すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

『オレ様化』を照らし合わせてみる

2006年07月19日 | 読書
集団の持つ強制力から離れても
教師の叱責の意図など考えなくても
平然としていられる小学生の存在に驚いたことは確かだが、
それも「時代の流れ」といった漠然としたとらえ方をしていた。

そうした子どもはやはり稀であったし
「言葉の使い方」について目覚めた自分は
指導についての技術や技能でカバーできるはずという考えであったろう。

しかし、教室での授業場面以外で目立ってきたことがあった。
例えば、廊下にゴミが落ちていても拾わない子である。
「○○さん、そこにゴミが落ちているよ」と声をかけても
拾わずに平然として、教師が拾うのを見ていられる子である。

これは『オレ様化』で指摘されている
掃除のとき教師に促されても机を運ぼうとしない

「消費社会的な子」

の出現である。

教師ともクラスの仲間とも共同性を感じていない子

である。

そうした子が私の周囲にぼつぼつ見え始めたのは
平成に入ってからのように思う。
手を拱いていたわけではないが
まだなんとかなるのでは…という意識も強かった。

そして、平成10年だったろうか。
私にとっては忘れられない子が、目の前に現われた。

算数を教えていたときのことである。
筆算を間違えている子がいた。
順番通りに進めなかったことが原因である。
「Aくん、ここ間違っているよ」と指摘したことに対して
こんな答えが返ってきた。

「ぼくは悪くありません」

えっ、何、何を言っているの、と強く感じたことを覚えている。
Aは悪くないを繰り返すばかりだった。
今思うと、たまたま起こった出来事とも言えるのだが
私にとっては『オレ様化』の中にある次のことが、
始まりを迎えた一言だったと言っていいかもしれない。

子どもたちはすべからく自分について
「外」から批評されることを拒むようになった。