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「言葉」という厄介な矢

2021年12月01日 | 読書
 『「言葉」が暴走する時代の処世術』より少し先に読み始めていたのだが、途中で滞り、結局は併行して読み進めていくような形となった。最初は大学教育に関する内容が多く、関心が薄かったが徐々に引きこまれ、さらには『「言葉」が暴走~』とも結びつくように思い、じっくりと読み浸る形となった。少し珍しい。



『知の体力』(永田和宏  新潮新書)


 今までそんなことを思ってもみなかった一節があり、いささかショックだったのは、「言葉は究極のデジタル」という見出し。「アナログは連続量」「デジタルは離散的な量」とすれば確かに当てはまる。ある事柄について言葉で表現したとたんに「それはアナログからデジタルに変換されてしまう」。あくまで部分なのだ。


 だから「コミュニケーションは、アナログのデジタル化」という言い方にも納得がいく。言語化できないはずのアナログとしての感情や思想を、言語にデジタル化して相手に伝える、それがコミュニケーションの基本なのだ。動物たちのアナログ表現(鳴き声や威嚇等)とは明らかに違い、ヒトだけが特殊存在である。


 「伝えるようとするより、わかろうとする意識」と昨日記した句が思い出される。ヒトがコミュニケーションをとるにあたって努力すべきは、言語化以外の部分なのだ、と思いつつ、引用されている『日本語練習帳』(岩波新書)の大野晋の考えにも深く同調する。語彙という知識の量について次のように記されている。

「生活していく上で間にあうという数でいえば、3000語あれば間にあう。(略)言語生活がよく営めるには、3000では間に合わない」そして「語彙を七万も十万ももっていたって使用度数は1、あるいは一生に一度も使わないかもしれない。だからいらないのではなくて、その一回のための単語を蓄えていること」


 これを前置きに著者は、この新書の結論を述べている。「大切なことは、何か現実世界で問題が起きたときに(略)どのように自分の知の片々を動員して乗り切れるか、『知の体力』とはまさにそのような、知の活用の仕方、動員の仕方を言う」。そして「動員の矢数」を強調する。言葉は確かに強力な矢であるのだけれど。