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義体としての自己を生きる

2009年07月08日 | 読書
 荻上チキは初めて目にした名前だったが、ネットで検索してみたら、結構注目を集めている若手の批評家であるようだ。
 講談社のPR誌に面白い表現をしている。

 あらゆる身体は義体である 
 ほおっ、義手、義足は聞いたことがあるが、義体とは。
 広辞苑にもないし、「義」の意味を調べてみても「人体の一部を代用とするもの。『義手・義歯』」と記されているではないか。

 人体全部を対象とするのは辞書的には間違いだろうが、なんとなくわかるような気もする。つまり、道具を持つことによって、手が義手になるイメージが発展していくことで、人体のほとんど、動きが制御されていくということを表すだろう。
 アニメ用語?としては「義体化」があった。

 荻上は、新しい道具や技術特にメディアの進歩、発明によって人の身体はその度に変化するという。また新しい身体への変化を怖れてはいけないという立場のようだ。
 それを「社会的身体」という言葉で括ればそんな気もしてくるが、「≒」で結んだ「義体」だとすれば、はたしてそれはどんなふうに幸せと結びつくものか、ふと立ち止まってしまう。
 つまり、道具が、メディアが、身体を支配しているイメージが湧いてしまう。

 しかし道具やメディアが、自分というものを作り上げてきたこともまた事実であろう。そうだとすれば、それらとは違う、またはそれらを乗り越えた体験、経験の蓄積をどれだけ意識できるかが、生身の残存割合を示すものとなるか。

 そのことが甚だ心もとない自分は、荻上言うところの「義体としての自己を生きていく」ことを突き詰めてみるしかないだろうか。
 義体であれば老化も関係ないはず、などとくだらない考えも浮かぶ。