すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

その蜜はやはり麻薬です

2021年03月20日 | 読書
 「ケナリ」と初めて聞いたのは、臨時教員として勤めた僻地の中学校。女子中学生が口にした語の意味が分からず、帰宅してから尋ねたら、家族の中で明治生まれの祖母だけが「昔使ったことがある」と語った。後で調べたら、方言というより古語で広辞苑に載っていた。「うらやましい」それに「妬ましい」が重なる


『なぜ他人の不幸は蜜の味なのか』(高橋英彦 幻冬舎ルネッサンス新書)

 おっと思う書名に惹かれた。粗い結論として、脳には基本的に「妬み」という情動を発する働きがあり、それは「痛み」を伴う。その痛みを「解消する最適な『治療薬』」が「他人の不幸」であり、その意味で必然的なのだそうだ。道徳的、倫理的にあまり好ましくない感情が起こる訳を知ると、ちょっとはホッとする。


 しかし、だからといってこうした感情を野放しにしていいと語っているわけではない。「脳の自然な反応に従って行動することは、現代社会において必ずしもふさわしいとはいえない」と極めて常識的にたしなめる。この辺りは先日の脳幹・大脳辺縁系・大脳新皮質の働きと明らかに重なる。感情をしつける必要がある。


 ただ、この「妬み」が「悪いだけの感情で、人間に害しか及ぼさないならば、長い進化の中で淘汰されてもいいはず」と書いていることにも納得だ。他人の失敗を喜んだり、邪魔をしたりする非生産的な解消法だけでなく、建設的な作用を及ぼしてきたからこそ、「普遍的な感情として世界中に共有されて」きたのだ。


 端的には「負けるか」「なにくそ」から発する向上心が挙げられる。問題は、それだけでは解決できない事例、日常が巷に溢れているということ。妬みの対象と自分を同列に見る思考そのものをずらしていく、いわば複眼的思考の習慣が肝心だろう。「蜜」は味わってもよいが、それは一種の麻薬であり、自らを弱める。