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ランドマークの哀しみ

2009年06月02日 | 読書
 「ランドマーク」という言葉は、いつ覚えたのだろう。

 たぶん横浜ランドマークタワーなのかな、と思う。「その土地の象徴となるような建物や記念碑」というのが広辞苑の意味だが、建物のイメージが強く、それも高層であり、どこか個性的な形態を持つことが条件なのだと思う。

 吉田修一の著した『ランドマーク』(講談社文庫)は、切ない小説だ。

 大宮という地に、ランドマークとして建設する超高層ビルに関わる二人の男、三十代の設計士と二十代の鉄筋工の毎日を描いている作品である。その舞台や人物設定に、現代が持つ不安定さが象徴されているようで、全編に哀れさが漂う気がした。

 鉄筋工は、男性用の貞操帯をつけて自分を締めつけながら、一方ではその解錠のための鍵をたくさん作り、建築中のビルの階ごとにコンクリートの流し込む枠に秘かに入れ込んでいる。自分自身を呪縛しているような行為、それは崩壊によってしか救われない現実を抱えていることを痛切に感じさせる。

 さらに、その若者は出身地から「キューシュー」と周囲に呼ばれる男だが、一緒に働く現場作業員たちの多くが東北出身それも秋田であるという設定、東北弁が会話にちりばめられる展開は、私にとって入れ込まざるを得ない筋を持っている。

 都会を取り巻く現象を描いてはいるけれど、それはとりもなおさず地方が抱える多くの現実でもあることを意味している。
 結末に高層ビルの建築現場で一人の男が自殺するが、それは主人公ではなく、そして鉄筋工の身近にいて問題を抱えていた秋田出身の若者でもなく、頼りがいがあり相談にのってくれそうな先輩作業員、それも昭和31年生まれ、娘を二人持つ出稼ぎ労務者であったことがどうしようもなく胸に迫った。

 世代的な弱さを露呈してみせたとも言えるし、そのことで作者自身の世代、そしてもう一つ下の世代のある意味のしたたかさを描きだしたようにも思う。

 その高さと独特のスパイラルな形状によって、ビルはランドマークとして認められるが、結局はどこまでも不安定な要素を抱え、信じきることのできない陰に怯えて成り立っている…そのことを承知しながらも、なお生き抜いていくためには何が必要か。
 
 物語の示した向きは明確な形で終わらないが、傍に血の通う人間がいることの重みだけは、ひしひしと伝わってくる。