁先生によるものであり、これも光秀の血を引く三宅艮斎やそのご子孫、これに連なる江戸時代から、近代初頭にいたる江戸・東京の医学の系統を明らかにされた、大変興味深いものである。
季刊であるため3ヶ月の間が空いたが、その「じんだい・第71号」をお送りいただいたので全文を文字おこしをしてご紹介申し上げる。
今回は細川家にも関りある森鴎外の「護持院ヶ原の敵討」や、三宅藤兵衛と赤穂浪士との関りなども取り上げられている。お楽しみいただきたい。

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   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2023:4:28日発行 第71号            
     本能寺からお玉が池へ ~その⑮~              医局・西岡  曉


      春なれや 名もなき山の 薄霞 (芭蕉)

 この句は、芭蕉さんが「桃青(とうせい)」と名乗っていた時代に「野ざらし紀行」で故郷・伊賀から大和への道行の途中、大和国に入
にあたって詠んだ句で、季節は春です。そして、芭蕉さんの代表作と云われるのも、春の句です。

その句は、今では誰もが知るところとなっていたので、芭蕉さんの作品だと言うばかりではなく「俳句の中の俳句」とまで云われています。

      古池や 蛙飛び込む 水の音 (芭蕉)

 この句は、「本能寺の変」(とは無関係ですが、)から百年ほど後の1868年(貞享3年=「野ざらし紀行」の翌年)に江戸・深川の芭蕉
庵で
詠まれたもので、芭蕉さんは初めに「蛙とんだり 水の音」という下の句を思い付きました。
これだけでも「俳句の革命」なのだそうです。
(ですが、その話はこちらのテーマからは外れるので、ここでは触れません。)

 さてここで、これまで幾度も登場された「お玉ヶ池生まれ」(異説あり、と言うか「お玉ヶ池生まれ」が異説とされています。)の「蕉
門四
天王」&「蕉門十哲」筆頭で「月下を医す」人=宝井其角(1661~1707)にはいま一度お出まし戴きましょう。芭蕉庵の「蛙」の
(?)句会に
参加した其角は、師匠の芭蕉さんに上の句のアイディアを訊かれると直ちに「山吹や」と答えました。

(その後芭蕉さんが直した下の句と合わせると次のようになります。

      山吹や 蛙飛び込む 水の音 (芭蕉&其角?)

 これはこれで「山吹」(の花の姿)と「水の音」の対比が際立つ名句です。芭蕉さんがこれを採ったとしても、蛙の鳴き声ではなく水の
音を採り入れたことだけで「俳句の革命}と云われたことでしょう。ただ芭蕉さんはそうは思わず、「古池や」としました。
そのお陰でこの(「古池や・・・」の)句は、世にあるすべての俳句の代表作と云われるまでになったのです。
「古池や・・・」の句が「俳句の革命」なら、種痘は「医学の革命」と言えるでしょう。(強引なのは百も承知です。)
「お玉ヶ池種痘所」の発起人・三浦艮斎の先祖である明智岸の妹・ガラシャは、辞世「散りぬべき時・・・」に桜花を詠っています。
ガラシャの辞世の歌は、(土岐)明智一族の心と(日本の)キリシタンの心を重ねて詠ったものです。それから400年、「日本人の心を詠
った」と称する桜花の俳句があります。

      ちるさくら 海あをければ 海へちる (高屋窓秋)

 この句を詠った高屋窓秋は、三浦艮斎・坪井信道(二代目)等が開設した「お玉ヶ池種痘所」を源流とする東京帝国大学医科大学に学ん
だ産婦人科医でもあった水原秋櫻子の(窓秋は医師ではなく俳句の)弟子の一人です。
ところで、一昨昨年の「深大寺道をゆく」旅では、芭蕉さんの桜の句をご覧頂きました。

      さまざまなこと 思ひ出す 櫻哉  (芭蕉)

 この句は、芭蕉さんが「芭蕉」になって7年、江戸へ下って16年の1688年(貞享5年。「野ざらし紀行」から3年。)春、故郷・伊賀上
野に帰省した芭蕉さんが伊賀の桜を詠んだもので、その桜の屋敷=芭蕉さんの旧主・藤堂良忠(藤堂藩侍大将。俳人・蟬吟でもありました。1642~1666)の遺児・良長(俳号・探丸)の屋敷は、今「様々園」の名で遺されていて(私邸のため)園内には入れませんが、毎年塀越しに桜花を愛でることが出来ます。

[17] 湯島
「お玉ヶ池種痘所」の発起人・三宅艮斎の先祖である明智岸の妹・玉に洗礼を授けて「ガラシャ」にしたのは、侍女の清原マリア(生没年不詳)でした。清原マリアの父・清原枝賢(1520~1590)の伯母・智慶院は、ガラシャの夫・細川忠興の祖母です。
昔の昔のその昔、清原マリアの先祖と云われる清少納言(同じく生没年不詳)が「春はあけぼの・・・  夏は夜・・・ 秋は夕暮れ・・・ 冬はつとめて・・・」と書いた時代になるのでしょうか。
 不忍池もその東にあった姫ヶ池も、その北の千束池も(と云うことは「お玉ヶ池」も)海だったその頃、海の上から(後に江戸の町になる)陸を眺めた時、上野の山も本郷台地も島に見えたことから本郷台地(の海寄り部分)は湯島と呼ばれるようになりました。 

               
                              江都名所「湯しま天満宮」(歌川広重)

 これが湯島の「島」の由来ですが、「湯」の由来は良く分っていません。(本来なら[8]か[11]でお話しすべきでしたが、)その頃この辺りはまだ「本郷」ではありませんでしたので、「本郷台地」とは言えません。尤も「台地」もは見えなかったから(現在の本郷も含めて)「湯島」と呼んだ訳で、湯島に出来た集落の中主なものが「湯島本郷」と呼ばれ、室町時代に略して「本郷」になったと云われています。
 (「本能寺の変}の主要メンバー・斎藤利三の曽孫と思われる)徳川綱吉は、湯島の地に1690年(元禄3年)、湯島聖堂(@文京区湯島1丁目)を建てました。百年後ここは幕府の学問所=正平坂学問所になったので、「学校教育発祥の地」とされていますが、元は儒学に傾注していた綱吉が孔子廟として建立(正確には、林羅山が1632年に上野に建てた施設の廟=忍岡聖堂を移築)したものです。
 正平坂学問所は、明治維新後明治政府の「昌平学校」になり、1869年に([9]で述べたように、医学校が「大学東校」、開成学校が「大学南校」になったのと同時に)「大学校」になりました。大学侯は国学と漢学の学校でしたが、国学と漢学との抗争(?)が激化したため、2年後に廃校されてしまいました。一方(?)大学南校は外国語と洋学の学校でしたが、1874年に「東京開成学校」と統合して「東京大学」となります。その際、東京大学文学部が「史学哲学及び政治学科」と「和漢文学科」の二学科で発足しましたので、廃校されて6年の(大学南校の源流である)昌平学校が、ちゃっかり(?「東京大学文学部」の名称で)復活したとも言えるようです。
 ところで、芭蕉さんは「奥の細道」の旅から戻った次の年・1692年(元禄5年)の桃の節句に、宝井其角ともう一人の高弟・服部嵐雪(1654~1707)を招きました。その折芭蕉さんは、「草庵に桜桃あり。門人に其角・嵐雪あり」と称えた上で、次の句を詠みました。

      両の手に 桃と桜や 草の餅  (芭蕉)

 それに応えて、という訳ではありませんが、嵐雪は春の句と言えば、次の梅の句でしょう。

      梅一輪 いちりんほどの 暖かさ  (嵐雪)

 服部嵐雪は、江戸・湯島の生まれと云われ(異説もあります。)、湯島天神の鳥居には、嵐雪の本名=服部久馬之助の名前が刻まれているそうです。もし嵐雪が湯島の生まれならば、この句の「梅」は、当時から有名だった湯島天神の梅(=「湯島の白梅}?実際、湯島天神の梅はその8割が白梅だそうです。)を詠ったものかもしれませんね。

 [18] 一橋

 徳川幕府五代将軍・綱吉は、母・桂昌院(お玉の局)の祈祷所として1681年(天和元年)に護国寺(@文京区大塚5丁目)を、幕府の祈祷所として1688年護持院(現共立女子大学@千代田区一ツ橋2丁目)をと、二つの巨刹を建立しました。この中護持院は、綱吉の死後1717年(享保2年)に火災で焼失したため護国寺の境内に移され、護持院の跡地は火除け地となり、「護持院ヶ原」と呼ばれるようになりました。「江戸名所図会」によれば、護持院ヶ原はその後、冬から春にかけては将軍家の狩場として使われましたが、夏から秋にかけては江戸の市民に開放され、市民の憩いの場になったそうです。
 森鴎外の小説に、「播磨国飾東郡姫路の城主酒井雅楽頭忠実の上邸は、江戸城の大手向左角にあった。・・・」と始まる話があります。
この「姫路の城主酒井雅楽頭忠実」は、[10]で触れた酒井抱一の兄・忠以(姫路藩第2代藩主)の次男(ですが、藩主としては4代目)です。この小説のヒロインは「細川長門守興建の奥に勤めていた」娘ですが、細川興建は、ガラシャの夫・忠興の弟・興元を初代とする矢田部藩(@茨木県つくば市)の第8代藩主です。細川興元は、忠興とガラシャの次男(=明智光秀の孫でガラシャがキリシタンとした)興秋を養子にして、後には興秋とその母・ガラシャの勧めで自身もキリシタンになったそうです。ガラシャの夫・忠興の母・沼田麝香も、ガラシャの死の翌年キリシタン沼田マリアになりました。

 鴎外のこの小説は、漱石の「吾輩は猫である」の8年後同じ雑誌「ホトトギス」に掲載されました。題名を「護持院ヶ原の敵討」と言い、そのクライマックスの舞台に護持院ヶ原が使われています。「ホトトギス」主宰・高浜虚子(1874~1959)が居(兼「ホトトギス」発行所)を構えたのは、護持院ヶ原から九段坂を挟んで西に半里ほどの処でした。

       灯をともす 掌にある 春の闇  (虚子)

 ところで「敵討」といえば、なんといっても「忠臣蔵」でしょう。討ち入りの後、大石内蔵助始め17名の赤穂浪士が熊本藩お預けとなり、浪士を引き取りに赴いた旅家老(他藩で言う江戸家老)が明智光秀の玄孫・三宅藤兵衛重経で、下屋敷で出迎えたのが藩主で同じく明智光秀の玄孫だったこと、そして熊本藩士・堀内傳右衛門が大石内蔵助に三宅藤兵衛は明智左馬之助(秀満)の子孫であると教えたことを[8]でお話ししました。この時の将軍事件のきっかけ(=浅野内匠頭の切腹)を作ったと云われるのは、誰あろう(斎藤利三の曽孫と思われる)徳川綱吉です。また討ち入りの日の月番老中は稲葉正往でしたが、正往は[14]で述べたように斎藤利三の玄孫です。
 赤穂浪士の討ち入りから150年近く後の1856年(安政3年)、徳川幕府は洋楽の研究教育のため「蕃書調所」を九段坂下(@千代田区九段北1丁目)に開きました。「蕃書」とは、今でいう「洋書」のことです。蕃書調所の教授(後には頭取)には、後年「お玉ヶ池種痘所」の発起人筆頭となる箕作阮甫が、同じく発起人(で織田信長末裔・坪井信道の娘婿)になつ坪井信良が教授手伝いになりました。6年後蕃書調所は、護持院ヶ原に移転して「洋書調所」になります。

        

                             絵本江戸土産「護持院ヶ原」(歌川広重)

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■忠利嫡男六丸(光尚)という幼名は第六子故

2023-05-12 10:19:27 | 人物
 先の■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和四年」を読む (1)に、忠利室・千代姫が懐妊したことを忠興が江戸在の忠利に伝えている。(4)当初、忠利の嫡男・光尚のことかと考えたが、どうもその誕生からするとすると時期が早すぎる。
光尚より一年ほど前同腹に一人お子が生まれている可能性がある。

     系譜家伝録、光尚多兄弟生在第六故以爲幼名、兄皆夭死、忠利立光尚爲家嫡云々
細川忠利の嫡男・光尚の幼名は「六丸」、その名の由来は「第六子」の故と綿考輯録は記す。
つまり光尚誕生前に5人のお子が誕生していたことになる。過去の記録を辿ってみよう。
忠利室・千代姫の輿入れは慶長十四年だが、六丸誕生までは十一年かかっている。
実はその間、正室・側室の子が五人誕生していたのだが、細川家家譜は正式な記録には留めていない。忠利公は11人のお子があった

  1,慶長15・6年比千代姫様御腹に御一男御誕生、
  2,元和二年御誕生の御子様御名ニ辰の字を可被用思召之趣、忠利君江戸より豊前に被下御書有(下津久馬所持)
  3,双子と思える女子の存在が、忠利-三斎の書簡で伺える。妾腹か?
    亀・福 寛永六年正月忠利君御書「かめふく儀不便なる仕合(死去)可申上様も無御座・・」
    三斎君御書「亀福儀承驚申候・・・右之仕合無是非儀ニ候事」
  4,元和四年五月十一日忠利在府 三斎からの書状に「御姫(千代姫)御懐妊の儀ニ付・・」
    この前に数度にわたり在小倉の忠興は、中津に在る千代姫が不食気味である事を心配し服薬を進めていることを江戸の忠利に
    知らせている。

    そして此の記事に至るのだが、光尚の生年からすると光尚ではない。綿考輯録の編者小野武次郎は、六・七月にお産があった
    のではないかと記している。
    詳しい記録がないところを見ると「死産」「夭折」の可能性も伺える。
  5,元和五年九月十八日、第六子として御六(光尚)誕生

「其比は万事留書様之事ニ心を用たる人稀なる時代」で「五人の御子様御誕生の事もしるし伝へたるもの無之」「(光尚は)唯六人目の御子様と云はかり」と小野武次郎は当時の記録の杜撰なことを指摘している。
細川家家譜は1~4までの5人のお子については正式に記録していない。

光尚誕生後、妾腹に「藤」「宗玄」「竹」「尚房」「元知」の二男三女が誕生している。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和五年」を読む (1)

2023-05-12 08:31:42 | 史料

忠興文書-元和五年

183、正月五日書状(忠興江戸・忠利中津)
 ・年頭之祝儀到来祝着
 ・小笠原忠眞ニ中津城ノ天守ヲ贈ル(元和三年七月廿八日、信濃松本ヨリ播磨明石ニ移ル)

184、正月十二日書状
 ・忠利帰国、祝着
 ・拝領之馬死ス(其外人十人果候由、無是非儀)?
 ・興元忠利ノ茶釜ヲ所望ス(人ニ御やり候ハゝ此方へ可給候)
 ・秀忠四月日光社参、五月御上洛之沙汰

185、二月十六日書状
 ・天千代(興孝)二忠利玩具ヲ送ル  (正月二證人トシテ江戸ニ赴ク・三歳)(注に五男とあるが七男が正解)
 ・西国大名ニ帰国ノ暇出デズ
 ・忠利當秋江戸下向ノコトハ忠興賜暇ノ様子タルベシ
 ・後藤又一郎母ノ儀
 ・忠興屋敷東ノ長屋ノ儀
 ・秀忠招請(御成)ハ西国大名衆ノ順番ニ依ルベシ

186、三月四日書状
 ・横山掃部死亡ソノ替人ヲ伊丹康勝土井利勝ニ談合ス
 ・掃部知行ノ処置
 
187、三月九日書状
 ・屋敷拝領ノ由相聞候哉、一切沙汰ナキコト
 ・播磨・備前ニツキ風説
 ・明石城普請ニツキ雑説
 ・大坂城主交代ノ噂
 ・出府中ノ諸大名ニ帰国ヲ許ス(森忠政・蜂須賀至鎮・堀尾忠晴・有馬豊氏・寺嶋廣高、其外ハ沙汰無之)
 ・伊達政宗はしめ奥東之衆参勤セン

188、三月十五日書状
 ・忠興弟・興元病ニ伏ス(三月十八日歿)

189、四月八日書状
 ・忠利ヨリ天千代(興孝)ニ帷子ヲ贈ル

190、四月十四日書状
 ・秀忠廿九日上洛ノ予定
 ・忠興モ二三日中ニ出立
 ・土井利勝ヨリ忠興・忠利ノ上洛ニツキ指示アリ
 ・秀忠伏見到着ノ日取、利勝日程ヲ言ハズ

191、四月廿五日書状
 ・秀忠忠興ニ帰国ノ暇ヲ與フ
 ・秀忠忠興ヲ被召往時ヲ談ズ
 ・福島正則許可ナクシテ廣島城ヲ普請シ咎ヲ受ク、詫言ニテ身上別儀ナシ  (後改易)
 ・秀忠江戸出立ヲ五月五日二相延

192、五月六日書状(附・五月五日忠利書状)
 ・土山ニテ書状披見、秀忠上洛出迎ノコトハ他ノ大名竝ニスベシ
 
 ・忠利四月廿八日中津出船、五月四日吉田到着予定
 ・秀忠上洛ノコトハ利勝ニ尋ネン

193、六月廿七日書状
 ・忠興、京都烏丸邸ニ着ス

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■森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」と歴史的事実の相違について

2023-05-11 10:25:51 | 書籍・読書
チャットGPTにちょっと意地悪な質問をしてみた。
 
「回答」ChatGPT

私の知識は2021年までのものですので、森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」についての具体的な情報は持っていません。また、実際の歴史的事実と小説の相違についても確認することができません。

ただし、一般的に小説や映画などのフィクション作品は、歴史的な事実とは必ずしも一致しない場合があります。作家や映画監督は、物語の展開やドラマチックな要素を追加するために、歴史的な事実を創作や改変することがあります。

したがって、森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」と歴史的事実の相違については、小説自体や歴史的な資料を調査する必要があります。専門の文学研究者や歴史研究者による解説や批評を参考にすることで、小説と実際の歴史の違いについて理解を深めることができるでしょう。

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■吉原実氏論考御紹介ー『慶長日件録』に現れる佐久間備前守安政とその一族

2023-05-11 07:25:24 | 論考

        『慶長日件録』に現れる佐久間備前守安政とその一族
                                   吉原 実

 天武天皇第三皇子である親王を遠祖とし、公家で半家の清原国賢を父に持つ舟橋秀賢が、慶長五年(一六〇〇)正月より同十八年正月十八日まで著した日記『慶長日件録』という文献がある。その原本は不明だそうだが、写本は前田家が所蔵との事。当時の日本には、東に関ヶ原ノ合戦で勝利した徳川家康・秀忠父子、西には淀殿・秀頼母子の豊臣政権、相方が相並んで存在するという複雑な時代であった。その様な混沌とした時代を両方のバランスを取りながら生き抜こうとした公家衆のしたたかな姿を見る事ができた。日記には秀賢と親しく交わる近江高島藩主・佐久間備前守安政やその一族の様子も登場する。安政の室の実家である勧修寺家も義兄・光豊の時代で、もちろん秀賢との関わりも方々に登場する。それらに目を向けながら当時の時代背景を理解する事も、歴史を知る観点からも必要かと思われるのである。

慶長六年(一六〇一)

 十二月廿四日
「參揚明處、廣橋大納言、勸修寺宰相、御前有之、秀賢堂上之事、以兩人御披露之處、御免由兩人被申、則稱号舟橋可稱之由仰也、稱号代々高倉雖相搆、高倉他家有之、粉敷被思召之由、如此被改者也、」
(近衛、広橋兼勝、勧修寺光豊らが立ち合い、秀賢の姓を清原から船橋に変える事が認められた時の様子である。この日が初昇殿でもある)

慶長八年(一六〇三)

 七月廿八日
「今日、内大臣秀頼公被迎妻室云々、江戸大納言家、御息女也、伏見ヨリ大坂ニ到舟船悉、」
 (大坂の豊臣秀頼の所へ江戸から千姫が輿入れした日である)

 八月十一日
「乙未、晴、秀頼卿御祝、其爲御禮諸公家下向、及予也亦大坂ニ下、冷泉、山科、四條令同船、申刻到大坂、着岸、秀頼卿拝出、長印軒宅一宿、」

 十ニ日
「晴、齋了、着衣冠、秀頼卿亭参、先揃家衆御禮、有御振舞、次淸花等也、有一献、御太刀進上、晡時各退出、平野大炊人道己雲齋許ヘ行、」
(大坂城の豊臣秀頼の所へ、冷泉為景・山科言継・四條隆昌たち他の公家衆と共に下向した。前月にあった秀頼と千姫の婚礼の祝いを持参したようである。秀賢が十二日に寄った平野氏は、平野大炊九朗右衛門長景の事であろう。父の長治は清原宣賢の孫であるので、秀賢とは親戚にあたる。細川幽斎(藤孝)も親戚にあたる。長景の弟・長泰は賤ヶ岳七本槍の一人)

 十三日
「晴、早々長印許へ行、長印令同道、片桐市正許へ行、式目假名抄遺之、一段満足由也、今度、秀頼卿自萓堂、式目假名抄之事被仰出、書本出來間、市正令同道、城ニ参、則式目抄上下ニ冊、居臺并錫酒鍋三つ進上也、見事出來御祝着之由、御返事也、帷子壹重袷壹銀子五枚致拝領、尤眉目之至也、未刻退出、長印令同道、長印私宅に歸、次今中彌三郎許、振舞行、今中勘右衛門始逢宅、及黄昏、歸大炊許ニ、」
(長印を同道させて片桐市正(且元)の所へ行く。とは、京都の行政権を司る役職()の責任者の事。式目名抄とは御成敗式目(貞永式目)を注釈し本にした物。秀賢の四代前の清原が著した。秀頼の母(・淀殿の事)からも要望があり、持参したようである。今中勘右衛門とは光安の事で、元々足利将軍家の奉公衆であったが、この当時は浅野長政に仕えている。秀賢が大坂に下向した折には泊まる長印軒、この家の長印という人物は誰であろうか。専門家の方のご教示も頂いたが、長印という者らしいと言う事以外は判明しない。御調も名なのか職業なのかも判らない。秀賢に写本を依頼しているので、裕福な商人なのかも知れない)

 九月廿一日
「さくま久衛門女中より二荷三種給之」
(佐久間安政の奥方より四個(二荷)の酒樽と三種類の酒の肴を頂く)

 十二月七日
「勸修寺宰相殿へ兩種二荷遺之、儀同殿爲一周期故也、」
(勧修寺光豊の父であった晴豊(儀同)の一周忌のお供えを届けたようである。命日は翌日の八日であるが、我が家の菩提寺である近江高島の幡岳寺の過去帳にもその様に記載が残る)

慶長九年(一六〇四)

 二月廿日、
「佐久間久右衛門、簾中令來給、杉原一束給也、」
(佐久間安政の奥方が訪れ、紙を一束戴いたそうである。安政の奥方は公家・勧修寺晴豊の娘で、後の光寿院である。杉原紙は播磨国杉原で透かれた和紙)

 四月十六日 
「晴、朝食、片桐市正可被振舞由、被示之間、僧正令同心、向彼宅、於書院、片市相伴、有振舞、此間榜庵被來、則令雑談畢、巳刻、市正令同途、御城へ登、有暫、秀頼様御対面、御手取熨斗鮑給也、予秀頼様へ進物、御太刀一腰、三畧踈本一字不見點也、黄昏書之進也、則有御被見、御祝着之由也、次秀頼様御母堂様へ杉原一束、箔帯ニ筋裁一筋上ニ置之進上、又秀頼様政所様へ錫五封進上、午刻歸宅、次平野己雲齋嫡男五郎左衛門、加藤主計頭家中ニ居住也、」
(秀賢が片桐市正を同道させて大坂城へ行く。大坂城では秀頼や淀殿、千姫に色々な進物を献上している。親戚の平野長治の嫡男・五郎左衛門長時と会う。長時は加藤清正の家臣であった)

 六月三日
「今夜九條殿、殿中納言、御納婦迎也、其身三好小吉息女也、小吉死後、秀頼卿御母堂爲猶子養育也、今度秀頼卿御母堂、悉皆御造作也、路次行粧擔物等驚目者也、」
(言中納言・九条幸家が正室を迎える。相手は三好小吉(豊臣秀吉の姉の子である羽柴秀勝)の娘で。実は秀勝と淀殿(茶々)の妹であるとの間にできた娘であったが、秀勝亡き後に淀殿の猶子として育てられた。その嫁入り支度を淀殿がすべて行い、輿入れ道中の荷物の豪華さに人々が驚いたと書いている)

 七月四日
「晴、佐久間九(久)右衛門女中天朔誕生女子云々、日取共書付遺也、従女房衆、爲祝義、双樽兩種遺也、」
(佐久間安政の奥方に女子が誕生したので、日取共書付と祝いを持って行かせたようである。天朔とは、天(神)が示した第一日目という意味か暦の事だろうか。当時、安政は伏見の屋敷にいたと思われるので、七月一日に生まれた情報が三日後のこの日に着いたのかもしれない。安政と奥方の間には六人の娘がいたが、この日に生まれたのは何人目の子であったのだろうか。我が家の初代の腹違いの妹たちにあたる)

 十二月八日
「今日勸修寺儀同、晴豊卿第三回忌也、昨日可焼香之由、内々被示之間、辰刻、向彼亭、座敷相伴衆、廣橋大納言、中御門中納言、亭主、飛鳥井宰相、鷲尾宰相、阿野少将、左衛門佐、小川坊城、土御門左馬助、予等也、此外僧俗卅人斗有也、」
(公家の勧修寺晴豊の命日である。その三回忌。秀賢たち公家衆は昨日すでに焼香を済ませていたようである。この時の勧修寺家の当主は光豊で、父の跡を継ぎ後陽成天皇の武家伝奏をしていた。佐久間安政の室・光寿院の兄にあたる)

慶長十年(一六〇五)

 六月十五日
「佐久間九衛門息女來入、三荷三種与給之、奴僕以下悉薦晩飡、」
(佐久間安政の娘が酒と肴を持ってきたので、下男たちも含めて皆で夕食に頂いたとの事である)

 十二月十八日
「晴、齋了、佐久間久右衛門息女歸宅、此中依病惱、於予宅、養生也、本復之間、被歸宅、」

(安政の娘が病の為に秀賢の自宅で療養していた様子。病が癒えたので、この日に帰宅したとの事である。佐久間家との昵懇な間柄が判る記事である。齋了とは、毎日の神事を終了したという事)         

慶長十一年(一六〇六)

 十一月廿ニ日
「晴、早朝、板倉伊賀守へ予知行所、人足、爲公儀、淀之塘、御普請、罷出由、承届候、然は予也手前屋敷相替ニ付、屋作普請、人足無之間、被用捨様ニト申遺處、則同心也、仍人足召遺畢、次九條殿ヘ参、御對面也、次親王御方へ参、論吾従今日令讃初給、次曼受院宮より二種二荷給也、次九條殿二荷三種給也、次佐久間久右衛門女中、二荷二種遺也、」
(朝早くに京都所司代・板倉勝重の所へ行っている。秀賢の知行地にある淀の堤での公儀の普請の為に人足が必要なのだが、自分の屋敷の建て替えの人足が無くなるが構わないと言ってあった様子。それを重勝が了承したので、早速人足を送ったとの事。この勝重の嫡男が重宗である。親王の所へ論語を教えに行っている。この日が初回のようである。親王とは、後陽成天皇の皇子・政仁親王(後の後水尾天皇)の事だと思われる。曼殊院(天台宗)は宮門跡なので、この時の宮はであろうか。佐久間安政の所へ物を届けている。「二荷二種」とは天秤棒で担がれる荷物二つで一荷と数えるそうであるので、二荷で四個の荷物。この場合は酒樽の事であろう。「種」とはおそらく酒の肴の事ではないだろうか。二種で二種類の酒の肴)

 三月廿一日
「晴、今夜新宅へ移徒、仍爲祝義、佐久間久右衛門女中より双樽兩種被恵也、」
(禁裏増築の為に移転した秀賢の新居が完成し、この日から移ったようである。佐久間備前守奥方よりお祝いの酒樽二つと肴を贈られる)

慶長十二年(一六〇七)

 四月廿一日
「晴、女房衆、八千代丸、金丸等、伏見叔母之許へ行、佐久間久右衛門女中衆、予女房衆姉也、」
(秀賢に仕える女たちの姉たちが、佐久間安政の奥方に仕えていた様子。因みに、「船橋家譜」には、秀賢の妻は近江の六角義賢(承禎)の娘(従妹・叔母の子)となっている。当時の佐久間家の伏見屋敷は古地図で確認すると、現在の京阪電車・墨染駅の近くにあるが、京屋敷は二条城の近くにあったのであろうか。伏見と京を結ぶ鳥羽街道や竹田街道を往復したのであろう)

 十月四日
「佐久間久右衛門息女三人、被來、美濃帋五束給也、」
(安政の娘三人が、秀賢の所へ来たようである。美濃紙を三束、手土産に持参した)

慶長十五年(一六一〇)

 正月十五日
「十帖たひ一足佐久間久右衛門女中より給也、」
(安政奥方から十足の足袋の一束を貰ったようである) 

 十八日
「晴、今日右府、惣禮也、仍早々令衣冠、殿下令御禮、登城御禮之次第、先摂家二献、次公家衆一献有也、」
(豊臣秀頼(右府)が公家衆たち皆の礼を受けた。秀賢が九条忠栄(殿下)と共に大坂城に登城したようである。秀頼より摂関家と門跡には二献、その他の公家衆には一献があった)

 廿八日
「晴、参番、内義、伏見佐久間久右衛門へ行、」
(秀賢が宮中へ出向く当番であったようである。奥方が伏見の佐久間屋敷に出向いたとの事)

 六月十五日
「壽光院得度、法身院僧上、戒師、」
(佐久間安政の正室・光寿院の母で、勧修寺晴豊の妻であった寿光院が得度した。寿光院は土御門有脩の娘で修子の事である。法身院僧上とは高雄山・神護寺の法身院普海僧上の事だろう)

 十六日
「壽光院より諸白樽、肴等給也、豊國ニ位、一折恵也、」
(豊國ニ位とは豊臣秀頼の事である)

 七月十一日
「佐久間久右衛門女房衆來入、朝食薦也、諸白双樽、肴三種給也、午刻久右衛門始而被來、太刀折帋、帷子、單服等恵也、女房衆、單服、帷子被恵之也、子共各々有音信、」
(京の秀賢宅に佐久間久右衛門の女房衆(婦人たち)が来訪。朝食を薦め、諸白両樽と肴三種を給わった。諸白(もろはく)とは、麹米と蒸米両方に精白米を使う酒造りの製法。今の清酒のようなものらしい。午後には久右衛門自身が初めて来訪。太刀折帋(折紙)・帷子(かたびら)・単服などを戴く。女房衆には単服と帷子を戴く。子供達にもそれぞれ音信(いんしん・贈り物)を戴く)

慶長十六年(一六一一)

 十月十六日
「晴、早朝、佐久間備前女中より重箱餅給也、」

(佐久間備前の奥方から重箱の餅を給わった。これより先、秀賢は九月廿四日に京から江戸に出府。駿府滞在を経て十月十四日に江戸に到着し、日本橋近辺に借宿している)

 十七日
「佐久間備前女中より白米壹石五斗、塩噌給也、朝喰二佐久間備前へ行、」
 (白米や塩・味噌を給う。その後に朝食まで御馳走になったようである。佐久間家との親しい間柄を表している)

 十八日
「佐久間備前守より酒樽、鮭一尺海老、豆腐等贈給也、」
(いろいろと戴いているようである)

 廿日
「晴、午刻御豪様へ進物共進也、備前より案内者被添遺也、御豪様へ箔貼帯五筋、京殿へ帯一筋、女共より縫箱帯二筋進也、」
(秀賢が将軍・秀忠夫人のを訪ねるにあたり、佐久間安政より案内者を遣わされたようである。高価な帯を土産に持参するようだ。京殿とは京極高次の室で江の姉、の事であろう)

 廿三日
「佐久間備前守へ朝飡ニ行、次三縁山増上寺へ見物に行、」
(佐久間備前守邸へ朝食に出向き、その後、増上寺へ行ったようである)

 廿六日
「山、冷令同心、佐久間大膳亮許へ朝飡に行、」
(冷泉為景・山科言継と共に佐久間大膳亮勝之の所で朝食を馳走になったようである。佐久間勝之は安政の弟である)

 十一月朔日
「晴、佐久間備前女中より鳥子榮螺等給也、」
(安政の奥方より、とりのこ和紙やサザエを戴いたようである。とりのこ和紙とは鳥の卵のような色をした厚手の)

 四日
「吉田周慶來談、晩飡ニ行、論吾一部遺也、入夜新庄越州より紅花廿袋賜也、佐久間備前へ朝飡行、山冷令同心畢、盛法印参會、新庄越州へ行、」
(新庄越州は麻生藩二代藩主・新庄直定の事。佐久間盛政の娘・虎姫の違父弟にあたる。山科と冷泉と共に佐久間備前の所に朝食に行く。盛方院とは、堂上家の吉田兼右の一族で宮内卿・吉田浄慶の事であり、幕府の医官でもあった。周慶も一族であろうか)

 五日
「晴、拂曉、佐久間備前より使者被示、鶏時後、女中男子誕生云々、木造長吉より蝋燭五十挺給也、次佐備州へ男誕生見舞ニ行、太刀馬遺也、有盃圴、従盛方院、書状共致來也、佐久間備前より紅花五十袋給也、同大膳亮より蝋燭百挺給也、同久六より紅花十五袋給也、木造左馬助内義より紅花十袋給也、板根傳三郎見舞ニ來、」
(佐久間備前守安政に、朝早くに二人目の男子(安長)が誕生したようである。腹違いの嫡男の勝宗とは二十三歳の年の差があった。秀賢が慌てて見舞いに行き、太刀と馬を遣わした。盃酌があった。医師・吉田浄慶から書状が来る。お産の現場にいたのであろうか。佐久間勝之や勝宗から紅花や蝋燭を給わっている。木造長吉・左馬助は福島正則家臣の南伊勢の木造(北畠)氏の一族だろうか。嫡男・勝宗(久六)は元和二年(一六一六)三月に、二十八歳で家督を継ぐことなく早世してしまう。その奥方は信濃・上田藩主の真田信之の娘・まさ(見樹院)であった。佐久間家の家督は結局、この日に生まれた安長が将来継ぐ事になる。一方、佐久間安政には三人の奥方がいた。最初の奥方は、織田信長が紀州を手中に収めた折に、紀州有田の土豪・保田(湯浅)知宗が、安政の伯父である柴田勝家に人質に差し出した娘を娶り、その婿養子となり保田安政と名乗った。勝宗は保田氏との間の子である。次に佐々成政の娘を娶る。二人の間には娘が一人いたと伝わる。最後は公家・勧修寺晴豊の娘を奥方にする。この日記に登場する光寿院で、勧修寺宰相・光豊の妹、京・鹿苑寺の住持・の姉である。因みに、我が家の初代は紀州・保田氏の庶家である吉原氏を継いだと思われる。最初の奥方との間の子で、佐久間家の系図に出ない勝宗の弟であろう)

 六日
「晴、上洛令用意畢、備前女中より小袖一重給也、及晩、新庄越州へ行、此間備前暇乞、被來云々、逐跡、備州、越州へ被來、越州内者新亟、折檻佗言、再三令助言、今夜相済畢、」
(秀賢が上洛の用意をした。佐久間安政の奥方より小袖一重を戴く。晩に新庄直定の所に行っている間に安政が暇乞いに来たが、秀賢がいないので追って新庄邸にやって来たようである。因みに、新庄直定の嫡男・直好の奥方は佐久間安政の娘である)

 七日
「晴、新因州、同蔵人暇乞、被來、四時出宿、佐備前處立寄、令暇乞、有盃圴之後、乗馬、山、冷同心畢、狩野川一宿、入夜雨沃、」
(秀賢が京への帰路に着く。出発の前に新庄因幡守(直定の従兄弟・秀信か)と蔵人(祖父の直昌か)が暇乞に寄る。四時に宿を出て、佐久間備前の屋敷に寄り別れを告げる。一献酌み交わして乗馬。冷泉爲景が同道する。川で宿を取るがひどい雨のようである。狩野川は静岡県の伊豆にある天城から沼津に至る川)
 
最初に述べたように、この船橋秀賢の日記『慶長日件録』が書かれた時期は、歴史的にも非常に混沌とした時代であった。
しかし、秀賢の日記からはその様な緊張感が伝わらない。日常的な公家衆や武家たちとの交流に勤しむ姿が描かれている。
その中に、当時の近江高島藩主であった佐久間備前守安政や、その奥方との交流の様子が多く現れる。おかげでこの時代に生きていた先祖の姿を見る事ができたのである。
安政同様、親戚である細川家、平野家や浅野幸長、加藤清正、最上義光、池田輝政、松浦鎮信、山名豊国、結城秀康、京極高知、吉田兼見・兼治、三渕藤利や京都所司代・板倉勝重などとの交流も盛んである。
秀賢は慶長十八年六月ニ十八日(異説あり)に四十歳で亡くなっている。ちょうど大坂ノ陣の二年前である。元々虚弱な体質であったようで、豊臣氏の滅亡をその目で見る事なく、その早い生涯を閉じたのである。

   参考文献

   『慶長日件録一・ニ』(続群書類従完成会)
   『新訂寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)
   『系図纂要』(名著出版)
   『勧修寺家系図』
   『公家諸家系図』
   『宮廷公家系図集覧』(東京堂出版)
   『新庄家系図』
   拙稿「初代金沢城主・佐久間盛政の系譜」(同人誌「櫻坂」十四号)
   拙稿「隔冥記に見る勧修寺家と飯山佐久間家の交わり」

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■日本語の素晴らしさ「木漏れ日」

2023-05-10 17:26:37 | 徒然

                                         木漏れ日哉 道を迷いし七曲り   津々

 数年前、木山街道の国府にある七曲りを歩いたのは、時期的にはもう少し後かもしれないが、木漏れ日が地上にキラキラ輝いていて思わず書き留めたものである。

最近フランス大使館のインスタグラムに、投稿者が大好きな日本の言葉に「木漏れ日」を上げて居られたが、フランス語には単語としては存在しない言葉だそうな。
フランスに限らず外国では、該当する単語はなく説明的に表現しているようだ。
たとえば英語では sunlight filtering through trees などとあるが、説明という意味合いからすると、他にもいろいろな表現がある。

上の私の駄句、何ともお粗末なのは季語がないことだ。実は私は「木漏れ日」を季語だと思い込んでいたが、よくよく考えれば春夏秋冬ありうる光景だという事に考えが及ばなかった。
意味合いは「木の枝葉の間から漏れる日差し、その光景」と説明されている。
インスタグラムを眺めた後、ふとこの句を思い出したが、さてこの状況をどのように読み替えようかと考えている。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和四年」を読む (3)

2023-05-10 05:53:44 | 先祖附

忠興文書-元和四年(3)

171、九月四日書状
 ・(小倉へ)一色左兵衛(範勝)差遣ニツキ、土井利勝ニ答禮スベシ

172、九月六日書状
 ・光壽院四十九日過ギ次第小倉ヲ出立セン
 ・忠利室一段息災
 ・為御礼奉行衆迄馬詰某ヲ以申入候、田中半左衛門(幽齋女・伊也ノ女婿)と其方使者一人相添、大炊殿迄遣サレタシ

173、九月廿八日書状
 ・再来年江戸城普請ノ石ヲ町人・彦兵衛ニ請負ハシム
 ・石ノ善悪ヲ検分シテ後江戸へ運送セシム
 ・彦兵衛ノ仕様吟味ノ上申付ベシ
 ・石ノ數三千
 ・以前ノ採石場ハ塞ギ置クベシ
 ・廿六日光壽院ノ法事、廿七日出立予定ガ一両日延ブ
 ・眼病ハ京都ニテ治療ス
 ・其方咳氣ノ由養生肝要ノ事

174、十月十七日書状
 ・忠利光壽院ノ居所ニ移ルヲ望、光壽院召使ノ女共ヲ移度コト尤候 
  (江戸證人)沼田勘解由(延元)女居候近所之長屋へしこみタルベシ         多阿(タア)=平野九郎右衛門嫁
 ・光壽院ノ道具ハ長屋ノ三階ニ置クベシ

175、十月廿三日書状
 ・隠密ノ文ハ自筆タルベシ
 ・十月上旬上洛ス 眼病ノ治療
 ・替米
 ・江戸ニ珍敷雲・はうきほし(旗雲彗星)現ル由、いつかたも同前
 ・九月十七日日光東照宮臨時祭、奇特なる儀
 
176、十月廿七日書状
 ・眼醫師ノ診断ニヨリ療治セズ江戸へ下ルベシ

177、十一月七日書状
 ・忠興出府ノ途ニツカバ忠利状況スベシ

178、十一月八日書状
 ・十一日京都ヲ出立セン

179、十一月十一日書状
 ・忠利帰国ノ暇ヲ與へラル、(光壽院死去ニヨリ)江戸ニ人質ナキ故(忠興)江戸到着迄(忠利ハ)逗留スベシ

180、十一月十二日書状
 ・忠興石部ニ到着ス、秀忠ヨリ拝領ノ鷹ノ鶴到来、忝令頂戴候

181、十二月三日書状
 ・十一月廿四日忠興江戸参着、廿七日御目見、晦日ニ御茶被下候、紫ノ御茶入之御ひらき
 
182、十二月五日書状
 ・為見廻被差越、道服二到来祝着
 

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■チャットGPTにチャレンジしてみました。

2023-05-09 13:04:23 | 徒然

チャットGPTにチャレンジしてみました。
まずは「インターネットサイト・肥後細川藩拾遺について」と質問しましたら、回答次の通り。

「肥後細川藩拾遺」というインターネットサイトについて、私は2021年9月までの情報しか持っていませんので、具体的な詳細については知りません。そのため、このサイトに関する最新の情報や具体的な内容についてはお答えすることができません。

ただし、一般的な情報として、肥後細川藩は日本の江戸時代に存在した藩の一つで、現在の熊本県を治めていました。細川藩は歴史的に重要な藩であり、その歴史や文化に関連する情報を提供しているウェブサイトである可能性があります。

もし「肥後細川藩拾遺」という具体的なウェブサイトについて詳細を知りたい場合は、インターネットで検索するか、直接そのサイトを訪れることをおすすめします。

ものの数秒で帰ってきた答えですが、誠に正直というかあっけないというか、まだまだ我がサイトの認識とはこんなものなのだと思ったことでした。

 

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■不平等条約と開かずの金庫

2023-05-09 10:12:42 | 歴史

 昨日は午後から熊本市南区の釈迦堂にある清田家をH氏にお供して訪問した。約2時間半ある事についてのH氏の取材である。
以前所さんのそこんトコロ「開かずの金庫」-熊本・清田家を書いたが、私はわざわざ録画したBL-Rをお送りいただいた。
この際出てきたメダルが「万延元年遣米使節」の小栗上野に随伴した熊本藩士・木村哲太がその記録にとどめたそのメダルであった。
清田家ご当主・清田泰興氏の解説によるとこの旅は「日米不平等条約」の解消を意図するものであったろうと仰る。
それはまさに、木村哲太の詳細な記録の中に遺されている。
青潮社版の木村哲太の「航米記」p189に大統領の俸禄が書かれている。「二万五十圓($)。我銀一万八千七百五十両」という書き込みがあるが、銀一両といえば銀4.3匁、18,750×4.3匁=80,625匁、60匁が1両だから約1,000両、1両=10万円とすると約1億円となる。
そして当時の大統領の給料が1億円だという話になるが、この計算からすると1$は5,000円ほどになる。
まさに外交的非力がこう事態を招いた。

 さて清田家の「開かずの金庫」実際拝見すると「船箪笥」状のものであったが、ここから出てきたのが大統領から贈られたというメダルであった。
それぞれの役職に従い、金・銀・銅のメダルが送られているが、哲太は銅メダルを頂戴している。
直径約30㎜ほどのその実物を拝見した。

                      

 2時間半ほどH氏の質問は続いたが、それは何故清田家に此のメダルが存在するのかという事であろう。
木村哲太の渡米の費用約100両は肥後藩が負担している。この決済に清田新兵衛なる人が関わっていなかったかという疑問である。
残念ながらそれにこたえる資料は得られなかったが、大変有意義な時間を過ごすことが出来た。
以前訪問したのは熊本大地震の前であったが、このお宅も大被害が出た。熊本市の「重要建築文化財」の指定を受けたこの建物の修復には1億数千万円がかかったそうだが、熊本市の多額の補助が入っている。
そういう意味において、是非活用の機会を含め見学(無料)にお出でいただきたいとはご当主・泰興氏のお話しである。

付け足し:昔は住まいの周辺に堀が掘られていたらしく「船着き」がある事に気が付いた。
     その他、種々の文書の写真撮影などをさせて頂いた。

                                                               
                  

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■所在不明ー自主製作映画「山頭火」

2023-05-09 06:00:33 | 熊本

             

 40年ほど前、新町在住の榎本茂・健造兄弟が自主制作された8㎜映画「山頭火」(正式題名不詳)が行方不明になっている。
この写真はその映画で山頭火を演じた弟の健造氏である。そしてその背後にある絵は、この映画が鶴屋百貨店で試写会が催されるにあたり、急遽日本画家・MT氏(元・史談会会員)が描かれたものである。
お話を伺うと、京都西陣から生地を取り寄せ、昼夜兼行で8日間で書き上げられたという。試写会会場に飾られた。
40年が経過しているから、大変失礼だがお二人の御存命のほどは存じ上げないが、この映画のフイルムをどなたかが借り受けたままお返しにならないらしい。たしかな話ではないが山頭火ゆかりのH町の方ではないかという。
新町の古家を見付て「貸家札」を張り付けたり、諸道具を集めたり、兄の茂氏がカメラマンを勤めそれこそ阿蘇のススキ原に踏み入り、ススキの葉で顔を切り血だらけの姿で撮影に臨まれたという。
まさに兄弟お二人の魂の籠った映画なのだが、何とかその所在を知りたいものだ。
出来うれば複製のフイルムを制作して新町に保存できればと考える。私が所蔵する8㎜映写機を寄贈しても良いと考えている。

コメント (2)
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