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「さち」の道具

2008年09月26日 | 雑記帳
 蜂飼耳という若い詩人の文章に出会った。

 『古事記』に次のような一節があるという。

 火遠理命、海さちを以て魚を釣るに、都て一つの魚も得ず

 海の獲物をとる兄「海佐知琵古」から釣り針を借りた、山の獲物をとる弟「山佐知琵古」は、海へ出ていくら釣っても魚は釣れなかった。「さち」は獲物であると同時に、獲物をとるための道具も意味しているという記述になっているそうだ。
 「さち」は紛れもなく「幸」である。

 手段でもあり、収穫でもある

 数多の幸福論が出版され、語られているが、結局上の言葉に集約できそうな気がする。
 「幸せを求める」という表現は半分の意味しか持たず、対象ばかりではなく手段や道筋そのものを指しているということ。

 もっと原典に返って考えるならば、幸の一つは道具であり、自分は何かそのための道具を持っているだろうか、という思いも湧く。

 それが、今普通に人間社会にある道具である場合もあるだろうし(例えばペン、鉋、車…)、自らの知識や体力という場合もあるだろうな、と漠然と考える。
 それらの混合はもちろんあることなのだが、きっと道具を最大限に意識できている人間の方が「さち」を感じているはずだ。