すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

勉強不足の苦味がこみ上げる

2007年04月06日 | 読書
 『下流志向』でぐんと知名度が上がったと思われる内田樹氏を、私はとりあえず、ほめる。
 それは、内田氏の次の記述が自分自身とよくフィットしていると感じられるから。

 私は(よく理解できないけれど)理解したいと思うものについては、「とにかく、ほめる」というスタンスを自らに課している。経験的には、「よくわからなくても、ほめる」ことによって、「よく分からない」対象への理解は確実に深まるからである。

 ウェブサイト上の時評的エッセイをまとめた『子どもは判ってくれない』(文春文庫)の内容も、実を言えば半分ほどしか理解できないのだが、はっとさせられ読み止ったり、なるほどと頷いたりする頻度は本当に多かった。
 辞書的な意味ではなく、言葉を読み解くという姿勢に貫かれていることが例えば次の三つにもよく表されている。

 想像力というのは、現実に存在しないものを想像的に現前させるためだけに使うものではない。現実に存在してはならないものを決して現実化させないためにも用いるものなのである。

 「高度情報化社会」というのは、要するに「情報」が基幹的な「商品」や「財貨」として流通する社会、「情報を持つ者」と「情報を持たない者」のあいだで社会的な「差別化」「階層化」がなされる社会である。

 一人の国民は、その国を代表する。その国を代表して、他国民を糾弾する権利があり、他国民を許す権利があり、他国民の前にうなだれる権利がある。私は国民国家というものは、そのような一人の国民の「代表権」の幻想のうえにおいてのみはじめて健全に機能すると考えている。

 内田氏は、想定読者を「過去の自分」におくという。二十歳の自分が読んでもいいたいことが伝わるように書かれたその本は、折々のトピックそのものに左右されない強靭さを感じることができる。
 それは、私のように時評に詳しくない者にとっても有難いことなのだが、同時に何もかも中途半端な知識しか持ち合わせていないので、輪郭がぼんやりしている面もあった。
 理解したいと思ってもこれからじゃ追いつけない部分が大きいなあ、と少しため息も出てくる本である。そして、そんな自分に宛てられたかのような一節も書かれてあり、勉強不足という苦いものがこみ上げてくるのを感じながら、ページをめくっている。

 「しなかったことについての悔い」は長い時間をかけて「悔い」として根を下ろしたものであり、その「悔い」そのものが人格の一部をなしているような種類の「悔い」であり、「してしまったことについての悔い」というのは、「できるだけ早く忘れた方がいい」種類の「悔い」であって…(中略)…どちらの「悔い」がより毒性が強いか、考えてみればすぐに分かる。