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ことさらに意識する視点ということ

2009年02月25日 | 読書
 ノンフィクション作家柳田邦男が、講談社の月刊読書誌『本』に連載を始めた。月刊誌『現代』が休刊となり、長期予定で連載中だったものを、こちらで継続していくということらしい。そのタイトルがぐっと目に入ってきた。

 2.5人称の視点

 『現代』は残念ながら読んだこともなく、この言葉自体を知り得なかったが、筆者が考え付いたのはおよそ10年前らしい。
 息子さんの脳死ということに直面し、それまで脳死論者に近い考えを持っていた自らの気持ちの洞察によって生み出された言葉という。
 つまり、自分から遠い存在としての3人称の死(専門的業務の枠組みの中で考えやすい)と、1人称や家族、愛する人という2人称の死との違いに目を向け、脳死を全的に理解するために包括的な視点が必要だと気づいたのだった。そして、その考えを詰めていき、こんなふうに書く。

 その視点は医療問題だけでなく、福祉、司法、行政、教育、メディアなど社会の様々な分野に応用できることに、私は気づいた。

 多面的思考、複眼的な思考など似ているようにも思うが、「人称」というとらえ方をしたとき、1人称、2人称という言い方が持つより人の気配、感情に注意した見方が喚起されるような気がする。

 教育の場にこの考え方を当てはめてみるとどうなるだろう。
 確かに3人称で語られる要領や目標の類にあふれている。その視点はもちろん外せないものである。しかし、私たちの目の前にいるのはまさしく2人称である一人一人という現実。それを意識しない教員などいないはずだ。
 ただ、「冷たく乾いた3人称の視点」で多くの様々な物事が進んでいることは否めない。
 「2.5人称の視点」はもうことさらに意識していないと、知らず知らずに離れていくものなのだ。