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「学校効果」をどう捉えていくか

2007年04月03日 | 読書
 『効果のある学校』(鍋島祥郎著 解放出版社)を、ようやく読み終えた。

 自分にとっては難しい本だった。
 前に書いた問題のことや、欧米の学校の実態について知識がほとんどないので、イメージしにくいことがその原因だろう。しかし、著者自らの学校体験に基づく考えには、はっとさせられることも多く、その意味ではずいぶんと立ち止まって考えさせられた本だと言える。
 解釈めいたことはできないが、心に残ったことを備忘録として掲げておきたい。

 まず、この本の場合の「効果」とは何か。次のことを言っている。

 人種・階層的背景による学力格差を克服しうる学校の力を「学校効果 school effectiveness」と呼んでこれを測定し…(略)…
 中心になる記述は、人種・民族問題を抱えるアメリカのものや、国内の被差別を持つ学校同士の比較などだが、ここで導き出される結論は、「階層社会」という形容が頻繁に聞かれるようになった現在の日本にも十分に適用するものなのかもしれない。
 「効果のある学校」は、次の5つの特徴を持つという。(エドモンズの調査研究による)
 校長のリーダーシップ   教員集団の意思の一致  
 学習環境   教師の姿勢   学力測定とその活用

 どれも肯けるものであるが、これらの特徴がそれぞれにつながりを持っていることに注目したい。個別にある特徴が浮き上がるものではないはずだ。エドモンズは、特に最後の「学力測定とその活用」が最も強く、それぞれの要素を動かす力を持っているとしている。
 これをそのまま日本の学校に適用できるかどうかは別にしても、「効果」を示すためには「変化」に対して敏感であることがまず要求されるという、至極当然のことを改めて考えさせられる。

 私が強い印象を受けたのは、筆者の体験(6歳で米国に渡り3年後に帰国して、日本の学校に通った)に基づく、日本の教育批判、学校批判である。

 「学校で教えようとしていることを、学校が期待する水準まで、すべての子どもたちにマスターさせること」をしっかりと学校の使命として掲げている学校は、日本では筆者の知る限り見あたらない。

 道徳を身につけろとか人権を尊重せよと公共性を子どもに要求するのであれば、その前に、少なくても様々なハンディキャップを抱えている子どもたちを救済する責務があるのではないか。
 

 だからといって、筆者は米国の教育の優位性を訴えているわけではないが、我が国の教育全体のシステムを考えるうえでの提言として、確実に一方に存在する論理だと思う。現実と照らし合わせてみたいことだ。

 家庭教育の重要性が叫ばれ、それが「自己責任」という言葉に結びついているように感じる。しかし、公教育の場でそれをそのまま子供たちに当てはめることなどできない。
 その言葉の持つ「突き放しの視線」を吟味もせずに、流行のように追従していくことは戒めなければならない。