すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

落語は音であり

2009年07月03日 | 雑記帳
 コラムニストの堀井憲一郎が、こんなことを書いていた。

 演者にとって落語は音であり、観客にとっても音である。

 はああん、とこれで少し合点がいったことがある。

 先月、林家三平の襲名披露興行を聴きにいったときに、「やはり小朝は上手いなあ」と感じたのは、やはり音、声が持つ要素が大きいのだろうなあということである。小朝は何度となく聴いているが、構成の巧みさとともにあの艶っぽい声の魅力、早口になっても言葉がしっかりとらえられる滑舌のよさ、それらが魅力といえる。

 正蔵も結構聴いているが、あのざらついた声は個性的ではあるが、今一つ情感に乏しい感じがする。その意味で、弟のいっ平には実は期待していた。声の抜け?がいいような気がしていたからだ。
 だから、「爆笑王」林家三平の名を継いでも、芸風としてはあんな風ではないだろうと期待していたのだが…。

 ステージに走ってでてきた二代目三平の姿は、まさしく爆笑王二代目としてのそれだった。テンポのはやいギャグ、シャレは確かに笑えたが、少し残念だなあと思った。
 三平のそれは、いわば「ガチャガチャした音」だ。テレビ文化の中で一時代を築いた初代であればそれなりの価値は高いが、一代限りこそであるような気がする。 以前の記事を検索してみると「漫談を交えたリズム落語の継承」を確かにしゃべっているようだ。しかし「古典はもちろん」という言い方もしている。

 二代目三平の声を十分に生かす方向にいってもらえないだろうか、この問題は襲名という文化のある芸能では常につきまとうのか、それでは惜しいなあ…と、堀井が書くように「落語は好き嫌いである」そのままに勝手なことを書き散らしてみた。