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「捨て目」ということを知って

2012年02月24日 | 読書
 家本芳郎先生の著書『子どもと生きる 教師の一日』(高文研)の中に,こういう項目があった。

 <捨て目>を使う教師になりたい

 恥ずかしながら「捨て目」について,初めて知った。

 捨て目というのは,見ようとして見るのではなく,行住坐臥,目にうつるものやできごとを目の端にとらえ,心覚えしておくことをいう。

 ううむ。なかなか深い。
 しかし,なにゆえに「捨て」なのか。
 意味から命名したら,「拾い目」の方が妥当のような気もする。ネット検索では語源は探せなかったが,さすがの家本先生はこのように記している。

 捨て目はもともと,家政のための気くばり,心くばりから発した。すべてのものを心に留め,あとで役立たせようというのである。


 つまり,端切れや糸の残りなどを心に置いておくという所からきているらしい。捨てられたものを見る目ということが,そもそもの始まりのようだ。

 学校の中にある物品や場の様子だけではなく,子どもの何気ない動きや表情なども,日常のなかで心に留めておくことの大切さを象徴している言葉なのだ。

 当然ながら,空間認識,視野の範囲といった身体能力ともいうべきことが関わるだろう。しかしある意味で習慣化し,機能させておく姿勢こそが求められている。

 また「見取る」ことを考えてしまう。
 「見取る」ためには,注目・着目という,いうなれば「捨て目」とは相対する言葉や動きが使われることになる。
 しかし,実のところ「見取る」は,常にズームを利かしている状態でいいのか,と問い続けねばならないだろう。
 広角の中に,はっきりと焦点化させるようなイメージを抱けるかだ。

 それにしても,学校現場の中では「捨てられている」モノ,コトが案外多いのかもしれない。 いや,どんどん増えているんじゃないか…きっとそれは確かだ。
 知らないうちに,ヒトも仲間入りしたら,どうなる。

 自分の毎日も反省しなければならないが,それはそれとして,連日の報道で賑わしく教育を改革しようとするどこぞの方々も,「捨て目」を利かしてほしいなあ,でも「捨て目」なんて知らないだろうなあ,と思う。

語るべき未来のためのデータ

2012年02月24日 | 雑記帳
 「秘密のケンミンshow」というバラエティを「蔑視的な語り方を繰り返している」と評した文章をみて,なるほどと頷いたことがある。

 そう思いながらも相変わらずミーハーな私は,そんな特集などをみるとついのぞき込みたくなる性質で,PRESIDENT誌の今号「『県民性』の統計相性学」も購入してしまった。

 当然ながら購読層を意識して,上司と部下の相性,職場の人間関係にかかわるデータが並んでいる。
 しかし,それ自体あまり興味はなく,次の「出身地のDNA鑑定」と題された,やや法則めいた記事の方が面白い。

 我が秋田が取り上げられている項目は,次のような見出しが…

 なぜ,秋田は学力テスト1位なのに,進学率が低いのか?

 つまり,小中の学力全国テストでトップでありながら,大学進学率だと33位(2010年文科省データ)になっているのはどうしてか,ということである。
 結論として「競争よりも横並びが大切な気質」「NO!といえないこと」というもっともらしい理由が記されているが,実際はそれだけでないとは思う。

 また,こういう見出しの立て方そのものを疑う必要があるだろう。
 逆にみたら,どうだというのだ。

 なぜ,秋田は進学率は低いのに,学力テスト1位なのか?

 これに対して語られること,解説されることは全く表現が異なるに違いない。

 それは結局,表裏の関係にあり,そのどちらを見せるかに過ぎない。
 ただ当事者である「県民」は,表裏一体であることの認識を忘れてはいけない。浮かれてはいけないし,卑屈になってもいけない。

 経済的なこと,そして少子高齢化が急激に進むこの県の状況は,教育にも大きく影を落としている。
 また,学力のこと,進学率の意味はもっと多面的に語られるべきで,それが何の指標なのか,検討されてもいい。
 ただ,県内進学,県内就職も少ないまま,人口が流出していく現状を良しとしている県民はほとんどいないと言ってもいいだろう。

 大きな構造的な問題が横たわっているという認識は持っている。
 また県という括り,国という括りの意味づけにも違いが生じてきているのは確かだ。

 そのなかで,どんな未来を描くか…まず大人は語るべき未来を持っているのか…。
 データの選択は,そこが問われている。