『高い城の男(The Man in the High Castle)』(電子版、TVシリーズ)
フィリップ・K・ディック原作の『高い城の男(The Man in the High Castle)』のTVシリーズ(Amazon Prime Video)を見始めた。原作とはだいぶ違うようだ。そちらも並行して読み始めた。
大きな違いはいくつもあるが、そのひとつが原作では『イナゴ身重く横たわる』が連合国が枢軸国に勝利したという内容の小説であること。一方TVシリーズでは『イナゴ身重く横たわる』はたくさんバリエーションのある映画フィルムのリールに貼られたシールに書かれたタイトルであるというところだ。小説の場合は事実であるか創作であるかどうかは判別のしようがないが、映画の場合は実写であるのか演出であるのか判別が難しい点は小説と同様ではあるものの、実在の人物(TVシリーズに登場する人物)が写っている場合、たとえば、ドラマの中の登場人物が映画の中で殺される人間として表現されているのを見た場合、どれが真実なのかが謎解きとなる。
二つ目の違いは登場人物の役回りが微妙に違うことだろう。先の小説か映画かだが、原作ではアベンゼンは小説家であり、TVシリーズでは映画作家でありコレクターでもある。TVシリーズでは、かれの言動では他の世界に行ったことはないようだが、では、どのようにして映画を撮影、編集、コレクションしたのかが良くわからないままストーリーが進んでいく。それはそれで、良いだろう。あくまでも原作と翻案という位置づけなのだから。私の今やっていることのように原作を読みながら(ただし、日本語訳を)、英語版(日本語字幕)のTVシリーズを視聴するということをするのは、必ずしも必要としないので、多くはそれぞれの作品を個別に楽しむだろうから。
一方、共通のところは易経による易占がある種の狂言回しのように使われていることだろう。易占の結果である六十四卦がシンボリックに示され、ドラマの展開が示唆される。ただし、易経も一つだが、日本人の行動や英語の発音、また、挟み込まれる英語なまりの日本語(必ずしも正しくはない)が、アメリカ人のオリエンタリズムそのままに使用されているということが奇妙に映る。文化的に正しく描くことが必須であるとは思わないが、グローバリゼーションの進む中、たとえば、原作は1962年発表であるのでそのタイミングはともかくとしても、すくなくとも、TVシリーズの方は2017年から放映が始まっているので、もう少ししっかりと抑えておいてもよいとおもうのだが、どうだろう。
TVシリーズの最後のシーンで、旧アメリカ軍人でナチスのトップまで至ったジョン・スミス(原作にはない登場人物でTVシリーズでは重要な役割を演じる)、最後は主人公のジュリアナに「自分はこの道を選んだ」とのメッセージを残して自死するのだが、それだとたしかに自己決定を肯定するというアメリカ文化を肯定するようであるとおもえるが、彼のナチスに従い虐殺に加担したことを肯定してしまうことになると思えるのだが、まあ、よけいなお世話だろうが。
TVシリーズで「トラベラー」が何人か登場する。かれらは、危機的な状況になると、あるいは自己の意志で別の世界と行き来する事ができる。また、ナチスは科学技術によって「ニーベンベルトへの入り口」(タイムトンネル)を開発し、複数世界を侵略しようと企んでいる。とはいえ、多元宇宙と表現されて入るのだが、少なくともジョン・スミスとジュリアナが関わる世界は一致していて、不定の他世界にトラベルするわけではない。その世界は連合国が勝利を収めた世界なのだ。このあたりは、多元宇宙と言いつつもご都合主義的ではある。他の世界に飛んだジュリアナを暗殺すべく(あるいは、連れ帰るべく)ジョン・スミスは刺客を送り込むのだが、かれは、他の世界の別の生活をいとなんでいるが、ジュリアナを助けようとして、刺客により殺されてしまう。ナチスのアメリカ帝国の元帥となったジョンは自分の世界では不治の病のためナチスに淘汰された息子のトーマスが生きているもう一つの世界にでむく。その世界ではトーマスはベトナム戦争を闘うアメリカ合衆国の海兵隊に指板しようとしていた。
原作の小説内小説の『イナゴ身重く横たわる』では、ヒトラーは自殺しておらず、戦争裁判にかけれれている。歴史的人物の人名もあるが、我々の知っている現実世界とはもちろん違う。登場人物の一人、ジョー・チナデーラは、ナチスだが『イナゴ身重く横たわる』を良く読んでいる。彼によると、敗れたナチス・ドイツの国家社会主義は、連合国は同質の組合国家主義となっていて、戦後、世界各国を支援して経済復興を成し遂げている。世界を指導するのはイギリスのチャーチルで20年以上も政権を担っている。ジョーは、どっちが勝っても似たようなものだという。原作者ディックのペシミズム(あるいは、冷戦期における意識)が反映されているのだろう。
原作では原作者の生きた冷戦期を反映して水爆を利用しての日本への核攻撃をふくむレーヴェンツァーン(たんぽぽ)作戦に関わる情報戦が描かれる。
原作では、登場人物のひとりの古美術商のチルダンのやりとりから、モノのヒストリシティ(史実性)、あるモノは歴史的事件や人物に関わっているが、もう一つはそうではないというやりとりは興味深い。とすると、ヒストリシティをともなうものには価値が伴い、そうでないものにはモノとしての価値しかない。とはいえ、そのヒストリシティをどのように証明するのか?それを証明する書類一枚がその命運を分かつことになる。タイムトラベルものの作品にとって、価値とはなにか、事実とはなにかが重要なポイントなのだ。モノの価値は情報が決めると考えてよいのだろうか?また、チルダンと日本人顧客の梶浦との会話の中で、フランクの製作した装飾品についての会話もまた、モノと価値付けについてである。チルダンは芸術家であるフランクが作った装飾品を芸術品であるとして売りつけようとしているのだが(あるいは贈る)、梶浦に大量生産されたお守りのようなものだ決めつけられてしまう。最初から最後まで一人の作者によって手作り制作されたものであっても大量に出回れば、安っぽいものになってしまうというのだ。
モノだけではない。原作ではナチスと日本の虚実を包みこんだ関係性、ナチス政権内の権力闘争、送り込まれたスパイや密使などが重要なストーリーを構成するのだが、登場人物の価値観(何に重点を置いて行動しているか)は状況主義的に揺らぐ。人間性とは、あるいは、人間にとって生きる意味や価値はなにかが問われているように思える。
まあ、どっちが面白いかというと、ある種原作のいいとこ取りをして、原作者の名前のブースターも獲得したTVシリーズに゙軍配が上がるだろう。さらに、原作にはない映像(原作では小説内小説)、ナチスにより鉱山の坑道に作られたタイムトンネル(重要登場人物のジョン・スミスがこれを使って別世界に行く)、タイムトラベラー(TVシリーズでは旅人)も登用して、結構楽しめた。
大きな違いはいくつもあるが、そのひとつが原作では『イナゴ身重く横たわる』が連合国が枢軸国に勝利したという内容の小説であること。一方TVシリーズでは『イナゴ身重く横たわる』はたくさんバリエーションのある映画フィルムのリールに貼られたシールに書かれたタイトルであるというところだ。小説の場合は事実であるか創作であるかどうかは判別のしようがないが、映画の場合は実写であるのか演出であるのか判別が難しい点は小説と同様ではあるものの、実在の人物(TVシリーズに登場する人物)が写っている場合、たとえば、ドラマの中の登場人物が映画の中で殺される人間として表現されているのを見た場合、どれが真実なのかが謎解きとなる。
二つ目の違いは登場人物の役回りが微妙に違うことだろう。先の小説か映画かだが、原作ではアベンゼンは小説家であり、TVシリーズでは映画作家でありコレクターでもある。TVシリーズでは、かれの言動では他の世界に行ったことはないようだが、では、どのようにして映画を撮影、編集、コレクションしたのかが良くわからないままストーリーが進んでいく。それはそれで、良いだろう。あくまでも原作と翻案という位置づけなのだから。私の今やっていることのように原作を読みながら(ただし、日本語訳を)、英語版(日本語字幕)のTVシリーズを視聴するということをするのは、必ずしも必要としないので、多くはそれぞれの作品を個別に楽しむだろうから。
一方、共通のところは易経による易占がある種の狂言回しのように使われていることだろう。易占の結果である六十四卦がシンボリックに示され、ドラマの展開が示唆される。ただし、易経も一つだが、日本人の行動や英語の発音、また、挟み込まれる英語なまりの日本語(必ずしも正しくはない)が、アメリカ人のオリエンタリズムそのままに使用されているということが奇妙に映る。文化的に正しく描くことが必須であるとは思わないが、グローバリゼーションの進む中、たとえば、原作は1962年発表であるのでそのタイミングはともかくとしても、すくなくとも、TVシリーズの方は2017年から放映が始まっているので、もう少ししっかりと抑えておいてもよいとおもうのだが、どうだろう。
TVシリーズの最後のシーンで、旧アメリカ軍人でナチスのトップまで至ったジョン・スミス(原作にはない登場人物でTVシリーズでは重要な役割を演じる)、最後は主人公のジュリアナに「自分はこの道を選んだ」とのメッセージを残して自死するのだが、それだとたしかに自己決定を肯定するというアメリカ文化を肯定するようであるとおもえるが、彼のナチスに従い虐殺に加担したことを肯定してしまうことになると思えるのだが、まあ、よけいなお世話だろうが。
TVシリーズで「トラベラー」が何人か登場する。かれらは、危機的な状況になると、あるいは自己の意志で別の世界と行き来する事ができる。また、ナチスは科学技術によって「ニーベンベルトへの入り口」(タイムトンネル)を開発し、複数世界を侵略しようと企んでいる。とはいえ、多元宇宙と表現されて入るのだが、少なくともジョン・スミスとジュリアナが関わる世界は一致していて、不定の他世界にトラベルするわけではない。その世界は連合国が勝利を収めた世界なのだ。このあたりは、多元宇宙と言いつつもご都合主義的ではある。他の世界に飛んだジュリアナを暗殺すべく(あるいは、連れ帰るべく)ジョン・スミスは刺客を送り込むのだが、かれは、他の世界の別の生活をいとなんでいるが、ジュリアナを助けようとして、刺客により殺されてしまう。ナチスのアメリカ帝国の元帥となったジョンは自分の世界では不治の病のためナチスに淘汰された息子のトーマスが生きているもう一つの世界にでむく。その世界ではトーマスはベトナム戦争を闘うアメリカ合衆国の海兵隊に指板しようとしていた。
原作の小説内小説の『イナゴ身重く横たわる』では、ヒトラーは自殺しておらず、戦争裁判にかけれれている。歴史的人物の人名もあるが、我々の知っている現実世界とはもちろん違う。登場人物の一人、ジョー・チナデーラは、ナチスだが『イナゴ身重く横たわる』を良く読んでいる。彼によると、敗れたナチス・ドイツの国家社会主義は、連合国は同質の組合国家主義となっていて、戦後、世界各国を支援して経済復興を成し遂げている。世界を指導するのはイギリスのチャーチルで20年以上も政権を担っている。ジョーは、どっちが勝っても似たようなものだという。原作者ディックのペシミズム(あるいは、冷戦期における意識)が反映されているのだろう。
原作では原作者の生きた冷戦期を反映して水爆を利用しての日本への核攻撃をふくむレーヴェンツァーン(たんぽぽ)作戦に関わる情報戦が描かれる。
原作では、登場人物のひとりの古美術商のチルダンのやりとりから、モノのヒストリシティ(史実性)、あるモノは歴史的事件や人物に関わっているが、もう一つはそうではないというやりとりは興味深い。とすると、ヒストリシティをともなうものには価値が伴い、そうでないものにはモノとしての価値しかない。とはいえ、そのヒストリシティをどのように証明するのか?それを証明する書類一枚がその命運を分かつことになる。タイムトラベルものの作品にとって、価値とはなにか、事実とはなにかが重要なポイントなのだ。モノの価値は情報が決めると考えてよいのだろうか?また、チルダンと日本人顧客の梶浦との会話の中で、フランクの製作した装飾品についての会話もまた、モノと価値付けについてである。チルダンは芸術家であるフランクが作った装飾品を芸術品であるとして売りつけようとしているのだが(あるいは贈る)、梶浦に大量生産されたお守りのようなものだ決めつけられてしまう。最初から最後まで一人の作者によって手作り制作されたものであっても大量に出回れば、安っぽいものになってしまうというのだ。
モノだけではない。原作ではナチスと日本の虚実を包みこんだ関係性、ナチス政権内の権力闘争、送り込まれたスパイや密使などが重要なストーリーを構成するのだが、登場人物の価値観(何に重点を置いて行動しているか)は状況主義的に揺らぐ。人間性とは、あるいは、人間にとって生きる意味や価値はなにかが問われているように思える。
まあ、どっちが面白いかというと、ある種原作のいいとこ取りをして、原作者の名前のブースターも獲得したTVシリーズに゙軍配が上がるだろう。さらに、原作にはない映像(原作では小説内小説)、ナチスにより鉱山の坑道に作られたタイムトンネル(重要登場人物のジョン・スミスがこれを使って別世界に行く)、タイムトラベラー(TVシリーズでは旅人)も登用して、結構楽しめた。