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悲しい七月場所だった

2021年07月19日 | 雑記帳
 ここまでくると自分勝手に「悲しさ」を感じてしまう。白鵬である。白鵬を支えているのは「勝ちに対する執念」と言って差し支えないだろう。今まで散々に指摘されてきた張りや肘の使い方という「手」だけでなく、行司の挙げた軍配に対してみせた不服の反応などが、象徴的だった。その度に反省の弁はあったようだが…。



 14日目の立ち合いには大相撲ファンの一人として、度肝を抜かれた。アナウンサーや解説者が語ったように「前代未聞」。この位置から始めることの意図は明白だろう。それは、彼が今まで再三周囲から言われてきたことが全然響いていない、いや理解できていないことの証左といえる。「見たい横綱像」は届かなかった。


 舞の海は「それが許されるなら、今までの横綱像が崩れる」と千秋楽で前日の取組を語った。仕切り線を目安に立ち合い、体をぶつけ合うという基本を繰り返して精進を重ね、その最高位についた横綱が、それを逸脱してみせたことは重い。ボクサーでも、異種格闘技戦のファイターであっても通用する型ではなかったか。


 力士の誰もなし得なかった数々の業績を挙げた白鵬が、どんな辛苦に耐えて今があるのか、凡人の想像をはるかに超えるはずだ。しかしだからこそ、相撲を単なる格闘技と考えない日本人の多くの共感を得られないだろうことは悲しい。結果より価値がある「正対する魂」とも言うべき観念を心底から理解できないからだ。


 とは言え、個人的に思い入れある力士たちの休場や不振さが目立ち、結局モンゴル勢のしなり強さだけがこの場所を支えた。大復活の照ノ富士を初め、それぞれの力士が持ち味をみせ好成績を残した。日本人という枠での身贔屓はもはや古いとはいえ、一体何が足りないのか以前から繰り返された問いがまた大きくなる。