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指導法へのこだわりから見えてくる

2007年02月03日 | 読書
 『口唱法とその周辺』(下村昇著 高文研)は全部で十章からなっているが、大きく二つに分けるとすると、三章までが一つの区切りである。

 三章までは、漢字の字体の話題である。
 ある漢字の正誤に関してマルにするかバツにするか、担任であれば誰しも悩んだ経験を持っているはずだが、その「不安」について明確な答を出していると言ってもよい。
 それは、二章のタイトルにもなっているように「書き取りで子供を苦しめないために」という願いに基づいているし、また漢字を「伝える道具」として明確に位置づけているからとも言えるだろう。

よこぼうの長短を意識して書き分けないと読む人が間違ってしまうような字

といった場合に「明確な書き分け」が必要であること、

「きへん」「うしへん」などが筆勢ではねたとしても許容である。ただし、「てへん」はしっかりはねるように指導する

というように幅広くとらえること、

 そもそも漢字には便宜上な分類がたくさんあると例を出しながら、納得の論を展開されている。

 四章以下が、「口唱法」の実際に関わる部分である。
 私自身も存在は知っていたが、また似たような指導を断片的にしたこともあるのだが、こうしたボリュームで文献を目にしたことや、まして指導の実際を目にしたことがないので、興味深かった。

 当然のことながら、漢字を分解的に見て口唱法が行われるが、その方法では若干学年配当漢字とのズレが生ずる。例えば4年配当の「議」は「ごんべんに、ソ王の我」となるのだが、「我」は六年配当である。その点での留意は必須となる。
 また、低学年ではタンバリンなどを使ってリズミックに教えていく場面があるが、個人差への対応など細かい配慮はかなり神経を使うかもしれない。

 いずれ、一つの指導法を追究することは指導に伴う障害?をどうこなしていくか徹底的に吟味することにつながる。
 そして、それによって様々な原理が見えてくるということにもなる。

 下村氏の指導の実際、特に全部を教えないで子どもに委ねながら発見させていく手法などは、一つの指導法にこだわっているからこそ、明確に浮かび上がってくると言える。