すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

立命館小研修会参観記…その3

2007年02月13日 | 雑記帳
 立命館小学校は施設、設備の点では間違いなく日本で屈指の学校であろう。
 特に、各教室に備えられているプロジェクターや電子黒板のシステム(二時間目に数学級参観したがほとんどが使用していた)、広くゆったりとしているメデイァセンターなど羨ましい限りである。そのうえなんと260席あるアクトシアターまで備えられている。また、マイクロソフト社が関わっているUMPCという個人用小型パソコンの展示も目についた。

 そうした素晴らしいIT環境活用つまりPCやAVの重視する教育について、噛み付いた人がいた。
 当の立命館小研究顧問としての肩書きを持つあの脳科学者川島隆太氏である。

 副校長である陰山英男氏との対談という形で、午後の部が進められた。
 疑問、危惧に対して陰山氏が答えたことを、川島氏が受けて「指導法の一つ、個別化」とまとめた。
 英語教育についても結構な時間が割かれて議論が続いたが、結局は「バランス」を数度強調したことが印象深い。

 陰山氏の言葉で特に印象深いのは次の言葉である。

 基本は語い力にある
 
 最新のデジタル設備環境の中で、なぜ辞典活用が強調されるのか。
 子どもの能力を高めるための具体的な活動として何が必要なのか、川島氏のバランスの強調と重なり、改めて深く考えさせられるところである。
 
 「研究者は森を見ている、現場は木を見ている」と川島氏はこのような比喩を使われた。ところが、陰山氏が語った「子どもを見る余裕がないことを、現場以外は誰も知らない」を重ね合わせてみるとき、この国の教育が陥っている問題の深さを知ることができる。

 それでもなおかつ、木を見つめようと力を尽くす教師はたくさんいるはずである。
 法律改正や行政方針の強い波にさらされても力強く踏ん張ることが大切である。そして「森」の状況も随時捉えながら行動しないと自滅してしまう。

 「森」を見る研究者が、最後にこのようなアピールをしたことも心に入れておきたい。

 世の中は「学力が高いこと」に価値を持たない家庭が増えてきている。子どもを変えようと思ったら、親たちの行動原理を変えるしかない。短くとも、たくさんのアピールを続けていくことが大切である。


立命館小研修会参観記…その2

2007年02月12日 | 雑記帳
 深谷教頭の著した『立命館小学校メソッド』(宝島社)の冒頭に取り上げられている「自学ノート」は岩下学級の児童のものであった。紀行文的なものや調査、インタビューなどをもとにしたテーマ性のある学習である。

 同じようなノートのコピーが、教室背面にも掲示されてあった。
 写真も豊富に使われ、学ぶ意識の流れが明確に見えるものである。自学が「知」を促しているという一つの例だろう。

 岩下氏の自学実践は、いわゆるメニュー選択方式から始まったのであるが、今この学校でこうした形になったことは様々な理由が予想される。ここまでの経緯から氏自身が考えを変化させたのかもしれない。ただ明らかに言えるのは、児童の実態を考慮しているということだろう。

「ドリル的な学習」「一定の活動を継続する学習」のようなものは、自学ではあまり必要がないととらえているのか、それは教育課程内に位置づけているからだけなのか、それとも家庭環境等である一定のレベルにあるからなのか、自学を学級経営全体の中でどう位置づけるものなのか、できれば詳しく聞いてみたいところだ。

 目を惹かれた掲示物(児童作品)があった。
 400字の作文である。「おせち」をテーマにして説明文風にまとめてあるのだが、マス目の下部に次のような欄があった。

 作文の技法30…使った技法をチェック

 技法として挙げられているのは、「敬体」「常体」から始まり、「図、絵挿入」「( )段落構成」まで全部で30.チェック欄が設けられ、書いた作文にどの技法が使われたか色鉛筆でチェックする形になっていると思った。
 初めて見る形式である。
 作文の授業で、技法を取り扱うことはあるが、こうした形でシートにおとしておくと継続化が図れるし、書く側の意識も高まる。これも一つの「見える化」と言えるかもしれない。

 もちろん、立命館で一番「見える化」が明確なのは、辞典活用である。どの子の辞典も付箋でいっぱいであり、その付箋が児童の意欲をかき立てていることは簡単に想像できる。
 かと言ってそんなに競争的ではないようで、授業中の辞典を引く場面を見ても、きわめて自然な形で溶け込んでいる気がした。
 帰りに整理棚に揃えられた人数分の、付箋だらけの国語辞典、漢字辞典、そして数冊の和英辞典、なかなかの壮観であった。

立命館小研修会参観記…その1

2007年02月11日 | 雑記帳
 立命館小学校授業研修会参加の目的の7割は、岩下学級参観である。
 
 モジュール前の音読や歌、そしてモジュール活動を通して、岩下先生が主張しておられることが明らかに見てとれた。

 子どもたちの心身の欲求を満たす表現活動が、「情意知」を劇的に高める

 「からだ」を使って仲間と歌う、読むという行為が、子どもの全体を活性化させているという印象である。こうした感覚はやはりライブならではのことである。一見の価値はかなり高い。

 国語の授業は「漢詩」を扱ったものであるが、著書から漠然と抱いていたイメージと少し違う印象であった。指導案の展開とも大きく異なる部分があるし、子どもの出方によって柔軟に変えていったとも言えるだろう。
 特に劇的な発問や大きな盛り上がりがあるわけでもないが、じっと観察していると繰り返して留意していると思われる行為がいくつか目につく。

 既習の事項を頻繁に出させている
 意図からずれている反応も丁寧に取り上げる
 一斉集中を促す指示を時折入れている


 指導案に書かれている「共感的な気づきが生まれるような話し合いのあり方」がどの程度達成されたかは判断しかねるが、岩下先生が一番強調したいことはおそらく、このことだ。

 共感

 まず教師が具体的にその姿勢を見せ、自然な形で子どもたちにも要求していることがわかった。
 ぐうっと全体の凝縮が強くなる時や、そうでなく個々が様々に考えている時の両面があったが、教材に対する集中は保たれていて、そこに教材の価値やふだんの学習習慣の定着が強く感じられた。
 日々の積み重ねとはそうしたものであろう。その意味で派手さはないが貴重な場面の提示といえる授業だったと思う。

 国語授業前の活動(音読・歌)で、明らかに「温度の低い」一人の男子児童がいた。他の子から浮き上がって見える印象である。しかし三十分の一のこの存在が、逆に少し安心感を与えるようにも感じた。
 国語の授業ではそれなりに意欲的だったし、次の「ロボットの授業」へ向かうとき、一番勇んで大きな声を出していったのは彼だった。
 彼への特別な働きかけはなかったが、そこにも共感があり、大きな捉え方ができていることは間違いない。

導入問題のリベンジ

2007年02月08日 | 教育ノート
 次のシートは「かん板を作り直そう」というタイトルである。
 パターンは同じだか、導入の例題は状況を引き出すところから始めてみる。

 ポスターの形にして、「パンダがブランコにのっている絵」の下に次のような文を書いた。

 ペンキ塗り立てなので、このブランコの使用を禁止します

 「これって何?」と問うと
 最初の子は「注意」とだけ答える。認めて、さらに詳しく言ってみなさいというと
「公園で、プランコについて 注意している」という声がでる。
 これで、表面的な状況はわかった。

 次に、「このポスターは、いいポスターかあまり良くないか」を○×で問う。
 18人中に8名が○と真っ二つに分かれる。
 ○の理由を聞いてみると「理由が書いてある」「短く書いてある」が挙げられる。書かれた表現のみを対象とした見方である。
 一方×は、「いつまで(禁止)かが書かれていない」「どこに塗っているかはっきりしない」と理由がでた。しかしこれらはポスターの役割についての認識不足や、かなり部分的な問題であるので少しずれている。
 一人の男の子が「乗られないのに、乗っている絵が描かれてある」と指摘した。文と絵の整合性である。なるほどという顔が見られた。


「先生は、実はこのポスターはあまり良くないと思うんだけれども、そういう考えでもっと良くない理由を見つけられる人はいないか」と続けると、

「漢字が読めないよ」
「公園にくる小さい子には、使用とか禁止はわからない」という意見が出された。
他の子もあっそうかという表情である。

 ここにきて「相手」や「目的」が明らかになってきて、文章の検討の軸ができるのである。
「そうすると、塗り立て、という言葉も難しいよね」
 確かに短く端的に書かれているが、絵があわなかったり、漢字がむずかしかったりすると伝わらない場合があることを押さえて、類似したシートの問題に入っていった。

 飛び込みのわずかなやりとりから結論づけるのは難しいが、「言葉への反応力」を高めていくための一つの方法として、担任ならばやはり学習パターンを決めておくことが有効ではないかと思う。
 例えば、文章提示のあとに「わかること」「はっきりしないこと」「疑問」など、子どもたちが次々に話す(書く)といった活動を習慣づけ、ある程度の所で限定し検討させていくことを重ねれば、見方は育っていくだろう。

 授業の流し方に、もっと意識的にならないと「反応力」は鍛えられない。

どこまでお膳立てするか

2007年02月07日 | 教育ノート
 大人は1回に五じょう、子どもは大人より少なめを、食後三十分ぐらいに、かまずに水などで飲んでください。

  ある教材社からでている「思考力トレーニングシート」にあった例文である。
 薬の飲み方についての説明という設定で、この文章のわからないところを指摘する問題である。
 
 授業補充で、このシートを使用してやるように頼まれた。
 授業として扱うとすれば「シート→練習→まとめ」か「例題→シート→まとめ」のどちらかだろう。
 飛び込みでもあるし、ここは無難に?後者でいくこととする。
 全体で例題を解いてから、シートで個別に作業させようと考えた。

 考えた例題は、次の通り。遊園地にできた新しい乗り物の注意書きという設定であることを説明してから、黒板に書いた。

 この乗り物は、お年寄りや身長の小さい人はのれません。
 ほかの乗り物の二倍ほどお金がかかります。
 また、何回も乗るのはやめてください。

 板書しただけでは、あまり表情は動かない。
 「なんか、この文章、変じゃない」と誘ってみると、目を見開いた子が数人。
 「この表し方では、はっきりしないなあと思うところがあります。見つけた人はいませんか?」
と問うて、18人中7人の手が上がった。

 表現が不明確であったり曖昧であったりする箇所を指摘し、限定する必要を感じさせることがねらいであるが、例示文章だけではなかなか難しく、「状況」「目的」「対象」などをイメージしながら考えていくことになる。
 そのために状況説明を加えてから始めたが、やってみた後に「言葉への反応力」を鍛えていくためにはお膳立てしすぎのようにも感じた。
 
 例題の文章を決め切り出し方を考えたときに、文章だけ投げ出し「何だと思う?」から始めようとも思ったのだが、散漫になる危険が高いと捨てたのだった。

 腰がひけたな、と正直に思う。

 次のシートではどうするか。

言葉への反応力を高める

2007年02月06日 | 雑記帳
 国語辞典の活用を全校的に導入しようと思ったきっかけはいろいろあるが、よく話題として「語い力」が出されていたことがある。
 即効力はないといえ、辞典に親しみ、辞典で調べることをおっくうがらなければ、語い力を高めていくきっかけにはなると思った。
 
 すぐに辞典で調べることに対して、例えば「頭の中の辞書を使うことが大事」という論もある。つまりわからない言葉だからといってすぐ調べず、いったん自分で予想するという活動を入れ、文脈をたどったり字の構成をみたりして、類推する力を高めようということだ。
 新任の頃、そうした「意味調べ表」を実践したこともあった。

 教育出版の情報誌『Educo』を読んでいたら、ジャーナリストの池上彰さんがこんなことを書いていた。

 こどもニュースの場合は、一生懸命、難しい言葉をわかりやすく説明しようとしていました。でも、エジプトのルクソールでテロ事件があった時のことです。このときに「ルクソールとはナイル川のほとりにある町です」と説明しようとすると、子どもが「ほとりって何?」と言うんです。じゃあ「ほとり」を「近く」って言いかえようかと思ったら、先輩がちょっと待てと。(略)うんと離れていたらナイル川という例えを出さない。ほとりという言葉がわからなくても、何かナイル川の近くらしいと文脈からわかるはずだ。これは、あえてこの言葉をこのまま使うべきだと。つまり、そうじゃないと新しい言葉って覚えていかない。

 辞典を数多く引いたからといって、そのまま言葉を覚えたことにはならない。
 文脈の中で使って初めて「言葉をものにする」ことができるのだろう。池上氏のこの例は教室現場でもよくあることだし、教師はそのことをよく心得る必要があるだろう。
 
 では、なぜ辞典なのか。
 改めて考えると「言葉への反応力を高める」「言葉へアタックする術をつける」ということになるはずである。
 
 文脈の中で探るということも大切な活動であり、習慣づけたいことだ。その習慣の下地のためには、言葉に対して敏感に反応することが必要だし、下地作りとして「辞典」という世界と向き合っていることは有効になると結論づけたい。

 「言葉への反応力」と書いてみて、そういえば昨日の授業補充もそれに近いなあと改めて気づいた。次回へ。

字が読めるから自分で考えない

2007年02月05日 | 読書
 独特のロジックがあるので読みきれないことも多いのだが、池田晶子氏の文章には時々はっとさせられることがある。
 例えば新刊(といっても週刊誌連載のまとめであるが)の『知ることより考えること』(新潮社)には、こんな一節がある。

 私は時々思うのだが、もしも賢い人間になろうと思うなら、あるいは賢い人間に育てようと思うなら、人間には学力などない方がよいのではないか。いや極論すれば、字など読めない方がよいのではないか。
 ちょっと考えれば気がつくことだが、我々は字が読めるがために、自力で考えるということをほとんどしていない。


 かなり逆説的、というより皮肉な言い回しのように思えるが、100%捨てきれない要素もある。
 これは「文字」に振り回されているばかりの人間を批判しているのであり、本当の「知識」を持っているのか、「思考」しているのか、という問いかけであろう。

 字を知っているがために、あることを読んだだけでわかった気になってしまっている、書いた人の考えをうすっぺらにしかたどらずただ文字という情報を処理してしまっているのではないか、という危うさは確かに感じる。

 池田氏は、書かれている内容の本質に迫らない受験のための攻略法など「学力とは、いかに自力で考えないかという技法に他ならない」と言い切る。
 「情報」と「知識」そして「学力」と「思考力」。それらの違いは何か、と思わず立ち止まって考えざるを得なくなった。

 小学校で教えることをよき「習慣」と位置づけたとき、「学ぶ」と「考える」もちろんどちらも大切だが、その比重のかけ方という視点で現状を見直してみることが必要かもしれない。

 それにしたって、「文字」を教えることが最重要な中身であることは違いない。
 そのことによって、本を手にし、人に伝える術を広げられるのだから。
 
 池田氏にしたって、莫大な文字を読んできたからこそ今のように思考を深めていることを、否定するわけがない。

朱墨の筆ペンが狙い打ちする

2007年02月04日 | 雑記帳
 録画してあった『プロフェッショナル 仕事の流儀』をみた。
 今回はスペシャルで「仕事術」がテーマである。

 最初に登場したのは新浪剛氏。
 ビジネス界でも著名なコンビ二チェーン社長である。

 「危機管理」がテーマなのだが、見ているうちに目についた道具があった。

 朱墨の筆ペン

 新浪氏のメモノートに書かれている朱色の大きな字を見て、あれっと思い、映されているデスクの傍らを見ると、確かにそこにあった。
 黒色の字もあったので、普通の筆ペンも併用しているのだろうが、その意外性に惹かれるものがある。

 何故に、筆ペン。
 
 そういえば、四年生か五年生かの書写の補充にいったとき
「筆の特徴」について考えさせたことがあった。
 
 一本で太くも細くも書けることが何よりの長所であるし、線の強さの表現もできる。

 新浪氏は「危機管理」のための最大のツールとしてこのノートを使用していると言う。
 疑問を感じたときや違和感があるときなど、すぐさま書き込む、つまりその時々の感覚を大事にして書き付けていくことになる。
 表されたノートには、字の大小や線の強弱が確かに感じられ、図や矢印も含めそれは思考の跡のようにも見てとれた。
 
 そのための道具として、筆ペンは実に重宝なのかもしれない。

 道具を使いこなす…結構深いことだと改めて感じた。

 次に登場した編集者の「手紙術」で使われていた筆記具は、おそらく100円程度の「水性ボールペン(青色)」であった。
 その手紙を書くのに必須であるらしい。

 始まりは偶然か意図的か知るすべはないが、どちらも強力な武器に見えてきた。

指導法へのこだわりから見えてくる

2007年02月03日 | 読書
 『口唱法とその周辺』(下村昇著 高文研)は全部で十章からなっているが、大きく二つに分けるとすると、三章までが一つの区切りである。

 三章までは、漢字の字体の話題である。
 ある漢字の正誤に関してマルにするかバツにするか、担任であれば誰しも悩んだ経験を持っているはずだが、その「不安」について明確な答を出していると言ってもよい。
 それは、二章のタイトルにもなっているように「書き取りで子供を苦しめないために」という願いに基づいているし、また漢字を「伝える道具」として明確に位置づけているからとも言えるだろう。

よこぼうの長短を意識して書き分けないと読む人が間違ってしまうような字

といった場合に「明確な書き分け」が必要であること、

「きへん」「うしへん」などが筆勢ではねたとしても許容である。ただし、「てへん」はしっかりはねるように指導する

というように幅広くとらえること、

 そもそも漢字には便宜上な分類がたくさんあると例を出しながら、納得の論を展開されている。

 四章以下が、「口唱法」の実際に関わる部分である。
 私自身も存在は知っていたが、また似たような指導を断片的にしたこともあるのだが、こうしたボリュームで文献を目にしたことや、まして指導の実際を目にしたことがないので、興味深かった。

 当然のことながら、漢字を分解的に見て口唱法が行われるが、その方法では若干学年配当漢字とのズレが生ずる。例えば4年配当の「議」は「ごんべんに、ソ王の我」となるのだが、「我」は六年配当である。その点での留意は必須となる。
 また、低学年ではタンバリンなどを使ってリズミックに教えていく場面があるが、個人差への対応など細かい配慮はかなり神経を使うかもしれない。

 いずれ、一つの指導法を追究することは指導に伴う障害?をどうこなしていくか徹底的に吟味することにつながる。
 そして、それによって様々な原理が見えてくるということにもなる。

 下村氏の指導の実際、特に全部を教えないで子どもに委ねながら発見させていく手法などは、一つの指導法にこだわっているからこそ、明確に浮かび上がってくると言える。