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取り扱い注意の作家をまた読む

2021年06月21日 | 読書


 作家佐藤正午のユニークさは、ファンでなくとも文芸界?では周知のことなのかもしれない。初めて小説以外の文章を読んだが、これもまた独特さが際立っている。岩波書店の『図書』で「書く読書」として連載された文章をもとに新書化された。著名な小説家たちの名前と名作がずらりと並び、その書き方を突く。


『小説の読み書き』(佐藤正午  岩波新書)

 冒頭の「川端康成『雪国』」が典型である。有名な書き出しに注目しながらも、「難しくてぼくにはいまいちわからなかった」とも書き、川端の表現について「なぜ」を連ねていく。作家の表現の選択の理由を、読者としてどこまでも追いかけていく姿勢をみせる。現実に限界があるとしても、それが「読む」ことだ。


 小説の文章を読み、頭に思い浮かべることを「書く」「書き直す」行為と同様と著した者が他にいたろうか。佐藤はこう書く。「読者は読みながら小説を書く。読者の数だけ小説は書かれる。小説を読むことは小説を書くことに近づき、ほぼ重なる」もちろんそれは、書き手であれ読み手であれ、個の資質によるのは明白だ。


 自分はもちろん小説など書けないし、読み手としても半端だ。注意力散漫で見えていない部分の不安を抱えながら読んでいる。「開高健『夏の闇』」の章にある「登場人物たちの視力の弱い小説」という表現は著者なりの「恋愛小説の定義」だが、視力の弱い読者には、能天気な現在と未来しか見えていない意味になる。


 最終章は「佐藤正午『取り扱い注意』」で連載にはない自作が取り上げられた。編集者の当初から要望であったらしい。この作家は「ややこしいことを、ややこしく書く」のが得意であり、それが書名と通ずるか。ただ「語りでは世界最高峰」と持ち上げる人気作家もおり、またぞろ取り扱いに注意して読もうと思った。