すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

闌けていくものを見る

2009年07月15日 | 読書
 地方紙の文化欄に載っていた作家辺見庸の文章が妙に心に残る。

 昼時に入ったうどん屋の、ひとつ隣の席にいた入墨をした男がテレビを見入りながらぶつくさと呟く様子とそれに応える辺見のことを書いた小文だが、御終いのこの一節が妙に心をとらえる。

 狂いがますます闌けていく

 「闌(た)ける」…ルビがあったし、なんとなくイメージできたが、念のために辞書で調べる。
 「長ける」と同義だが、明鏡だとそのなかでも「季節が深まる」場合に使われている。和英辞典における例文は「春もたけた」「年のたけた」という二つだった。

 「狂いが闌けていく」とはなんと詩的な表現だろうか。

 狂いの季節が深まり、次に行きつく季節はどこなのか。
 狂いがますます成熟し、それはどんなふうに朽ちていくのか。

 そうしたイメージが湧き上がってくる。むろん、狂っているのは世の中であり、社会であり、人々である。

 辺見は「狂いのもとをあかすことができない」と書いている。複合的に、拡散的にぽつぽつと狂いは生まれ、大きなうねりのように、私たちの中に巣くい始めた。いくつかの悪腫瘍を取り除いてみても完治には向かわず、後から後からまた小さな狂いが生まれてくる。
 闌けていくものに逆らうことはできない。
 かといって身を任せることも癪だ。せめて、狂いながらその狂いを見つめる目だけは無くしたくないものだと思う。

 狂いがますます闌けていく

 つぶやいてみると、その目の存在を意識できるような気がする。