すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「ゆとり」を語る

2009年06月10日 | 雑記帳
 いまさら「ゆとり教育」を論じようというわけではないが、現状はあまりに「ゆとり」という言葉がかわいそうすぎるのではないか。
と、またあらぬ方向?へ思考がとんでいく。

 「ゆとり世代」…ゆとり教育の功罪が盛んに議論されたわけなので、なんとなくこれはわかる、というより仕方ないかという感じで受けとめる。「ゆとり族」もまあ似ている。
 では「おゆとり様」はどうだ。これは「おひとり様」という独身○十代の女性(最近は男性も)を表す流行語からの派生か。駄洒落としてはいいと思うが、だから何だという気になってくる。
 そして、極めつけはこれだ。

  「ゆとり語」
 
 えっ、そこまで来たかという気になる。つまり「ゆとり教育」を受けた世代が使うことばだと言う。結構多くのサイトがある
 
 「若者言葉」「ギャル語」と称されるならまだ許せる気もするが、「ゆとり語」とは…。
 どこまでも言葉の品質が下がっていくような、本来の意味ではなく、その言葉の持つよくない面が拡大していってそのイメージが象徴的になってしまう典型なのだろう。

 かくして「ゆとりと充実」というスローガンの、二つの言葉(心)はだんだんと離れていくだろうし、確かもう一つあった「ゆとりとうるおい」という文言も同様だろう。充実もうるおいも「悪者」になることなく生き続けているわけで、これはある面ゆとりのおかげであることを忘れてはならないぞ。

 「教育にゆとりを」とはもう言えなくなったが、「教育の充実」はいつでも言える。「教育にうるおいを」だったら、かなり新鮮だ。なんだか自分の目指す方向のようにも思えてくる。

 そして、地面に叩きつけられたような「ゆとり」がそんな僕らを恨めしく見ている…