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悲しみの心構えが作られる教室

2007年02月23日 | 雑記帳
 『COURRiER Japon』という見慣れない雑誌があった。ちょっと読んでみようかなとレジに持っていったら、店主の奥様がご推薦の雑誌だと言う。

 表紙には、特集名として

「世界に拡がる 新・格差社会 『中流(オレたち)』に明日はない!」

という刺激的な文句が書かれてあったが、そんなことよりも強く目を惹かれた言葉が、やや小さく表紙上部に書かれてある。

 オランダには先生の“棺おけ”を作る学校がある

 シュテルンというドイツのメディアが発信した記事である。

 小学校の教師をしているエリは治る見込みのない子宮頸がん。余命数ヶ月で、間もなく授業することができなくなる。学校で、4歳から11歳の子供たちが図工の授業として、彼女の棺づくりに取り組んでいるというのだ。

 棺は教室の中に置かれ、何週間もかけて作業が続いているという。

 宗教観なり、その国や地域の持つ背景なりがまったく分からぬままではあるが、想像してみたとき圧倒される気がする。
 オランダ国内では驚きがなかったが、隣国ベルギーでは反響が広がったという。こうした差も理解できないものがある。

 記事はこう続けている。

 賛成や抗議、さまざまな反応が押し寄せた。こうした反響をみれば、子供たちに死や悲しみ、哀悼を教えるのがいかに大切かということがわかる、とエリは言う。

 ここで思い出したことが二つ。
 一つは、あの浜之郷小学校の大瀬校長の実践である。末期ガンを押して「命」にかかわる授業を続けた。
 もう一つは、池田晶子氏のエッセイにあった文章である。
 戦後の教育は、(略)生きることがそれだけで素晴らしいと教え、生きることは死ぬことがあるから素晴らしいとは教えなかった。人間は死ぬものだという事実すら隠蔽した。
 
 どちらも「悲しみ」や「死」について教育の場で取り上げることに逃げ腰の現代の風潮を批判している。
 「死」を見ることもなく、「亡くす」意味を深く考えることもせずに、日々を過ごした渇いた心には、どんな感情が咲くというのだろうか、と改めて考える。

 「命の大切さを教える」などと軽々しく口にすることがあるが、それはいったいどういうことなのだという問いかけを教師自身ができているのか…

 そんなふうにゆさぶられる記事だった。

 教室の真ん中に置かれた棺に、子供たちが入り込んで遊んでいる。
 おもちゃでないことをわかっているから許されるという。

 棺という「悲しみの心構え」を作っている日々なのか。