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過渡期の迷いと混乱

2005年06月03日 | 読書
ソウルや北京の教師は、熱心に教えるという伝統的な役割をきちんと果たしているし、ミルウォーキーやオークランドの教師は、励ましたり、悩みを聞いたりという子どもを支える役割を担っている。しかし、東京の教師は、教える役割に懐疑的だが、支える役割を果たすまでには至っていない。そうした意味では、現在の教師は過渡期の迷いの中にいるのかもしれない。そして、ここ数年の学校をめぐる諸問題も明治的な学校から21世紀の学校へ至る過渡期の混乱と思うと納得できるような気がする。
「モノグラフ・小学生ナウ 特別号」(ベネッセ)


二方向のとらえ方が正しいとは言えないが
「教える」ことと「支える」ことが両立するのは難しい。
少なくても初等教育で、学校教育の現場で
子どもが様々な学習パターンを身につけられるものか
深く検討する必要があるように思う。