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「見とり」の現実から考える

2012年02月14日 | 教育ノート
 今月初めに最後の校内授業研を行った時,協議の中でこんな声が出た。

 「学習活動の仕方として,一斉型で全体への発表ではなく,グループ内での発表で終わる形に変わってきているようだ。そういう場合の見とりの難しさを感じる。」

 「見とり」という言葉は,今年度の協議を振り返っても,かなりの頻度で出てきたように思う。今回何故か妙にその一言が気になったこともあり,少し考えて整理できれば,いいまとめになるのではないかと考えた。

 校内報である『声日記』に二回続けて(といってもB版なので少ない量だが)記してみた。
 項目立ては以下の通り。

◆そもそも「見とり」とは…
◆積極的な姿勢を具体的に表すと
◆「子どもを見る目」は鍛えられていたのか
◆学習の飽きを見取る
◆見取りの実際
◆言語的情報の見取り


 「見とり」=「見取り」は,教育現場ではいつ頃から使われ出したのだろう。自分が採用になった三十年ほど前はそんな言葉はなかったような気がした。
 そして検索をかけてみると,圧倒的に生活科実践の例が多い。そのあたりから一般化した?と考えるのが妥当だろう。

 とすると,生活科がもたらした学習形態の変化をある意味で象徴しているのではないかと考えられる。
 つまり,一斉から個への活動変換は,ただ「見る」だけではなく,「見取る」ことをより強く要求したのだと思う。
 
 その場合,「見取る」とは,着眼点を明確にして個を見る,全体を見る,そして次へつなげる積極的な姿勢を表していると言ってよいだろう。

 しかしここで問題なのは,何を,どのように見るかという具体的なことである。こういった研究は,昔からどうもあまり進んでいないように思える。
 特に言語の見取りはできても,姿や仕草の見取りについては,まだまだと言えるのではないか。私の知るレベルでは,上條晴夫先生の90年代の著書が依然として大きな存在である。

 ペア,グループといった形態における見取りを考えると,やはり非言語的情報をどのようにして見るか,そして言語情報をいかに効率的に見るか,という2点に絞られるように思う。

 今,自分が授業でどんなふうに子どもを見取っているのか,そしてそれは自分の学級づくりや授業づくり構想と合致しているのか…そこだけでも突き詰めてみれば,かなり実践の筋道がすっきりして整合性が保てるのではないだろうか。