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久しぶりに向き合って…

2021年07月16日 | 雑記帳
 夏休みに図書館主催で行うワークショップへの参加申込がまとまった。中学生への応募をかけたフィールドワークはやはり駄目だったが、小学生向きはほぼ上限人数まで達したので嬉しい。参加する子と保護者へ向けて、改めて案内を出すため、封筒へ宛名書きをしていたら、この作業も久しぶりだなと思ってしまった。



 教員時代は幾度となくやってきたが、毎回宛先が決まっている事務局仕事が多く、段々とPC処理が一般的になっていた。筆ペンを持ちながら多数の氏名を書いていく作業、去年も同時期にやってはいても、何か新鮮に思える。人の名前を直筆で書く、むろんその時の状況にもよるが、手仕事をしている感覚になる。


 大袈裟に言えば、一人一人と向き合っているということか。午前は宛名書きから封筒詰めを終え、午後は役場での教育行政評価会議へ参加する。3時間以上に及ぶなかで、ああ久しぶりと感じたことがここでもあった。学校でのいじめ問題の折に使われた「社会通念上のいじめ」と「法律上のいじめ」という用語だ。


 数年前に繰り返し職員に対して話したことが思い出された。心の中で深く首を傾げながら、語っていた「その子がいじめだと思ったら、それは『いじめ』なのだ」「いじめがあったという報告は、躊躇なくする。その数は多ければ多いほど認知していることになる」…現実と深い矛盾がある言い回し、常に承知していた。


 いじめという行為は永遠に無くせない。それが出発点。そこからどう足を進めるか。ハラスセント行為全てに共通するだろう。最終的に「法」に頼るのは人間が社会を営む以上やむを得ない。しかしそれ以前に「人」であり、どう向き合うかが本質なのだ。「法」が「人」の弾力性を劣化させる典型のように思えてくる。