すぷりんぐぶろぐ

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懐情の原形に触れる

2012年02月12日 | 読書
 「ほぼ日」のサイトを見ていて,その題名に惹かれて衝動的というか直感的に買ってしまった本である。

 『懐情の原形 ~ナラン(日本)への置手紙』(ボヤンヒシグ 英治出版)

 著者はモンゴルからの留学生であった。
 短い詩とエッセイが綴られている。
 なかなかめぐりあうことのなかった表現だと感じた。
 彼が生まれたモンゴルは映像の中でしか知らないが,荒涼たる草原に吹き渡る,冷たく透き通る風にさらされた言葉だと思った。

 著者はモンゴル語,中国語そして日本語を使いこなすことが出来る。
 母語であるモンゴル語こそが中心になっていることは間違いないだろうが,それが核のように存在していて,きっと学んだ言語を「ことば」として磨き上げていく思考の糸が,強く太いなのだと思う。

 小さい頃,僕は吃りがひどかった

で始まる「石の重み」という冒頭にある詩は,情報化とかグローバルとか喧しく誇りっぽい空気の中で,知らず知らずのうちに消耗しきっている自分の姿を突きつけられた気がした。
 その詩はこんなふうに結ばれるのである。

 口が走ってゆく
 僕は とり残される



 愛情と称していいものか迷うが,人とめぐり合い暮らすことの暖かさをこんなふうに表現された詩を読んだのも久しぶりだ。「河魚」という題名である。

 一緒にさまよった
 それは 道ではなく
 河をさがす 旅であった

 いつか河は彼女そのものであった



 「顔だちが中国人にも似ていないし,実はモンゴル人にも似ていない」と書く著者は,様々な国(場所)で「○○人か」と問われるのだという。日本での問われ方に思わず笑ってしまい,同時に親近感がわいた。

 「おまえ,秋田県出身かい」

 さて,強く惹かれたこの題名にある「懐情」は「かいじょう」と読むことには間違いないが,実は,調べても辞書に存在しない。しかし,意味が通じてしまうところが,漢字の素晴らしさだと思う。
 そして,それはよく考えてみると「なつかしいこころ」と「なつかしいようす」の融合された意味ととらえることもできる。

 懐古ということにはこだわらないが,懐かしさこそ生きるうえでの指針という人もいるのではないかと思う。
 自分もまたその一人のような気がする。