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干支一回りして「声を鍛える」

2021年12月03日 | 読書
 図書館のエントランス掲示の「詩文」に何を選ぼうかと書棚を見てまわったときに目に付いた本だった。ページをめくるとなかなか面白い。50年前に読みたかった。もっとも著者は同世代なので単に妄想だが…。先週読んでいた新書との共通点も見つかり、やはりと思うことがあった。以前の考えの浅さにも気づいた。


『15歳の日本語上達法』(金田一秀穂  講談社)


 「ぼくたちが使っている記号言語というのは、(略)言葉にならない唸り声のようなもの、言い換えれば、アナログな言語の上に乗っかったデジタルな言語ということ」という一節は、先日記した点と重なる。「アナログな気持ち」こそ何より大切という視点が弱まってきた、いや軽視してきた責任があったのではないか。


 2009年に着任した学校で掲げたスローガンは「声を鍛える」だった。「声」にはたくさんの意味がある。当然「音声言語」という表現を重視しつつ、「意見・考え」という、いわば「内言」も鍛えるという意味を重ねた。児童理解という観点も含ませ、校長室だよりとして「声日記」と名づけ職員向けに通信も継続した。



 その中で自分はどれほど「言葉にならないもの」に目を向けられたのか。児童の言葉や動きを拾い、そこから心を探るという意識はあった。しかし今振り返って、やはり不足していたのではないか。もっと「体験」や「沈黙」を重視する姿勢が欲しかった。有限な時間を言い訳に、可視化重視の波に呑まれた気がする。


 さて、本書の読者対象は書名通り中学生。そこへ向ける「日本語上達法」は三つのポイントが示され納得した。まず「外国語・外国」次に「古典」。つまり違う観点から今の日本語を見ること。いつの場合も、重視されるのは複眼だ。最後はいわば「見たこと作文」だ。気持ちから離れ「気持ちを伝える」力を養うのだ。


 もはや子どもたちの「声を鍛える」ことに直接関わる立場からは距離を感じるが、全く縁がなくなったわけではない。しかしきっとそれは自らの声を鍛える(衰えをなだらかにする程度だが)ことで保てるのだろう。外国語や古典に挑む勇気はないけれど、干支を一回り巻き戻し、あの頃唱えた決意を密かに呟きたい。