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愛される学校づくりフォーラム,その2

2012年02月28日 | 雑記帳
 午後は「授業名人が語る!斬る!ICT活用」。

 この企画は実に素晴らしい。いわゆる名人の定番授業のその手法やエッセンス等を盛り込んだ授業を,ICT活用を取り入れて行う。
 それを名人に批評させようというのだから,面白くないわけがない。

 志水・有田・野口の各先生方が,それぞれの個性あふれる語り口で感想や批判を述べられる姿を見ただけでも,ずいぶんと価値があった。
 提示された個々の授業のよい点,要改善点や,別の切り込み方など一緒に参加した同僚や知人と少し語り合えたことも収穫だった(研究会参加はそういうライブ感も大事だと思う)。

 さて,結論的に思い出したのが,宇佐美寛先生の授業の定義である。

 授業とは,何かを用意し,何かをかくし,何かを問い,何かを考えさせ,何かを認識させるコミュニケーションである。

 デジタル機器や教材で,何が有利かを考え,この定義にあてはめてみる。
 「用意」「認識」のところは多くあてはまるだろう。ただ「かくし」「問い」「考え」の所はその使い方はどうなるか,かなり工夫の余地がある。

 二つ見方がある。

 デジタルで用意したり,認識させたりする便利さを禁欲的にできるか。情報の増大化,効率化によって陥る問題点を意識できるか,ということ。

 コミュニケーションを保障する構成になっているか。デジタルとアナログの差や育つ能力などを把握して構成できるか,ということ。


 このあたりが,結論ではなかったかと考える。

 かつて,「IT」と言われていたものが「ICT」になった。
 「C」のcommunicationは,「通信」という意味だろうが,もっと広義にとらえる姿勢が大事だ。
 教育もTechnologyによって,はかりしれない飛躍ができることは間違いない。
 しかし,様々な産業や分野において,その発達によって大きな何かを失ったこという例は,巷にあふれている。
 教育では致命的になることもあろう。

 機器や教材を「つかえる」という目で見ながら,必ず今までとの違いを,表からも裏からも探るという手順を忘れては,危険性が増すだろう。
 かと言って,慎重な姿勢は消極性に結びつく。積極性を持って活用のための観点をはっきりさせたい。