すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

呆れられながらも言い続ける

2007年04月04日 | 雑記帳
 国家が子どもたちのいじめ問題を取り上げなくてはならないということそれ自体が、この国の見識と水準を明瞭に示している。本来は恥ずべきことだという認識をまずは持ちたい。

 宮川俊彦氏らしい切り出し方だと思った。
 ある出版社から送られてきた見本誌に載っていた『「いじめ自殺」異論』という文章の冒頭である。
 
 「表現教育者」という肩書きを持つ宮川氏は、メディアの責任について厳しく言及しているが、「評論の分析やその上の評論をしても仕方がない」として、「対応の基軸」を五点を示している。
 私なりにキーワードを拾い上げまとめてみると

 「教えたら覚えて従う」という論理からの脱却
 多元的多角的な視点や観点や思考の方法を常に獲得できるような教育方法の現場化
 クラスは社会であるという認識の再構築
 社会から一定遊離し、文化や教養を教えていく場としての学校
 本格的な言語政策上のプログラムの整備


 今まで読んだ宮川氏の「作文指導」に通じる要素があると思った。
 そういえば、作文を通じて社会に働きかけるという視点が強く出ている実践もあった。学校の国語科の授業としてはかなりの覚悟を持つ必要があると感じたことを覚えているが、そのレベルでは力を持ち得ないことを改めて思い知らされる。

 現場人が実践を通してこの現状に立ち向かおうとするならば、やはりもっと深く考え、一つでも二つでも創造的なものへ内実を変えていく必要がある。

 問題意識や「なら、どうするべきか」という問いを常に掘り起こしていくような思索の教育が現場から後退している

 こうした現実認識を口に出して、呆れられながらも言い続けていく必要があるのかもしれない。
 たくさんの人に呆れられたとしても、私は宮川氏の結びの一言を支持したい。

 「いじめ?それがどうした」。この国の再建に君は何をするのだ。