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子故の闇に目を凝らす

2008年09月18日 | 読書
 『せつない話』(山田詠美編 光文社文庫)の中に収められた山口瞳の「庭の砂場」という短編がある。

 文中にある一つの言葉に立ち止まってしまった。

 子故の闇

 初めて目にした言葉であったが、文脈から意味は想像できた。いわゆる「親馬鹿」「盲目の愛」のようなニュアンスなのだろうが、「闇」という響きの重さもあって、なんとなく違う想像が働いた。

 「子を愛する故の闇」と解するのではなく、「子がいる故の闇」ならば、今頻繁に起こる家族間の事件そのもののようにも思える。幼児虐待、子殺し、親子心中…雰囲気としては現在の方が多いようなイメージを持つが、おそらくそれらは古くからあったはずだ。
 愛と憎は背中合わせだが、愛の対極としての無視…子を生すことの意味そのものが問われる。スキャンダラスな事件はその象徴にもなっている。
 それにしても、一昨年本県で立て続けに起こった子どもを殺めた事件の印象が強く、そしてそのどちらも出自や貧困、地域の疲弊が背景として見られたことは、気持ちを深く沈ませる。

 どんなに単純と思われようと、子どもは光であると考えている。未来を照らしてゆく存在である。
 その存在に対して闇の意識が過ぎることはあっても、そこへ溺れることは避けなければならない。
 個々の親子や家族のことは語れないが、それを支える社会、行政、教育…はもっと危機感を強める必要がある。

 子故の闇は、本来の意味においても危険な要素を持つ。曲解した子故の闇と同様にもっと目を凝らさなければならない