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立ち止まったままだが

2016年11月24日 | 読書
『吉野弘エッセイ集 詩の一歩手前で』(吉野弘 河出文庫)


 この詩人には思い入れがある。よく知れ渡っている「祝婚歌」もいいが、「奈々子に」という我が子へ宛てた形の作品は、かなり好きな詩の一つでもある。学生時代、少し現代詩をかじったが、その難解な言い回しに辟易していた自分にとって、吉野弘は憧れの一人だった。日常の言葉に真実が探れるような気がした。


 ある時、電車で一緒に乗り合わせた先輩教師と少し話した記憶がある。詩人として詩集も出していたそのT先生が「ほおぅっ、吉野弘ねえ」と上げた声を覚えている。まだ自分にも詩が書けると思っていた頃だ。「人は25歳までは誰しも詩人になれる」という誰かの言葉を信じ、訳のわからない字句を書きつけていた。



 だから、この文庫の原本である『遊動視点』(思潮社)も発刊当時に手に入れて読んだはずだ。改めてページをめくると、ずいぶんと時が流れたように感ずる部分が多い。ただ「言葉の身辺」という章にある日常語や漢字等についての記述には、かなり影響を受けていたことを今更ながらに発見する。例えばこの一節だ。

幸いの中の人知れぬ辛さ
そして時に
辛さも忘れている幸い
何が満たされて幸いになり
何が足らなくて辛いのか

 「幸」と「辛」。字形はわずかな違いだが、まるで意味が異なる二つの漢字には、人の生き方が照らし合わされて、経験や実感を呼び起こそうとする自分がいる。「詩」とは何か。今もって明晰には語れないが、やはり言葉や文字への興味は尽きていないと改めて感じる。まさに「詩の一歩手前で」立ち止まったままではあるが。