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「立て直し記」にみる教師力…2

2009年02月07日 | 雑記帳
(前日からの続き)

 この後の3校時、4校時の見事さは、野中先生の分析のとおりと思う。ズバリと核心に迫っていく手法をとられている。これはもうすでに、対象となる子供たちの多くが向き合ってくれたという判断をもとに行われただろう。一気呵成に全体を巻き込んでいく印象を持った。

 そして、「話す」→「書く」という順番も見逃せない。それはまた「全体」→「個別」という形態でもある。一人一人の心の内を受けとめていくためのステップの一つと言えるだろう。もちろん、そこでは聞き手、読み手としてどれだけ認めてもらえるか、その姿勢はたえず子供に見られている。

 「とにかく聞きました。とことん聞きました」

 聞いた内容は、すでにA先生が予想し把握できていたものがほとんどだったろう。とするとA先生のその行為の意味が明らかになる。

 「あなたたちのよごれた心を食べる」

 表面的なテクニックでは到底心に響かない、それだけの力強い言葉だ。
 文脈からは、思い切り目を見開かれた笑顔でおっしゃったことが想像される。
 子供たちはどっぷりとした安心感を持ちながら、自分の心を掘り起こし文に表わしていったのではないか。

 翌日からのことで印象的なのは、「ある子」への対応である。
 急激な変化をみせたことについていけないと感じる子もいただろう。開いたはさみを持ったその子に対して、A先生はさっと横に立ち、当たり前のように手のひらを出した。「本能的に動いた」と書かれてあるが、まさしくそうだろう。危険な行動をしそうな、反抗的な子を受けとめる身体がA先生は出来ているのである。それは例えば、子供の身体を見てどこに力を入っているか見抜いたり、目を合わせるときの表情や仕草に気を配ったりできるということではないか。
 何度かそうした場面をくぐりぬけてきたであろう経験の重みも感ずるし、何より子供に寄り添うという「腹の括り方」が最大限に表れている。

 保護者への配布物を、子供に向けている表現記述にした意味。これは大きい。もしかしたらA先生は従前よりそういうスタイルを持っているのかもしれないが、こうした手法には制限もありながらそれを上回る力があるような気がする。
 つまり、子供たち自身に見えるようにすること。いいことの可視化を家庭にまで広げるということだ。授業においてもA先生はよい言動をしっかり誉め(叱る場合も)、それを全体に見せるようにしてきたと考えられる。その延長線上にあるのではないか。

 「10才を祝う会」に向けての合唱に関わることは、クラスが立ち直りまとまってきたことを強化する取り組みだ。いわば「挑戦」を仕掛ける。子供たちの心をつかむだろうその歌を選ぶまで、A先生はいくつの曲を聴きこんだのだろう。だからこそ自信を持ってCDを持ってきて聴かせているし、返答に確信を持ちながら尋ねているのだ。
 「指導厳しいけど、どうする?」
 
 流行りの言葉のように使われているが、まさしく「教師力」をひしひしと感じた。
 この実践の芯を貫いている覚悟の強さについては冒頭から感じたが、子供たちの作文まで読みとおしたときに「指導がぶれない」からこそ、子どもが変わるのだと認識できる。全体に対することはもちろん個別対応の場でも貫かれただろう。
 指導の幅は十分に持ちながら、そして心に揺れを抱えながらも、ぶれているところは絶対に見せなかった。そのエネルギーは確実に子どもへ伝わったのではないか。
 子供の作文の最後の文章は感動的ですらある。
 「もうA先生がいるだけで私はとてもじゅうぶんだと思います」

 口で言うには容易いが、その境地までの道のりは険しくつらい。本当に力のある教師は、その指導を支える強い信念を持っているとこの頃つくづく思う。
 かつて本校においでになった野口芳宏先生に「先生ご自身の、子どもを見る目の原則のようなものはありますか?」と尋ねたことがある。野口先生はこう答えられた。
 「子どもはみんな『よくなろう』と思っている」

 A先生も、野中先生も、深く頷いてくださるに違いない。