すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

字が読めるから自分で考えない

2007年02月05日 | 読書
 独特のロジックがあるので読みきれないことも多いのだが、池田晶子氏の文章には時々はっとさせられることがある。
 例えば新刊(といっても週刊誌連載のまとめであるが)の『知ることより考えること』(新潮社)には、こんな一節がある。

 私は時々思うのだが、もしも賢い人間になろうと思うなら、あるいは賢い人間に育てようと思うなら、人間には学力などない方がよいのではないか。いや極論すれば、字など読めない方がよいのではないか。
 ちょっと考えれば気がつくことだが、我々は字が読めるがために、自力で考えるということをほとんどしていない。


 かなり逆説的、というより皮肉な言い回しのように思えるが、100%捨てきれない要素もある。
 これは「文字」に振り回されているばかりの人間を批判しているのであり、本当の「知識」を持っているのか、「思考」しているのか、という問いかけであろう。

 字を知っているがために、あることを読んだだけでわかった気になってしまっている、書いた人の考えをうすっぺらにしかたどらずただ文字という情報を処理してしまっているのではないか、という危うさは確かに感じる。

 池田氏は、書かれている内容の本質に迫らない受験のための攻略法など「学力とは、いかに自力で考えないかという技法に他ならない」と言い切る。
 「情報」と「知識」そして「学力」と「思考力」。それらの違いは何か、と思わず立ち止まって考えざるを得なくなった。

 小学校で教えることをよき「習慣」と位置づけたとき、「学ぶ」と「考える」もちろんどちらも大切だが、その比重のかけ方という視点で現状を見直してみることが必要かもしれない。

 それにしたって、「文字」を教えることが最重要な中身であることは違いない。
 そのことによって、本を手にし、人に伝える術を広げられるのだから。
 
 池田氏にしたって、莫大な文字を読んできたからこそ今のように思考を深めていることを、否定するわけがない。