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安心から信頼への道

2009年02月11日 | 読書
 『安心社会から信頼社会へ』(山岸俊男著 中公新書)を読む。

 題名からわかるようにここでは「安心」と「信頼」が区別されている。
 「相手の人格や行動傾向を基づく相手の意図に対する期待」を信頼として、「相手にとっての損得勘定に基づく相手の行動に対する期待」を安心と定義づけているのだ。
 日本は長い間集団主義的な安心社会を築いてきたと筆者は言う。それが今崩れかけていることは自明である。どうあるべきかを考えるには好著と言っていいだろう(でも結構面倒な読み取りも必要だ)。
 
 筆者が出している例がなかなか面白い。
 大学教員としての筆者が郵便物を出すためには宛先を届けて記入する必要があるらしいが、その時間のロスを給料換算したときと仮に誤魔化しがあった場合の金額の比較など、ちょっと考えもしなかったことである。考えるとそれに類した事項はかなりある。
 特に公務員であれば、そうしたことが義務付けられていることが多いし、それはいったいどういう社会の仕組みから来ているのか、根本の思想は何かなどと考えると見えてくるものがある。

 構造改革といい規制緩和というが、現実の社会は相互監視的に安心を強めようとする風潮が強まっている気もする。外からの枠を強固にしているイメージである。

 枠は確かに必要だかぎりぎり絞込み、自由度を高めていくことがきっと信頼社会としてのあり方だろう。具体的に足を踏み出そうとすれば、メディアの動きへの目配り、自分の表現の手順や方法の吟味、この二つが大きな位置を占める。飼いならされた安心型では行き詰まりが見えている。