すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

木皿食堂で噛みしめる味

2021年07月13日 | 読書
 第一章は新聞連載のエッセイで、全体の見出しとして「自分の信じる力を、信じる」と付けられている。そしてそれは、文庫全体の題となった「六粒と半分のお米」という文章の締めくくりの一文だ。知り合いからの贈り物が入れられた箱に紛れ込んでいたそれらの米粒の、偶然性や現れ方をメッセージと捉えている。


『木皿食堂2  六粒と半分のお米』(木皿泉  双葉文庫)


 いったい「自分の信じる力」って何だろうと思う。「貴方の信じる力とは何ですか」…そんなふうに問われたらどう答えるか。もちろん、現実にそう突然話しかけられたら、宗教関係としか思わないから、「結構です」と即立ち去ると思うが。これは、具体的な何かを指すというより、その力のでき方を想うことなのだ。



 つまり、たまたま自分の身に起こった些事を何かいい兆しとして「信じる」ことが出来るならば、きっと下地が作られているはず。幼い頃から躾けられてきたことや学んだこと、繰り返し考え、思ったことの総体が、それを信じる心に向けるのだ。それは客観性やデータや他者による評価などより、ずっと心底にある。


 今の世の中をどうにか生き抜くためには、非社会的、反社会的な思想とまでは言わないが、いい加減さ、緩さも含めて「ワタシはこれで」と言い放つ覚悟が必要なのだ。この本にはそんなふうに自分を保つヒントがいっぱい詰まっている。ごくごく普通のコトバをどう噛み締めるか。今日の木皿食堂で注文した皿には…。


 「損も得も人がつくったこと」

 「人間には弾力があるということを知らないと、簡単にポキッと折れてしまう」

 「何でもかんでも選べるっていうのは、裏を返せば自分も選ばれているってこと」

 「孤独は、私が私を見失わないための錘のようなものである。いついかなるときも、それを切り離してはならない。