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脱・おいるショック

2021年07月23日 | 雑記帳
 時々興味のある回をちらっと観てはいたが、全部通したのは初めてかもしれない。『100分de名著「老い」~ボーヴォワール~』は、作家への関心ではなくやはりテーマに惹かれたのだろう。その中でも、おっそうかと考えてしまう点が多かった。特に、この齢になるまで疑いもしなかった、一つの思い込みがあった。


 「若い!」…齢をとっても活動的な人をそう呼ぶことがある。それは身体面、精神面のどちらにも適用するようだ。そして、そう言われた人は多くの場合、それを誉め言葉として受け取る。自分が仮にそう声をかけられたら「いやいや」などと口にしながら、まんざらでもなく、きっと嬉しい気持ちになるにちがいない。


 その事実そのものが、「老い」が価値の低いことを指している。その意識は結局のところ、この私たちの社会、文明が作り出している。定義づけとしても「生産年齢」は15歳以上65歳未満とされている。「老い」とは生産者としての位置づけが下がることを示している。それを当然の論理とする世の中が作られてきた。


 教職にあった頃、相応のベテランになり「教師にとって若さは、それだけで魅力だ」というような事を言ったものだ。否定できない経験則は、主として外見や覇気のような部分を示していた。しかし考えれば「老い」がもたらす指導上の優位さが全くなかったわけでもない。それを上手く体現している教師も見てきた。



 身体の老いに比べ、成熟できない自分に苛立つことも少なくない。このままで「老いの現実をさらしていく」ことが出来るか、甚だ不安である。しかし私には一つの理想像がある。4年前に南独で観た「ヴィース教会前のバス停にいた一人の老人」の姿。あの笑顔は写真に収めていない分、まだ瞼に焼き付いている。