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常に出来事を愛でる

2021年03月27日 | 雑記帳
 読み返しもこれを最後とする。

 掲示として挙げる詩や文章で、使いやすかった(これはずっと前からだが)のは、まど・みちおだ。
 それらの詩句は有名なので、ここに載せたりしない。

 意外なところで、村上春樹の文章を二度使っていた。
 小説は苦手だが、エッセイなどは変化球的で面白いなあと思う。

 10月に挙げた「雑文集」のなかのこれもその一つだ。

 小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書きつづける人間のことである。
 自分とは何ぞや?そう思うまもなく(そんなことを考えている暇もなく)、僕らは牡蠣フライやメンチカツや海老コロッケについて文章を書き続ける。そして、それらの事象・事物と自分自身とのあいだに存在する距離や方向を、データとして積み重ねていく。



 実に比喩的で考える余地のある文章だ。さすが!と褒めるのは失礼か。

 結局、引用して打ち込んだが掲示せずに終わった『ビートルズへの旅』という本で、リリー・フランキーが書いている文章も似ているところがあるなあ、と読み返して思う。


 なにかを表現する時、誰しもが、自分の心の奥底に潜む物質と、作品に定着させた時の物質変化における距離を測る。
 つまり、深層に沈む、自己の酷い部分、身勝手な心、情けない感性を、作品という名刺にいかにして、刻んでゆくか。
 ありのままではなく、どのように昇華させてゆくか。



 さて、またまたコロナで少し沈滞していた2月。

 ブータンの言葉を扱った図書を見ていて、選んだ語句を最後にしよう。

小麦を蒔いたら、小麦が実ります。
大麦を蒔いたら、大麦が実ります。
すべてのことには 原因と結果があるのです。

今ある自分は、もともと自分が蒔いた種なのです。



 『ブータン人の幸福論』にあった作詞家リンチェン・カンドの言葉である。

 自然災害などに適用するのは無理があるかもしれないが、それに対応する私達の動きそのものには、全て当てはまるというのは言いすぎか。
 しかし、「人はその性格に合った事件にしか会わない」という小林秀雄の言葉に照らし合わせれば、どんな出来事も結果であり、どんな出来事も原因になりえる。
 要はどう受け止めるかに尽きる。

 常に出来事を愛でる覚悟ということか。