すぷりんぐぶろぐ

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「場所の力」を呼び戻す

2009年02月13日 | 読書
 かみ締めてみたい言葉である。

 子どもはそのときはじぶんで気づくことがなくても、子どもの日々を生きた「その場所」の記憶に、もっともつよく人生のもっとも根本的なことを教わる。そう思うのです。

 ある教育誌に載っていた「場所の力」と題された長田弘氏の文章の一節である。
 長田氏にとってのその場所は「長い坂道と急な石段と段々の墓地のある寺」。土地の様子や周囲の描写、遊んだ記憶などを語りながら、人が産まれ、生きていく意味をその場所と結びつけている内容である。
 そこがお寺であったことがまた印象を強くしていると思われるが、他者に当てはめるのであれば、それは露地であっても原っぱであってもかまわないだろう。

 さしずめ自分は、自宅裏の空き地や畑、ゆるい流れの川に続く道だろうか。
 そこでいつも遊んでいた。隣家の兄妹、近所の同級生たち。「○○ちゃん」と呼び合うなかで、石ころや空き缶、木の切れ端、いらないゴム、捨てられた金物、その他わけのわからないものが、材料であり道具であった。

 本当にまれにしか思い出さないのだか、給食時に子どもと会話していてふっとよぎる場面や感触もある。先日は、雪玉をありったけ固くしてぶつけ合い競う遊びを、少し熱くなって語っていた。それを夢中でやっていたのも、自宅裏であり、横の路地だった。
 
 そこで自分は何を身につけたか、時々問うことも悪くないだろう。
 少し手遅れの齢でもあるが。長田氏の文章がまた心に響く。

 成長するとは、言葉なき子どもの日々の経験に、みずから言葉をあたえてゆくことです。