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美醜を胸に問う習慣

2021年07月12日 | 読書
 筑摩書房の出すPR月刊誌『ちくま』の冒頭連載を、蓮實重彦という文芸・映画評論家が書いている。「些事にこだわり」というタイトルどおり、実に個性的というか偏執的というか、とにかく黙読しながら頬が動いてしまうような文章だ。それは納得やら、疑問やら、特異な視点への驚きやらが入り混じった反応だ。



 今月の題は「マイクの醜さがテレビでは醜さとは認識されることのない東洋の不幸な島国にて」とある。映画とテレビの画面を較べ、マイクロフォンの存在が決定的に違うシステムであることが、メディアとしての役割の本質をあぶり出していると書く。つまり、テレビは「本質的に音声メディアにほかならぬ」と。


 画面にマイクを映さない前提である映画。言われてみれば当然だが、それに比して、テレビでは基本フィクション以外は、マイクの映り込みは普通と捉えられている。最近はいわゆるピンマイク等が普及し、胸元に装着されコードが伸びているし、その画をごく普通に受け止めていたが、蓮實は「醜い」と断じている。


 「画面の劣化効果」「マイクという素材の形態的な不快さ」とまで表現する。結局それは「視聴者たちの美意識のまったき不在」に同調していると、名のある評論家が語ると、うな垂れるしかないか。個人的には舞台役者が肌色のテープで隠すピンマイクに嫌悪感を覚える。それを突き詰めると、見えてくることがある。


 美的感覚を養うには、価値の高い対象にいかに多く触れるかが決定的だろう。幼ければただ漫然と接するだけも何かしらプラスに働くのではないか。しかし大人が意識するとすれば、目や耳が慣れていないかを自問する習慣を持ちたい。情報洪水の中で流されず我が身を守り、道を外さないために美醜を胸に問う。