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いったい何が誇らしいのか

2021年12月28日 | 雑記帳
 「ちくま」1月号冒頭の連載「些事にこだわり」に、蓮實重彦が「ノーベル賞が『些事』へと堕してしまう悲惨さについて」と題して、2021年度物理学賞の真鍋淑郎氏のことを取り上げている。真鍋氏が米国籍つまり日本国籍を放棄している日系外国人であることを踏まえた、政府および報道機関に対する批判である。


 首相は「日本人として誇りに思う」と発言し、メディアもその観点を主流とし、研究者流失に触れてはいても、大きく取り上げない。前例も多くあり受けとめる側も慣れっこなのか。真鍋氏が現在の待遇を含め「ノーベル賞の栄誉へと導いてくれたのは合衆国政府だ」と感謝を述べている事実に痛みも感じないようだ。



 昨年来の「日本学術会議」の任命問題に限らず、TVドラマにもよく取り上げられるような研究者の冷遇や政府・諸関連団体による締付など、一般人には不透明な環境が浸透してしまっている国になっているのだろう。何十年後に日本にはノーベル賞クラスの研究者は出ないと予想する声も、何度か聞いたことがある。


 森博嗣の「100の講義」の中に、それを端的に表す文章があったことを思い出した。実に「身も蓋もない」言い方だけど、これは真実だと思う。

「現代において、ノーベル賞候補となるような科学的研究上の大発見は、才能だけでなく、努力だけでもなく、まして内助の功でもなく、大部分は研究に費やされた金額によっている。費用が、環境や人員を整える。」

 90歳の真鍋氏の才能を培った土壌は日本にあったとしても、その花を咲かすだけの環境はなかったという事実は個人的にしごく残念。我々はどんな立国を望んでいるのか。