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「立て直し記」にみる教師力…1

2009年02月06日 | 雑記帳
 野中信行先生より、『崩壊クラス立て直し記』という資料を送っていただいた。
 その経緯については、野中先生の「風にふかれて」というブログに詳しい。
 http://nonobu.way-nifty.com/blog/2009/01/post-d722.html 
 http://nonobu.way-nifty.com/blog/2009/01/post-134d.html

 A4版20ページに及ぶその資料は、立て直しの当事者であるA先生の記録と野中先生による分析、そして子どもたちの作文によって構成されている。
 A先生はおそらく覚え書きとして残すというような感じで書きつけられたのではないかと思う。従って、まったく面識のない私のような者が読めば、正直その部分だけでは「実践記録」として物足りなさを感ずる。
 しかし、野中先生はその文章を「貴重な資料」と判断し、自らワープロ打ちし分析・考察を加えて仕上げた。そのことによって、この記録はぐっと厚みをもって迫ってくる。
 まずはこのような形を作り出し、さらに広めようとなさっている野中先生に深く敬意を表する。

 そのうえで自分自身として、A先生の記録そのものと子どもたちの作文から何が読みとれるのか。思いつくままであるが、記してみたい。

 まずはなんといっても、そのクラスに入るまでA先生ご自身が「腹を括る」までの経緯に感動させられる。私ごときが語るのはおこがましいが、まさに子どもの目線を的確に把握していると感じた。

「子供たちがあそこまで荒れたのは、子供たちの悲鳴だと、信号だと思いました。」

 それを聴き取れる耳、目を持っている先生にしかできない表現だと思う。そして、ひと晩考えることで自らの気持ちを子供たちにぐうっと近づけ、腹を括った。
 それは「あきらめない」という決意である。

 こういう強い意志を持っているA先生は、おそらく教育技術的にも多くの戦略があるに違いないと思う。しかし、こんな非常事態的なことは「初めての経験」と書き、書店で本を探し「一晩で読みました」と書いてある。
 購入した本のどこが参考になったのか、といったことは全く書かれていないが、決意のある読み方をする人には様々な方法が浮かび上がって見えてくるのではないか。そして自らの経験と照らし合わせて、多くの方法が選択された。もっともそのほとんどはA先生自身の中にあったに違いないと予想する。

 崩壊クラスに入ってまずしたのは「見張る」大人を撤去したこと。A先生は「小さな声で申し上げました」と書く。しかし、それは紛れもなく「絶対に譲れない」強さを持った響きだったろう。この行動は子供たちに強い印象を与えたのではないか。今、教室に入ってきた教師はたった一人で自分たちと向き合おうとしている。 これはまさに、その次に始まる授業への助走だった。
 そして最初の45分の授業が始まる。

 文章全体を読みとおしたとき、その授業が終わった時点で立て直しの7割ほどが済んでいるような印象を受けた。もちろん、その後の継続なしにあり得ないことなのだが、それほどこの1時間は重いといってもよくないだろうか。子供たちはかくして立て直しのスタートについた、という意味で。
 授業の詳しい様子が残されていないのはかえすがえす残念であるが、初めからこうしたことを想定したわけでなく、まさに目の前の子に全身でぶつかっていったことが想像できる。その授業をイメージできる言葉は短いけれど強烈だ。

 「どんな小さなことも、いいところを認めて、授業にまきこんでいきました」

 教員であるならば、今自分が目にしている子供たちに対して認めてあげられる「どんな小さなこと」を数え上げてみようとすれば、その大変さが想像できるのではないか。
 どれだけ細分化しながら言動を把握できるのか、これは教師の力量の大きな部分だ。

 授業後の子供の反応が面白い。「子分」そして「おんぶ」。A先生はかなり力強い口調でリーダー性を発揮しながら授業を展開していったことの表れであるし、所々で心の中にある弱さも隠さずに開示していったことも想像できる。
(続く)