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善意の人、決意の人

2009年07月12日 | 雑記帳
 「多忙化防止」についての書類がくる。
 「策」について返答せよ、という。必要によっては職員にアンケートをとって集約してから答えよ、という。

 確かに多忙化防止は大切なことだ。
 しかし、かなり以前から言われてきたように、いくら叫んでみてもその防止のための会議、書類作成が増えただけ…という顛末に近い気がする。
 何のための、いったい誰のための多忙化防止なのか、そんな考えが頭に浮かんで…
 
 北海道の堀裕嗣先生が、以前こんなことを書いていた。

 教員は決して「多忙」ではないのだ。おそらく変化したのは「多忙感」のほうである。

 その通りだと思う。
 その「感」の責任は誰だ!ということになる。
 最終的には個人の受け止め方であることに違いないが、そういう「感」を、以前より多くの教員が持っているという現実があることは確かだろう。

 その現実は例えば教育施策の変化、学校を取り巻く社会・地域環境の変化、そして教員自身の考え方の変化、それらのどれと一番強く結びつくものだろうか。

 安易に判断してはいけない問いのようにも思う。
 確かに学校や教員を取り巻く外的な要因は増えている。
 学力テストのこと、教員免許制のこと、不祥事防止に関わる様々な対応、…いくらでも挙げることができる。それらを必要であるかもしれない、やむを得ないだろうという気持ちを持ちつつも、人はどうしても自分がしたいこと、しなければならないと心底思うことと違う向きの仕事に時間が割かれるときは、苦痛を感じることだろう。それは結局どんな仕事であっても変わらない。

 様々な人を思い浮かべたりしながら考えると、多忙感を持つ人は「善意の人」かもしれない。やりたい仕事、やるべき仕事がまだ他にもあるのに…という気持ちを抱いているという意味である。
 しかしその善意の人の処理能力、性向などが劣ったり暗かったりしたときに、それは善意のままで終わり、対象に伝わらないまま、かえってあまりいい影響を与えないことになるのではないだろうか。

 だから?私の知っている仕事のデキル人たちの多くは、多忙感をあまり口にしない。感じてはいてもその処理の仕方や工夫を知っているとでも言えばいいか。目的に沿った取捨選択、軽重のかけ方がスムーズにできる。ここでは、仮に「決意の人」とでも名付けようか。

 多忙化の書類を求める過程のなかには、おそらく多くの善意が詰まっていることだろう。
 しかし、決意が足りない気がする。書類で見えないことの多さに気づかないわけではないだろう。

 従って、さらに言えば、もう一つ上の「決意の人」がいないのである。