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「やどる」その人のいのち

2021年03月17日 | 読書
 ひと月前よりは少し寝やすくなった。半分寝ぼけも入っているが、早朝読書のメモである。

『さざなみのよる』(木皿 泉  河出書房新社)


 知り合いに薦められた一冊。何か既視感があった。ナスミという主人公のイメージが小泉今日子では…と浮かんだのでTVドラマか。調べてみたら、やはりあった。「富士ファミリー」…NHKで数年前に放送していたと思い出した。続編もあったようだが、そちらは見逃したかもしれない。ともあれ、やはり木皿泉だ。


 人の心の襞を描くのが上手い夫婦作家だ。この小説の読みやすさは出色で、話者を変えていく構成、展開は見事だ。泣かせどころも心得ていて、19年本屋大賞ノミネートは納得だな。テーマは「やどる」。形は多様だがその感覚を持てる生き方は幸せだろう。物的な交換可能性のみに心奪われていては、見えない世界だ。


 ナスミが働いて工面した5万円、それは単に借金の返済なのだが、そのお札を使ってバッグを手に入れたいと思った愛子。銀行からわざわざ別に5万円を下ろし兄に渡す。その愛子の行為は、ごく小さいけれど「やどる」の典型ではないか。心はそうやって「さざなみ」のように伝わる。ふと思い出すドラマがある。


 「富士ファミリー」ではなくあの人気ドラマ「北の宿から」。純が中学を卒業し、大型トラックに乗せてもらって上京するシーン。五郎が運転手に渡した二万円だ。泥の少しついた二万円を「俺は受け取れねえ」と言って順に渡す運転手。今は亡き古尾谷雅人、絶品の演技だった。その二万円が、話を展開させていった。


 さて、小説の最終第14話を読み終えてもう一度第1話に戻る。病の床に在って人は、こんなにもじたばたせず死を迎えられるものだろうか、と改めて思う。観念的だが、もしできるとすれば生き尽くした感がそうさせるのか。他者の心にやどる人とは、常にそういう存在だ。やどるのはその人の「いのち」に違いない。