少しばかりハイキングしたくて、近くの津久井城址公園に行ってきました。秋に一度行ったばかりですが、仕事の疲れを癒すためと春の公園はどんなだろうと思って行きました。今回は山頂には行かず、もっぱら周辺を歩きました。
首が痛くなるほど見上げる巨木の下を通る散策道
入り口を入ってしばらくすると林に入ります。何十年も前に植林したのでしょうか、杉やヒノキの巨木があちこちに生えていました。切り株があったので年輪を数えました。すると60年は確実に生育した木でした。それらの巨木の間を縫うように散策道が作ってあります。雷が落ちて割れて倒壊した木もありました。
巨木の間の散策道 土の散策道から鉄の散策橋へ
散策道を通っていくと、山の中腹の開けた場所に到着しました。見晴らしも良く、ベンチが整備されていました。そこでしばしの休憩。開けた場所は戦国時代の武家屋敷跡とのことでした。ここは後北条氏と武田氏が覇権を争った場所です。
戦国時代の武家屋敷跡
武家屋敷跡を見下ろすベンチで休憩すると再び散策道に戻って歩きました。すると、今度は鉄製のとても長い散策橋を歩きながらの森林浴となりました。
林を縦横無人に折れ曲がる鉄製の散策橋
山を歩くハイキングコースなどで時々散策用の橋をあることがあります。しかし、これほど長い散策橋は初めてです。幅は四人が手をつないで歩けるほど余裕を持たせてあります。また木製の道は音もせず静かです。バードウオッチングにも最適な作りになっています。
歩きやすい散策橋 車椅子も通れるゆるいスロープ
しばらく散策していると麦畑に遭遇しました。栽培されていたのは小麦です。春の日差しを浴びながら風にたなびいていました。
防鳥用の反射テープが張られていた小麦畑
山の斜面を快適に歩いていると、所々に植林の立て札が立っていました。地元の小学生が植林をしたようです。また山の下の方に、昔この地方で作られていたのでしょうか、雑穀の畑がありました。粟、キビ、小豆、陸稲などの種が蒔かれていましたが、まだ芽は出ていませんでした。
小学生による植林の立て札 何種類かの雑穀の畑
散策道も終わる頃、山のふもとに近づきました。すると、幼児が安心して遊べる遊具園がありました。平日だったせいか子供の数は多くなかったですが、休日はたくさんの子供達の歓声が聞こえるのではないかと思いました。この公園はお年寄りも障害者も、そして幼児も安心して楽しめる公園だと思いました。
数人の子供が遊ぶ遊具 広いすべり台も設置
私は子供の頃に山口県田布施町麻郷に住んでいました。家のすぐ近くの高塔山には、近くの幼稚園の園児たちが集団で来てよく遊んでいました。しかし、今は木が生い茂って誰も歩きません。この公園のように整備すれば、昔のように園児達が安心して遊べる山になるのではないかと思いました。
午後になってから急に丹沢山系に行きたくなりました。丹沢山系は20歳代の頃に神奈川山岳会の会員だった時に何度も登りました。確か5万分の一の地図上の登山道をすべて踏破したとても思い出深い山々です。
堰き止めてできた宮ヶ瀬湖側から行きました。約30年前は舗装のない一車線の狭い道でしたが立派な道路に変貌していました。すべて舗装してあるしほとんどが二車線になっていました。丹沢渓谷を下に見ながらその舗装道をバイクで進みました。
深い丹沢渓谷を見下ろしながら道を進む
丹沢渓谷を一時間ばかり行くと終点のヤビツ峠に到着しました。これから先は1日数便ですがバスが通っています。昔はこのヤビツ峠を基点に大山,二の塔などに登山しました。到着時、最終バスが来ていました。
終点のヤビツ峠と最終バス 岳の台への案内板
登山している時間がほとんどなかったため一番近い岳の台へ登ってみることにしました。昔はススキの原の見晴らしの良い山頂でしたが、今は木が生い茂って見晴らしはほとんどありませんでした。30年の月日を感じました。
岳の台への穏やかな登山道
山頂は見晴らしがありませんでしたが、少しずれた場所からは秦野市を見下ろすことができました。この町は以前勤めていた会社の工場がありました。組合のレクリエーションで来たことがある町です。また丹沢への表玄関の町です。
秦野市の向こうには太平洋が見えるはずですが、霞がかかってあまりよく見えませんでした。休日はこの丘からハンググライダーがよく飛んでいるそうです。
丹沢から見下ろした秦野市と太平洋
五月連休の最後の日、奥多摩にバイクで行ってみました。これまで奥多摩行くのはいつも晩秋でした。しかし、何年ぶりかに春にでかけてみました。連休のため道が渋滞しているかと思っていましたが、それほどでもなく比較的すいていました。のんびりと春の日差しを浴びながらあちこちを回りました。
奥多摩旧境村の一番高地から見渡した山々
奥多摩湖で休憩をとった後、旧境村を訪れました。そして、丹波山村に向かいました。奥多摩湖畔に沿う道筋は春の日差しで暖かく、のんびりとバイクで走りました。
私が大学時代(33年前)に覚えがある古い橋
丹波山村からは山筋に入り小菅村に行きました。この連休中にイベントがあったようです。広い体育館はその整理中でした。私も数年前にこのイベントに行きました。小菅村を過ぎると上野原に向かう道に入りました。
上野原の西原では麦の倒屈防止の作業していました。この地方では、麦が成長すると「やた」と呼ばれる木の枝を麦の間に差します。こうすると、枝にからまる麦が風で倒れなくなります。また、ハトなどの鳥が来なくなります。このような風景が見られるのも今ではまれになりました。
上野原の西原、麦の倒屈防止のやた掛け作業中
小麦はうどんの食材になるため比較的この地方でも作られています。しかし、大麦の栽培はまれになりました。上野原までの道のりの途中で大麦畑を二箇所だけ見かけました。この地方はお米ができないため、昔の主食は大麦でした。このため昔はたくさん作られていたようです。
急斜面の畑 斜面に作られた大麦畑
上野原から和田峠を越えて八王子に抜け、我が家に向かいました。このころになると、日も傾いて風も冷たくなりました。
今や奥多摩の象徴でもある小河内ダム
奥多摩の小河内ダムに最初に行きました。しかしながら、連休のためかとても道が混んでいました。最初、サマーランド前で渋滞、次に青梅の吉野梅郷で渋滞、そして小河内ダム前で大渋滞です。ダムに着いたのは午後1時頃で予定よりだいぶ遅れてしまいました。
当初は丹波山村に行く予定でしたが、だいぶ時間が過ぎていたため今回は丹波山村は行きませんでした。この村の古老達には、いろいろな雑穀の種をいただいたり、その作り方を教わりました。しかし、今では雑穀を作っている人は誰もいません。昔雑穀が栽培されていた畑はソバ畑になっていました。
小菅村金風呂付近の小河内ダム湖畔
次に、丹波山村から経由する予定だった小菅村に行きました。12月はもうすぐのため村人も冬の準備をしていました。冬野菜の世話や漬物作りに忙しそうでした。家の軒下には、干した菜っ葉がぶら下がっていました。
誰もいなかった通称原始村 漬物用の菜っ葉の乾燥
小菅村を過ぎて山の道を延々と走っていると、ようやく山の中にある長作に着きました。とても小さな集落です。
長作付近の舗装された山道
長作では休憩も兼ねて長作観音堂を見学しました。昔はとても山深かったであろうこの集落に、8世紀頃建立のとても古い観音堂があります。長作を過ぎると、山梨県上野原の西原に着きました。この西原は、雑穀の村として有名でした。私もここのある家に何度も着ては泊まっていました。秋にはキビ、アワ、モロコシ、シコクビエなどの雑穀の収穫を手伝いました。夜には雑穀を食材にした夕食をいろいろ食べさせていただきました。雑国に関する資料もいただきました。しかし、その家の古老が亡くなってからは行くこともなくなりました。
長作観音堂 壊れた水車小屋(水車の軸が残存)
西原には以前現役の水車がありました。その小屋に行ってみました。しかし、水車の軸は残っていましたが水車本体は無くなっていました。小屋は雑草に囲まれており、ここ数年使われていないことは明らかです。この水車には大きな石臼が設置してありました。当時、このの住民は決められた順番に水車を使って製粉していました。以前、台風による大水で壊れたこの水車を、村人と一緒に修理したことを思い出しました。
雑穀がよく栽培されていた西原の広々として畑
西原を過ぎて八王子に帰りました。この頃になると、日が影って風も冷たくなってきました。この付近は山に囲まれている地域のため、午後3時過ぎるともう家々は山の陰がかかります。早いところでは午後13時には日が当たらなくなる家もあります。とても、自然条件が厳しい地域です。
西の方を仰ぎ見るも富士山は見えず
西原から八王子に戻るために和田峠を越えます。この峠までの急な道をひたすら登ります。この地域の家々はこれから冬支度でしょうか、山の沿った急な斜面畑には漬物に使う白菜が畑にたくさん育っていました。晩秋の風物詩でもある干し柿を横目で見ながら和田峠を越えました。
木の頂上付近に取り残された柿 夕日を浴びる紅葉
和田峠を越えると、広大な関東平野が一望できる箇所があります。遠くを見ると新宿の高層ビルがポツポツと見えます。すっかり日が傾いて、山の陰が山すそを覆わんばかりです。高尾山からの下山客も足早に歩いていました。
和田峠から、八王子,関東平野を見下ろす
合掌造りの大きな民家
今日民家園に来たのは民具技術保存会の方が、わら細工や竹細工の実演をしているからです。普通わら細工というと、ただ縄を編んだりむしろを編む程度ですが、ここの保存会では、かご・座布団・ざる等ほとんどの種類を網羅しているからです。特に話かけたりはしませんでしたが、静かに実演の様子を観察しました。
私が一番興味を持ったのは手編みによるむしろの製作工程でした。今日は小さなものを実演製作していましたが、昔はもっと大きくてじゅうたんに匹敵する大きさのものを作っていました。縦横2m程度のものをいつか作りたいと思っています。昔はわらではなく粟か黍で作っていたそうです。長野県信濃市の博物館でその大きな編み機を見たことがあります。
手編みによる小規模なむしろ編み機
すぐ近くの旧民家では竹細工の実演販売をしていました。私は竹細工にも興味を持っていて、将来は簡単なザルくらいは作ってみたいと思います。竹細工の場合は細工に使う竹材料を加工することに技術がいります。竹を割ってその竹をさらに細く割った上で、薄皮を剥がなければなりません。刃物を使うので少々気をつける必要があります。4年ほど前に竹を割ろうとして、手の甲を鉈で切ったことがありました。軍手をしていましたが、軍手の生地を突き抜けてだいぶ血がでました。
竹細工の実演と販売
私が子供の頃にはまだ、わらぶき屋根の家がわずかに残っていました。また今と違って時間もゆっくりと進んでいたように思います。旧民家の縁側に座ってみると、はるか昔のかなたに去ってしまった日本の原風景をわずかに感じることができます。
実った麦の向こうに見える旧民家の数々
旧奥多摩有料道路から奥多摩湖の対岸を望む
旧奥多摩有料道路を登っていると、眼下に奥多摩湖と奥多摩の山々が見えてきました。この頃になると、雲ひとつ無い秋空になる。しかしながら、高度が上がるにつれて気温が下がり寒くなったので防寒具に着替える。
眼下に奥多摩湖,そして雲取山,七っ石山などの山々が見渡せる
三頭山下にある休憩所にバイクを止めて、しばし湖や山々を見下ろす。奥多摩湖をせき止めているダムがよく見える。じっくり眺めを満喫したかったのですが、11月の冷たい強風が吹き荒れていたためすぐに出発しました。
奥多摩湖をせき止めているダムや奥多摩の山々を望む
平地ではまだまだ紅葉はまだですが、ここ標高1000メートルでは紅葉真っ盛りです。道を走っていると道の両脇を紅葉した木々が囲みます。その紅葉を楽しみながら道を走りました。
道の両脇は紅葉した木々に囲まれる
しばしバイクを止めて紅葉鑑賞 尾根に沿った舗装道
三頭山下を過ぎると、今度は奥高尾や武蔵野の山々が姿をみせる。遠くをみると小さく都心が見える。緑の山々の上に、点のような白いビルや街がのりかかっているようだ。奥多摩の山々が紅葉を迎えているのに比べて、まだ緑が濃く紅葉はまだのようにみえる。
遠望すると、新宿などの都心が白く点々に見える
奥多摩の山々を降りて桧原村に入り、甲武トンネルを通って山梨県の上野原に出ました。上野原に出たのは「酒まんじゅう」を買う予定だったからですが、残念ながらお店は休みでした。上野原から藤野に行ってから、奥高尾に行きました。急な坂を上って和田峠に到着です。和田峠にバイクを駐車して、陣馬山に歩いて登りました。薄暗く急な山道で息もたえだえになりましたが、しばらくハーハー言いながら登っているとにわかに視界が開けて山頂に到着です。ボーイスカウトの副隊長をしていた頃、何度もこの山に子供達を引き連れて登ったことがありました。その頃を思い出すと、ちょっぴり懐かしくなります。
陣馬山の頂上には、とても目立つ大きな白馬の像が建っています
山頂には木々が生えていないため、周りの山々がよく見えます。360度見渡すことができます。東を見ると都心のビル街が小さな点に見え、南を見ると神奈川県の町が、西を見ると富士山が、そして北を見るとさっきまでバイクで通ってきた奥多摩の山々が見えました。
もう少しのんびり景色を楽しみたかったのですが、もう11月日が傾くのが早いため軽く食事をするなど30分程度休憩してから下山しました。
北の方角を見ると、さっき通ってきた奥多摩の山々が見えました
これまでの稲刈りや脱穀作業は、小学生や大学生などの若者が対象でした。しかし今日は、「多摩丘陵の自然を守る会」の年齢70歳前後の方々の脱穀作業です。農業用発動機や動力脱穀機を使ってもらって脱穀作業をしてもらいました。脱穀した稲は、自分達で田植えして稲刈りして乾燥させたものです。
私の所有する農業用発動機や動力脱穀機を使いましたので、私はひたすら脱穀機を動かして見守り、故障すると直すことに専念しました。毎年のように脱穀機を使ってもらっているので顔見知りばかりの方々です。
脱穀機のそばに稲を山のように積んで、いよいよ脱穀開始
皆それぞれの格好で脱穀作業 秋晴れの中、快適な作業
小学生や大学生は足踏みや千歯こぎを使って脱穀しましたが、今日は農業用発動機(エンジン)を使って脱穀機を動かしました。この農業用エンジンはとても古いもので、昭和20年頃のディーゼルエンジンです。農家の庭に埋まっていたものを掘り出して直したエンジンです。数年かけて直したこともあり、私の一番好きな農機具です。出力が少し小さいため負荷がかかると苦しそうに煙を出しますが、それがとても可愛く感じられます。小川の水など自然の水で冷却するため、しばらく使っていると蒸気がもくもくと立ち上がります。
山里に音を響かせる骨董品のような古い農業用エンジン
農業用エンジンの回転は動力脱穀機にベルトで伝えられます。そして、内部の脱穀ドラムを勢いよく回転させます。脱穀機に稲穂を差し入れると、そのドラムに穂が衝突して籾粒がはずれます。稲穂からはずれた籾粒は、風でワラくずと選別されて脱穀機の横にある袋に送られます。
脱穀機に稲を差し入れると、稲穂は回転するドラムに衝突
ワラくずは脱穀機の後ろに排出 排出されたワラくずをかき出す
脱穀が進むと、米袋はじきに籾で満杯になります。籾であふれる前に脱穀を止めて、新しい空の袋と入れ替えます。1袋には約30Kgの籾が入ります。
新しい米袋を取り付け 米袋に入る脱穀された籾粒
脱穀が終盤に入ると、小学生や大学生が使った古い足踏み脱穀を勧めてみました。農家出身で子供の頃に使った記憶がある人が何人かいるのではないかと思ったからです。みなさん孫やひ孫がいる世代の方ばかりです。案の定、「とても懐かしい」と顔をほころばせる方がいました。今から60年ほど前は農家では当たり前の道具でしたから、懐かしいのも無理はないと思います。
左は動力脱穀機、右は足踏み脱穀機
みなさん童心に戻ってぺダルを踏みながら脱穀機のドラムを回します。なにしろ5~60年ぶりに出会う農機具ですから、なかなか使い方を思い出せません。最初は四苦八苦でしたがそのうちスムーズに脱穀できました。
息をはずませながらペダルを踏んで脱穀
足踏み脱穀機は、脱穀した籾が散乱します。脱穀中や脱穀の後、籾をかき集めなければなりません。また籾にはワラくずなどのゴミがたくさん混ざっています。昔は風や唐箕でゴミをより分けたものですが、今日はせっかく動力脱穀機を動かしているので、それを使ってゴミを選別して米袋に入れます。
散乱した籾をかき集める 集めた籾を動力脱穀機に入れる
ついでに江戸時代の千歯こぎを使ってもらいました。一人だけこの脱穀機を子供の頃に使ったことがある人がいました。江戸時代から続く古い農家では、このような道具が納屋に仕舞われていてもおかしくはありません。
この道具を使ったこのある人は、70歳前後の人でも極めて稀
今日は、小学生や大学生のお爺さんお婆さんの世代にあたる人と稲の脱穀作業をしました。この世代の人たちには子供の頃に体験した思い出がよみがえるのか、とても懐かしがっていました。今日のことで、稲刈りや脱穀作業は子供達だけでなく年配の方々にも良いのではないかと思うようになりました。
深夜明けで家に帰って昼寝て、午後2頃に田んぼに行って脱穀機の修理をしました。この脱穀機はある農家からもらったものでとても古いものですが、何年か使っているうちに底の板が腐ってしまいました。このため、今日は掃除も兼ねて板を張り直しました。
まず、脱穀機をひっくり返して、底部を日光に当て風に通して乾かしました。底は湿りやすいので、鉄がだいぶ錆びていました。まずは、底に着いたゴミを綺麗に掃除しました。そして錆を落としました。
脱穀機をひっくり返して底部を中心に乾燥、錆を取る
最初はゴミがつきやすい底を中心に、続いて全体を入念に掃除しました。去年まで脱穀でたまった籾や稲ワラのかすがたくさんたまっていました。
送風板にたまった籾がらを掃除 籾送出部のファンを掃除
脱穀機を掃除すると今度は腐った板を張り直しました。買ってきた45x45mmの角材を底部に合わせてリュータで加工しました。地面に接するこの角材は湿りやすく腐りやすいため、腐食防止剤を角材全体に塗りました。
角材を底部に合わせ加工 ネジを通す位置にマーキング
穴位置にドリルで穴明け 底部と空けた穴を確認
角材の穴にネジを通す 底部と角材をネジで固定
脱穀機の底部に角材を二本固定しました。これでようやく修理の完成です。脱穀機の底部に角材による空間でできたため鉄部が錆にくくなると思います。とても古い脱穀機で製造メーカーも無く交換部品もないため、今後も自分で工夫しながら修理するしかありません。
角材を取り付けた脱穀機の底部
角材を取り付けた後、掃除した脱穀機を古い農業用発動機で動かしました。角材を取り付けたため、脱穀機は正しい位置でしかもしっかりと地面に固定できました。次に先日小学生達が稲刈りした稲束を、後始末も兼ねて脱穀しました。米袋に脱穀した籾がたくさん収納できました。今後は稲刈りと平衡して脱穀作業も忙しくなります。
農業用発動機で脱穀機を動かし稲を脱穀
今日は東京農業大学生が来たので、稲刈り,結束方法,はさ掛けなどについて教えました。彼は大学でバイオセラピスト(園芸療法)を志しています。今は1年生なので基礎教育だけだそうですが、3,4年になるといろんな植物を栽培しながら園芸療法について勉強するそうです。そして、病院などに実習しに行くそうです。
しかしながら、ぞうりを履いて稲刈りをはじめるのにはびっくりしました。そのうち、裸足になって稲刈りし始めました。足を怪我しないか少しヒヤヒヤしました。
稲刈りする東京農業大学生
何株かの稲を刈り取るとワラで結束します。そして、先日私が竹で組んだはさに掛けて干しました。今日刈り取った稲は、17日の別所小学校の生徒達が脱穀します。生徒には一人一束の稲束を使って脱穀体験させる予定です。このため、2クラスの生徒数(80人)用の稲80束を刈り取ってはさに掛けました。
別所小学校生徒80人が脱穀体験に使う稲を刈って干す
稲刈りを終了すると、今度は脱穀に使う農機具を小屋から田んぼに運びました。最初、動力脱穀機を運搬車で運び込みました。田んぼはぬかるんでいるためキャタピラ式の運搬車を使います。次に、古いディーゼルエンジンを運びます。一台が故障しても代替できるように二台を運び込みました。
エンジンを運搬車で運ぶ エンジンを下ろす。手前は脱穀機
エンジンを動かしてベルトで動力脱穀機とつなぎましたが、一年間使わなかったため最初はなかなか動かなかった動力脱穀機。ベルトにテンションを加えながら徐々に動力を伝えていくと脱穀機はそろそろと動きだす。完全に動き出すと籾を選別するための風が吹き出すようになりました。しばらく動かして脱穀機の各部の点検をしました。
ベルトで動力脱穀機を動かし各部の調子をチェック
動き出した脱穀機の各部を点検しながら、回転部などに油をさしました。東京農業大学生に油をさす箇所を教えて、実際に彼に油をさしてもらいました。籾を排出する箇所は去年取り残した籾が張り付いていました。このため籾を送出する風が通らなくなっていました。この籾を取り除くと、籾排出部に風が来るようになりました。これで、ちゃんと脱穀した籾が袋に入るようになります。
ドラム部に油さし 籾排出部に油さし
ここまでの作業でお昼タイムになったので、彼と田んぼの畦に座って昼食をとりました。いろいろ大学生活の話などを聞きました。彼は「よさこい」を踊るクラブに所属していて先日名古屋まで踊りに行ったそうです。充実した大学生活をおくっているようです。昼食をとると彼にもち米の稲刈りをしてもらいました。私は田んぼ周辺の草刈りをしました。
もち米を稲刈りしてはさに掛ける
午後2時頃までに、小学生たちが体験する稲刈り。・足踏み脱穀機・動力脱穀機などの用意を完了させました。その頃になると曇り空になったので、農機具類にシートを掛けて解散することにしました。
小学生が稲刈り・脱穀体験する田んぼと設置した農機具
午後から仕事なので、早朝田んぼに行って農作業をしました。今日は、数人の友達と作業しました。友達が田んぼの周りを囲む溝をさらっている間に、私は農耕用発動機のエンジンオイルを買いに行きました。10年ぐらいエンジンオイルを交換していなかったのでエンジン内のオイルは黒くタール状になっています。2,3日の間にオイルを入れ替える予定です。田んぼに帰ると田んぼの脇を草刈りしました。しかしながら、ずっと草刈りをしていなかったため草がぼうぼうに生えておりなかなか刈ることができません。特にツル性の草が草刈機に蒔きついて困りました。
次に足踏み脱穀機を小屋から出して、先日稲刈りして干した稲を脱穀しました。数束の稲を脱穀して、今後刈り取った稲束を結束するためのわらを作りました。
足踏み脱穀機で稲を脱穀
足踏み脱穀機は足でタイミングよくペダルを踏みながら、同時に稲を脱穀します。子供の頃に初めて自転車に乗るときに、ペダルをこぎながら手でハンドルを操作することに戸惑いを覚えました。そのように、足と手が別々に操作しながら脱穀しなければなりません。初めての人には難しいようです。
足でペダルを強く踏みながら稲を脱穀
お昼に休もうと思ったときに内山さんが来ました。しばらく、内山さんの活動話を聞いたり里山談義をしました。 内山さんは羊毛から糸を紡いで布に織る専門の人です。この夏に八ヶ岳美術館で織物を展示して全国から反響がありました。内山さんは、もともとユギファーマーズの織物チームでしたが今は独立して活動しています。
内山さん(右端)と紡ぎ,織り,里山談義
今後の稲刈りの予定は、14日農大生、17日別所小学校、23日恵泉女学園大学、26日別所小学校、30日法政大生、11月瑞穂農芸高校生(日付未定)です。 今月は稲刈りや脱穀精米などで忙しい日々が続きます。午後は夜勤に入るため家に帰りました。
石油スタンドで軽油購入 軽油をディーゼルエンジンに給油
買った軽油は4リットルです。エンジンは単気筒なので、そんなにエネルギー消費量は多くありません。この秋で使う必要量の軽油を買いました。軽油をエンジンのタンクに入れるといよいよ動かします。しかしながら、一年ぶりに動かすためなかなか動きません。軽油を送出する燃料噴射ポンプと燃料噴射弁を確認しました。燃料の軽油が移動する管を取り外すなどして、軽油がちゃんと送出されているかの確認です。
燃料噴射ポンプ部の確認 燃料噴射弁の確認
燃料がちゃんと送出していることを確認すると、エアクリーナの付け根にあるガソリン挿入部に2,3滴のガソリンを入れます。これはエンジンが冷えているため最初ガソリンで爆発を誘導するためのものです。手でクランクを勢いよくまわしてデコンプレバーを離すと、マフラーから煙がもくもく出ました。そして、ポンポンとうるさい音を立てながらエンジンが動きフライホイールが回り始めました。このエンジンは相当古い骨董に近いエンジンなので小川の水で冷却します。すぐに小川に行って水を汲んできてエンジンに注ぎ込みました。
煙を吐きフライホイールが回転 冷却用に小川の水を注ぐ
冷却用の水を注いだ後、回転が安定するのを待ちました。次に回転スピードを安定させるため燃料噴射ポンプの軽油送出量を調整して燃料噴射弁のネジを回しました。これで安心して14日からの稲刈りや脱穀などに使えます。
農耕用ディーゼルエンジンの回転数を調整
農耕用ディーゼルエンジンを動かした後、1束の稲を刈りました。この稲束は明日職場のお年寄りに見せるものです。農家出身のお年寄りにとっては稲は懐かしいと思います。
天日で乾燥させていた古い農機具
乾燥させていた農機具は、足踏み脱穀機,発動機で動かす脱穀機,唐箕,軽油農業用発動機などです。40~50年前に実際に使われていたものです。郷土民具館に展示されているような古い農機具ばかりで、農家で捨てられる寸前の物をいただいてきました。これらの農機具は古くて合理的ではありませんが、小学生や高校生などの学生にお米作り体験をさせる時にとても役に立ちます。
雨避けシートを被せる
雨が降る前にシートを被せて、ひと安心。また天気が良くなったらシートを外して乾燥させようと思います。これらの古い農機具の最初の出番は、17日の別所小学校の五年生の稲刈りの時です。最初、お母さん方に使い方を教えてから子供達に使ってもらいます。
稲刈りをする前に準備です。まずは身支度。長靴に履き替えてタオルを頭に巻きます。普通の帽子は頭頂のぽっちが網にひっかかるため使えません。次に、小川の水で刈り取りに使うカマを丁寧に研ぎました。ちゃんと研がないと稲の茎がひっかかってちゃんと刈れません。そして、去年のわら束を小屋から取り出して、それを木槌でたたいてやわらかくします。このわら束のわら2,3本を使って刈り取った稲を束ねます。稲刈りの準備が終わると、いよいよ田んぼに入ります。最初に田んぼを覆っている防鳥用の網をめくるようにして外します。そして、いよいよ稲刈り開始です。
稲をカマで刈り取る
稲株付近にはヒエなどの雑草がよく生えています。農薬を一切使っていないので雑草はどうしても避けられません。深水を管理して雑草が映えないようにしていますが100パーセント防ぐのはなかなか困難です。生き残った雑草は、稲刈りの時に除く必要があります。雑草をちゃんと除いて刈らないと、後の工程でお米の中に雑草の種が混じってしまいます。
刈った稲を結束 稲束を仮干し
カマで稲を何株か刈り取って束ね、それをわらで結束します。結束した稲束は刈り取った株の上において仮干しをします。そのとき、稲の穂が地面につかないように稲束を交互に重ねていきます。
稲刈りは家族などでワイワイ言いながらするのが普通ですが、今日は一人でわびしく稲刈りです。今日は脱穀などに使う農機具の点検もしなければならないので、稲刈りは短時間で切り上げました。切り上げる前に、はさを田んぼに設置しました。仮干しした稲をちゃんと乾かすためです。
設置したはさに稲束を掛ける
短い竹6本、長い竹1本を小屋から持ち出してはさを作ります。そして、仮干しした稲束を次々に掛けていきました。干した稲は、一週間程度十分乾かしてから脱穀機で脱穀します。脱穀して袋にもみ(お米に殻がついたもの)が入ると、収穫した喜びがふつふつと沸いてきます。
脱穀までの約1週間、十分乾燥させます
仕事に行く前に畑と田んぼでひと汗かきました。久しぶりの青空の下でのんびり作業しました。畑のすみで咲くコスモスが、気持ちよさそうに秋風にそよいでいました。
秋風に揺れる綺麗なコスモス
最初は畑入り口の草刈りです。草刈機のエンジンは2サイクルエンジンであるため、動かす前にガソリンにエンジンオイルを混ぜた混合ガソリンを作ります。作った混合ガソリンを草刈機に注いだ後、身を守る身支度をして草を刈りました。なお、紫色の花を咲かせていたムラサキシキブは刈らないで残しておきました。
草刈り前 草刈り後
草刈り後は田んぼに行きました。先日の大雨がまだ田んぼに残っていたので、排水を促すために田んぼを囲む溝をクワで掘りました。しかし、清水が次々にしみてくるので2,3日は水は抜けないようです。
田んぼを囲む溝を掘る
溝を掘っていると珍しくドジョウが出てきました。人の気配にびっくりしたのでしょう。この溝は一年中水があるため繁殖の場所になっているようです。春先にはよく子供の小さなドジョウをみかけます。そして、このドジョウを狙ってサギなどの鳥がよくやってきます。
溝から出てきたドジョウ
最後に稲刈りに使う農機具の点検をしました。 農家からいただいた古い古い骨董品のような機械です。一年で秋にしか使わないので、稲刈り前の点検はとても大切です。軽油を入れて最初は手で回して勢いをつけると、煙を吐いて大きな音をたてながら力強く回り始めました。農機具の点検作業が終わると、お昼を食べて家に帰りました。
一年ぶりに農業用発動機を動かす
久しぶりの青空で気持ち良い秋風が吹き心地よい気持ちになりました。しかしながら、これから深夜勤務なのです。一時間ばかり昼寝してから仕事場に向かいます。
深夜勤務明けで家に帰ってぐっすり寝ました。眩しい太陽光で起きると、空は快晴の青空でした。久しぶりの青空でいてもたってもいられません。と言っても、深夜勤務の疲れが残っているため遠出する気がしません。そんな時ひょいと思ったのは、毎年秋の味覚を楽しむドングリ拾いです。
炒って食べるマテバシイ
普通のドングリは渋くて食べられませんが、今はそのまま食べられる椎「しい」の仲間のマテバシイが収穫できるシーズンです。このドングリは生でも食べることができますし、炒ればさらに美味しいドングリです。さっそくバイクに乗ってドングリ拾いに行ってきました。
ドングリ林に落ちているドングリ 収穫したドングリ
収穫したドングリは地面に落ちており、昨日の大雨ですっかり泥で汚れていました。持って帰ったドングリをボールに入れてきれいに洗います。そして、ふきんで水気を取ってきれいに磨きます。
水で洗い汚れを取る ふきんで水気を取る
きれいになったドングリを鍋に入れて炒ります。軽く焦げ目がつくくらいに弱火でゆっくりと炒ります。炒っていると、ドングリの中には皮が割れるがもの出てきます。
ドングリを弱火で炒る 軽く焦げ目がつくように
軽く焦げ目がつくころになると、栗を焼いている時のようなこおばしい臭いが漂ってきます。栗はもともと人間がドングリを改良したものでしょうから、実の成分も同じなのだと思います。ただドングリはタンニンなどの渋い成分が強いのであまり人間が食べないのだと思います。もっぱら熊やリスなどの食べ物です。焦げ目がつくと熱いドングリの皮をむきますがこれが一番大変です。ペンチを使うか歯を使って皮を剥ぎます。
炒ったドングリの硬い皮を取る
皮をむくと栗の実とよく似た色の実がでてきます。栗をギュッとつぶしたような硬めの小さな実です。
左がむいた皮、右が取り出したドングリの実
これでやっと食べられるドングリの実の出来上がりです。味は栗ほどではないですが、ほのかに栗を思わせる味が口に広がります。栗はほくほくしていますが、このドングリ(マテバシイ)はややぼそぼそとしていてやや硬いです。よく噛みしめる必要があります。ただ、たくさん食べ過ぎると消化が進まないのかおなかがもたれます。
古代には飢餓の時に食べられていた意味が良く分かります。東北地方では昔、飢饉の時に山に入ってドングリを収穫し命をつないだと聞きます。
やや硬めのドングリの実を食べる