すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

教育の原則は「手入れ」である

2007年04月10日 | 読書
 先月買っておいて、まだ手をつけていない2冊の本を読み始めた。

『人生の疑問に答えます』(養老孟司・太田光 NHK出版)
『身体の知恵』(齋藤孝 大和書房)

 かの養老先生が、こんなことを書いている。

 子どもには、絶えず手を加えては反応を見て、手を加えては反応を見る-この繰り返しが必要なのです。しかし、手入れをするのではなく、教育というプログラムを組んで、そのプログラムどおりにやればいい、というのが今の論議なのです。
 
 子どもを「自然」ととらえる養老氏の主張が伝わってくる。
 コントロールではなく「手入れ」…その視点はかなり決定的である。

 読み終え続いて手を伸ばした齋藤氏の本は、スポーツをテーマに書かれたものであるが、その冒頭は内田樹氏との対談になっている。共通項を持つ二人の学者が「型の教育」について語り始めたとき、内田氏の発言が養老氏の言葉とつながっているなあ、と素直に思った。

 だから規制を自己目的化してきはいけない。規制をかけて、子どもがどんな反応するかを見て、それに応じて手を変えていくというように、仮説を絶えず検証しながら功利的に活用すれば、「型」の教育はうまくいくと思います。
 
 教育に当然プログラムは必要であるが、その運用について様々なことを見落としてきているのが、現在の教育を巡る状況のように思う。

 現場での軸足がぶれない人はきっと感じている。
 いくら法が改まろうと、新しいプログラムが出ようと、大切なことは変わらない。

 手入れは努力、辛抱、根性が必要になります


 と養老氏はシンプルに書いているけれど、まさに言いえて妙である。
 
 私たちは、何かを大量生産しようとしているわけではない。

「現在進行形」を目覚めさせて

2007年04月08日 | 雑記帳
 崩壊している学級を受け持ち、崖っぷちにたった鹿嶋の背中を押してくれた元同僚の言葉

 「鹿嶋さんらしくないよ」

 この一言によって「教師をやめるか、人間をやめるか」まで追い込まれていた鹿嶋は再び前進を始めたという。

 先週のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」の一こまである。

 格言めいたことでもなく、説得や具体的なアドバイスでもないその言葉が、心に響いたのは、やはり鹿嶋の中に反応するものが作られていたからである。
 それは、自分を信じる心と言ってもいいかもしれない。

 自分の今までやってきたことが通用しないことで、人は自信を失う。しかし、その過去の仕事が効力を発揮できなくても、立ち向かっていった時間は自分を形作ってきたはずだ。
 それを見失わなければ大丈夫である。
 そのあり方を鹿嶋は「現在進行形の人」と表現した。

 しかし「女金八」と形容された鹿嶋でさえ、時に負けそうになる。
 名もなき平凡な教師が生き抜いていくために不可欠なのは、けして一人にならず支えあう姿勢だと改めて思う。
 「大丈夫、大丈夫」と声を掛け合える「現在進行形」の仲間が必要だ。

勉強不足の苦味がこみ上げる

2007年04月06日 | 読書
 『下流志向』でぐんと知名度が上がったと思われる内田樹氏を、私はとりあえず、ほめる。
 それは、内田氏の次の記述が自分自身とよくフィットしていると感じられるから。

 私は(よく理解できないけれど)理解したいと思うものについては、「とにかく、ほめる」というスタンスを自らに課している。経験的には、「よくわからなくても、ほめる」ことによって、「よく分からない」対象への理解は確実に深まるからである。

 ウェブサイト上の時評的エッセイをまとめた『子どもは判ってくれない』(文春文庫)の内容も、実を言えば半分ほどしか理解できないのだが、はっとさせられ読み止ったり、なるほどと頷いたりする頻度は本当に多かった。
 辞書的な意味ではなく、言葉を読み解くという姿勢に貫かれていることが例えば次の三つにもよく表されている。

 想像力というのは、現実に存在しないものを想像的に現前させるためだけに使うものではない。現実に存在してはならないものを決して現実化させないためにも用いるものなのである。

 「高度情報化社会」というのは、要するに「情報」が基幹的な「商品」や「財貨」として流通する社会、「情報を持つ者」と「情報を持たない者」のあいだで社会的な「差別化」「階層化」がなされる社会である。

 一人の国民は、その国を代表する。その国を代表して、他国民を糾弾する権利があり、他国民を許す権利があり、他国民の前にうなだれる権利がある。私は国民国家というものは、そのような一人の国民の「代表権」の幻想のうえにおいてのみはじめて健全に機能すると考えている。

 内田氏は、想定読者を「過去の自分」におくという。二十歳の自分が読んでもいいたいことが伝わるように書かれたその本は、折々のトピックそのものに左右されない強靭さを感じることができる。
 それは、私のように時評に詳しくない者にとっても有難いことなのだが、同時に何もかも中途半端な知識しか持ち合わせていないので、輪郭がぼんやりしている面もあった。
 理解したいと思ってもこれからじゃ追いつけない部分が大きいなあ、と少しため息も出てくる本である。そして、そんな自分に宛てられたかのような一節も書かれてあり、勉強不足という苦いものがこみ上げてくるのを感じながら、ページをめくっている。

 「しなかったことについての悔い」は長い時間をかけて「悔い」として根を下ろしたものであり、その「悔い」そのものが人格の一部をなしているような種類の「悔い」であり、「してしまったことについての悔い」というのは、「できるだけ早く忘れた方がいい」種類の「悔い」であって…(中略)…どちらの「悔い」がより毒性が強いか、考えてみればすぐに分かる。
 

「新」を人の力によって得る

2007年04月05日 | 教育ノート
 新年度の学校報に「今週の一字」というコーナーを設けてみた。折々にあったひとつの漢字を掲げ、字源などを紹介しながら、願いや思いも記していこうと考えた。判型を小さくしたのでスペースはかなり制限があるが、ワンポイントで伝えられるように工夫したい。

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 部首である「斤」は、斧(おの)を表しています。「新」はもともと「木の切り口が新しい」という意味を持っている字ということです。それは単なる時間の流れが作り出すのではなく、人の力によって得られるものだということも示しているようです。

 今日から新学年としてスタートする子どもたち。新しい教室に入り、新しい教科書やその他新しくなった持ち物も結構あるでしょうが、「心」もまた新しくする必要があります。
 前の学年で身につけたことを生かしながらも、思い切って「斧ですぱっと切る」ことによって新しい断面を作り出し、ぐんぐんと進んでいけるような4月にしたいものです。
(4/4)
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呆れられながらも言い続ける

2007年04月04日 | 雑記帳
 国家が子どもたちのいじめ問題を取り上げなくてはならないということそれ自体が、この国の見識と水準を明瞭に示している。本来は恥ずべきことだという認識をまずは持ちたい。

 宮川俊彦氏らしい切り出し方だと思った。
 ある出版社から送られてきた見本誌に載っていた『「いじめ自殺」異論』という文章の冒頭である。
 
 「表現教育者」という肩書きを持つ宮川氏は、メディアの責任について厳しく言及しているが、「評論の分析やその上の評論をしても仕方がない」として、「対応の基軸」を五点を示している。
 私なりにキーワードを拾い上げまとめてみると

 「教えたら覚えて従う」という論理からの脱却
 多元的多角的な視点や観点や思考の方法を常に獲得できるような教育方法の現場化
 クラスは社会であるという認識の再構築
 社会から一定遊離し、文化や教養を教えていく場としての学校
 本格的な言語政策上のプログラムの整備


 今まで読んだ宮川氏の「作文指導」に通じる要素があると思った。
 そういえば、作文を通じて社会に働きかけるという視点が強く出ている実践もあった。学校の国語科の授業としてはかなりの覚悟を持つ必要があると感じたことを覚えているが、そのレベルでは力を持ち得ないことを改めて思い知らされる。

 現場人が実践を通してこの現状に立ち向かおうとするならば、やはりもっと深く考え、一つでも二つでも創造的なものへ内実を変えていく必要がある。

 問題意識や「なら、どうするべきか」という問いを常に掘り起こしていくような思索の教育が現場から後退している

 こうした現実認識を口に出して、呆れられながらも言い続けていく必要があるのかもしれない。
 たくさんの人に呆れられたとしても、私は宮川氏の結びの一言を支持したい。

 「いじめ?それがどうした」。この国の再建に君は何をするのだ。
 

「学校効果」をどう捉えていくか

2007年04月03日 | 読書
 『効果のある学校』(鍋島祥郎著 解放出版社)を、ようやく読み終えた。

 自分にとっては難しい本だった。
 前に書いた問題のことや、欧米の学校の実態について知識がほとんどないので、イメージしにくいことがその原因だろう。しかし、著者自らの学校体験に基づく考えには、はっとさせられることも多く、その意味ではずいぶんと立ち止まって考えさせられた本だと言える。
 解釈めいたことはできないが、心に残ったことを備忘録として掲げておきたい。

 まず、この本の場合の「効果」とは何か。次のことを言っている。

 人種・階層的背景による学力格差を克服しうる学校の力を「学校効果 school effectiveness」と呼んでこれを測定し…(略)…
 中心になる記述は、人種・民族問題を抱えるアメリカのものや、国内の被差別を持つ学校同士の比較などだが、ここで導き出される結論は、「階層社会」という形容が頻繁に聞かれるようになった現在の日本にも十分に適用するものなのかもしれない。
 「効果のある学校」は、次の5つの特徴を持つという。(エドモンズの調査研究による)
 校長のリーダーシップ   教員集団の意思の一致  
 学習環境   教師の姿勢   学力測定とその活用

 どれも肯けるものであるが、これらの特徴がそれぞれにつながりを持っていることに注目したい。個別にある特徴が浮き上がるものではないはずだ。エドモンズは、特に最後の「学力測定とその活用」が最も強く、それぞれの要素を動かす力を持っているとしている。
 これをそのまま日本の学校に適用できるかどうかは別にしても、「効果」を示すためには「変化」に対して敏感であることがまず要求されるという、至極当然のことを改めて考えさせられる。

 私が強い印象を受けたのは、筆者の体験(6歳で米国に渡り3年後に帰国して、日本の学校に通った)に基づく、日本の教育批判、学校批判である。

 「学校で教えようとしていることを、学校が期待する水準まで、すべての子どもたちにマスターさせること」をしっかりと学校の使命として掲げている学校は、日本では筆者の知る限り見あたらない。

 道徳を身につけろとか人権を尊重せよと公共性を子どもに要求するのであれば、その前に、少なくても様々なハンディキャップを抱えている子どもたちを救済する責務があるのではないか。
 

 だからといって、筆者は米国の教育の優位性を訴えているわけではないが、我が国の教育全体のシステムを考えるうえでの提言として、確実に一方に存在する論理だと思う。現実と照らし合わせてみたいことだ。

 家庭教育の重要性が叫ばれ、それが「自己責任」という言葉に結びついているように感じる。しかし、公教育の場でそれをそのまま子供たちに当てはめることなどできない。
 その言葉の持つ「突き放しの視線」を吟味もせずに、流行のように追従していくことは戒めなければならない。

助走を始める前に

2007年04月02日 | 雑記帳
 いよいよ仕事始めである。
 
 まだ漠然としたままなので、この二日間で自らのテーマも輪郭をはっきりさせなければならない。
 絞り込めのために、いくつか「表」に出してみよう。

 実践面では「表現」ということになる。
 学校の研究テーマとして取り上げるかどうかは定まっていないが、いずれにしろ子供たちに育みたい力だ。
 もちろん、言語を中心としたものになろうが、今年度はある教科で2学年ばかりお手伝いすることになっているので、その面でどんなことがやれるかも考えてみたい。

 一人一人の授業力向上に向けて、どんなサポートができるか、これをもう少し形にしてみたいと思う。
 昨年度は「セミナー」という形で野口芳宏先生をはじめ数人方々に来校していただいた。その刺激は大きかったはずである。それをどう生かすか…授業についての意識を高めている姿を、どんな姿として具現化するのか。

 地域の問題がある。
 「適正規模」が声高に叫ばれている。行政のプランはまだ示されていないが、小規模校に通わせている保護者の心は、けして安定しているとは言えないだろう。
 「ここに学校がある」意味を、みんなで考えることができたらいい。
 それは、将来的な姿がどうかというより、子どもを育てるという意味を考えることだと思う。
 何らかの働きかけをしたい。

 自分の学びはどうか。
 「頭で考えたことと行動することのギャップ」を「老い」と呼ぶらしい。
 進行しているのは止むを得ないことなのだろうが、即行動だけが善とは呼べないことは確かだ。
 選び抜かれた行動、これが大人というものだろう。
(つまり、味がある振る舞いみたいなことでしょうか。遠そうですね)