すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

杉渕学級参観記…その2

2005年06月08日 | 雑記帳
二つ目のキーワードは、
バリエーションである。

二時間目の空き時間に、教室で参観者と質疑応答したときに
杉渕先生はこんなことを言った。

「バリエーションがないと、教師があきる」

これはなんとも含蓄のある言葉だと思った。
「子どもがあきる」のではなく「教師があきる」
これは、教師の内部情報の重要性を見事に指摘している。

一つの台詞を言わせるのにも、教師が10通りの表現方法を持っているのと
100通り持っているのとでは、明らかに違いが出てくる。
そして、それは単に数多くのパターンを体験させるというだけでなく
子どもの活動一つ一つを評価することにもつながっていくのではないか。
教師が内部に多くのバリエーションを持っていることで
多様な多面的な評価が可能だし、活動の発展に結びつく。
活動の広がり、深まりは結局のところそこに規定されるのではないか。

「あきる」「あきない」教師の姿はレベルに直結する。

杉渕学級の学習活動の種類は、算数を見ても体育を見てももちろん国語も
普通の学級と比較すれば、圧倒的に差があるだろう。
これは、ユニット学習という方法にもよるのだろうが
そのユニットのパーツ一つ一つに多くのバリエーションが含まれている。
どこまでも細分化して活動させる。
わずかな変化を見逃さずに、次の課題を要求する。

バリエーションは、教師の追求性そのものだ。

杉渕学級参観記…その1

2005年06月07日 | 雑記帳
著書やメルマガをいくら読み込んでも感じ取れないことがある。
実際に見たり、聞いたりすることでその実践の凄さは明確になってくる。
それが時間とお金をかけて現場へいく価値である。
その得た価値を文章化してみることで、自分自身への消化を促す
そんな気持ちで拙文を記す。

6月5日日曜日。「教育の鉄人」杉渕鐵良先生(板橋区新河岸小学校)の学校を訪問し、
その実践を直接参観することができた。
三つのキーワードにまとめる形で書き込んでみたい。

杉渕実践キーワードは、まずこれだろう。
スピード

朝の全校活動から子どもたちがもどって席に着き
その後、杉渕先生が教室に入り正面に立った直後だった。
気合の入った「おはようございます!」一発(まさに)。
そして間をおかずにすぐに始まった10マス計算。
後から思えば、これがすべてを物語っていた。

計算や音読といった学習上の活動だけではない。
すばやく席から立つ、すばやく準備をする、すばやく次の行動にうつる
それが時間短縮につながり、量を保障する。
そしてその量は質へと変化する。
無駄のない動き自体が集中を促し、子どもの頭脳や身体を鍛えていく。
そういった考えが具現化されていると感じた。
とかくありがちな「ていねいな指導」や「わかりやすい指導」に見られる
スピード感の欠如、テンポの悪さ…これらを私たちはふり返ってみる必要がある。

三時間目の体育終了後、スピード第一の男子は
もうすでに廊下から運動着を脱いで上半身裸で教室に入ってきて
着替え始めたのには笑ってしまったが…。(子どもたちも笑っていたが)

とにかく半端でないスピードの要求に、教師の決意を感じた。

~続く

過渡期の迷いと混乱

2005年06月03日 | 読書
ソウルや北京の教師は、熱心に教えるという伝統的な役割をきちんと果たしているし、ミルウォーキーやオークランドの教師は、励ましたり、悩みを聞いたりという子どもを支える役割を担っている。しかし、東京の教師は、教える役割に懐疑的だが、支える役割を果たすまでには至っていない。そうした意味では、現在の教師は過渡期の迷いの中にいるのかもしれない。そして、ここ数年の学校をめぐる諸問題も明治的な学校から21世紀の学校へ至る過渡期の混乱と思うと納得できるような気がする。
「モノグラフ・小学生ナウ 特別号」(ベネッセ)


二方向のとらえ方が正しいとは言えないが
「教える」ことと「支える」ことが両立するのは難しい。
少なくても初等教育で、学校教育の現場で
子どもが様々な学習パターンを身につけられるものか
深く検討する必要があるように思う。