すぷりんぐぶろぐ

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世界一の酒を飲ませてくれた人

2021年07月27日 | 雑記帳
 Mr.Childrenの「1999年夏、沖縄」という曲のなかに、こんな一節がある。

♪酒の味を覚え始めてからは いろんなモノを飲み歩きもしました。そして世界一のお酒を見つけました。それは必死で働いた後の酒です♪

 この詞に共感する者は多いはずだ。そういう出逢いは本当に嬉しい。
 齢とともに残念ながらその機会は減ってくる気もするが、忘れられない酒をいくつか思い出せることも幸せだ。

 あれは30歳のとき、教師になり三校目の学校へ転勤した春。
 山間部の小規模校の狭いグラウンドはまだ雪に埋もれていた。5年生13人を受け持つことになり、始業式当日から子どもと一緒にスコップを持って、雪を一メートルほど掘り出して、いくつも穴を掘った。
 連休前に運動会を行うための除雪作業である。3.4日ぐらいは続けただろうか。

 整備される前の小さなグラウンドで、直線100メートルが取れず、狭い円を白線で描き、そこで徒競走が行われたことを覚えている。
 一人何役もこなしながら、いっぱい動き回った一日となった。

 会以上に記憶に残っているのは、終了後のことである。
 協力してくれたPTA保護者の方々と一緒に「反省会」をすることになった。
 小学校の春の運動会といえば、山間地域にとってはお祭り同然である。しかし当時はすでに学校内での酒宴等は禁止されていた時代である。ただ、体育館は微妙に管轄が重なる施設だったようで、抜け穴的に宴ができるのではないかと考えた人がいた。

 しかし、着任したばかりのN校長はのらりくらりと渋った。
 それを「それなら、俺が責任を持つ」と一喝したのがPTA会長のMさんだった。

 この時のビールの味が忘れられない。
 体育館の軒にはまだ雪が残っていて、その雪をバケツに詰め込んでビール瓶をそこに突っ込んだ。
 体育館の真ん中に大きな車座が出来上がり、陽気な宴会が始まった。火照った体に沁みこむようにビールが入っていった。
 
 その宴の細かな記憶ははっきりしていないが、間違いなくあの時のビールは世界一の味だった。

 結局、この学校には六年も勤めることになった。
 そしてPTA会長であったMさんの四つ違いの姉妹を、続けて2年間、4年間受け持ち、卒業させることにもなった。

 Mさんとは学校行事の度に顔を合わせ、また飲み会も多くした。
 自営業らしい独立心に富む親方気質だったので、話もよく合った。同時に教師には言いにくいと思われることも直言していただいた。
 諸事情から一つの学年をなんと4年間持ち上がりすることになった私に、「それは嬉しいし、有難いけれど、娘は他の先生との出会いを逃すことにもなった」と忌憚なく、真っ当な考えを述べてくれたことも思い出す。

 上の娘さんの卒業式後の懇親会で、ある約束をした。
 受け持った娘の気立てのよさを話題にしていたら、いつの間にか「では結婚式のときの仲人をする」という話になった。
 二人とも酔いに任せて楽しく盛り上がり、遠い将来に想いを馳せていた。

 ところが十数年後、Mさんから「先生、覚えているよな」ということで本当に頼まれるという事態が…。
 断る理由もなく、人生初のそしておそらく最後であろう仲人の席に立つことになった。人の縁の滋味ということを感じさせてくれた恩人と呼んでもよい。

 下の娘さんを卒業させた時の懇親会では、おそらく自分でも異動することも分かっていたからだろうか、私は4年間の到らなさが情けなく思えてきて急に涙を見せたときがある。その傍に寄り添ってくれたのもMさんだった。



 そのMさんの訃報が新聞に載った。

 ここしばらくお目にかかることがなかったが、頑強な方だったし、まさかと思った。病魔に侵されたのだろうか。

 MさんがPTA会長の時にちょうど学校百周年となり、記念碑に刻む言葉を私が考えることになった。それは地名からインスピレーションを得て、つくりあげた一節だ。

 「山は人を抱き、人は道をつくり

 製材を生業にしたMさんは山に生きて、周囲の多くの人に道をつくる人生を歩んだように思う。
 そしてまさしく、山に抱かれるように逝ったのだと信じたい。

 あの笑顔と口調が今もよみがえってくる。
 もう一度一緒に飲みたかったなあ。

 合掌。